はじまり
なんだ。
俺は一体こんなところで何をやっている。
全くもって理解が追いつかない。
そもそも、俺はどうやってここにきた?
記憶に靄がかかったようで、上手く思い出せない。
では、基本的な自分の情報についてはどうか。
自分の年齢…34歳、独身男性、だったよな?
日本の東京に一人暮らししていて…。
やっぱりだめだ。意識がハッキリしない。
記憶を詮索しようとすると、はしからフタがされてしまうような感覚があった。
まあ、思い出せないものは仕方がない。
男は諦めが肝心だと言うし、それはひとまず置いておくことにする。
では、改めて現在の状況を整理してみる。
どうやら俺は畳の上に正座しているようだ。
何故に畳で正座?と頭の節々に疑問符が浮かび上がるが、こちらも一旦置いておこう。
気を取り直してあたりを見回してみる。
6畳一間程の部屋の中に、年代物のダイヤル式ブラウン管テレビ、使い込まれた色合いのちゃぶ台、昔の家庭には馴染み深い日付メインの日めくりカレンダー、などなど…。
まさに、日曜夕方に放送されている某国民的アニメを彷彿とさせる空間だ。
ちくしょう。昭和の終わり頃の生まれだっていうのに、懐かしくて涙が出てきそうだぜ。
「おーい」
突然の声に驚きながらも、正面に視線を向ける。
そこには堂々とあぐらをかいて座っている女性がいた。
その女性はちゃぶ台に片肘をつき、顎に手をあて、ひどく冷めた表情で俺の方を見ている。
何故気付けなかったのか?
先程までは明らかに気配が無かったように思える。
それだけ俺が混乱してしまっているのかもしれない。
少しでも冷静になろうと、目の前の女性を観察する。
年齢は…20代後半?といったところか。
細身な体つきで、顔立ちは整っており、まごうことなき美人さんである。半纏を羽織っているところは、この場所に似つかわしいと言っていいのか。
「んで、どうじゃ?」
「は?」
突然の予想外の発言に、思わず言葉が漏れてしまった。
それにしても、これは試されているのか?
状況としては、混乱しないほうがどうかしていると思う。
自分が何者であるかはなんとなく認識できている。
しかし、なぜここにいるかの経緯などを説明せよと言われれば、やはり記憶に靄がかかっており思い出せない。
その事を正直に話そうと口を開こうとする。
しかしその前に、彼女はあからさまに不機嫌そうな表情で溜息をついた。
「つまらんわ。あーつまらんわ。つまらんわ」
「いや俳句だとしたら季語がないですね」
俺の中での最高のツッコミが決まった。
やったね。
と、こんな時でも平時の自分を保てていることにとりあえず安心していたのだが、そんな考えは彼女の様子を見てすぐに後悔に変わっていた。
彼女は親の敵かといわんばかりにこちらを睨みつけており、あからさまに不機嫌な様子が表に出ている。
「…つまらんと言っているのじゃ。なんじゃその落ち着いた様子は?取り乱したりせんのかまったく」
「これでもかなり混乱はしていますが、私もいい大人ですので。表に出さない処世術くらいは学んでいますよ」
「ほう。まあ良い。とにかくじゃ。これからわしが言うことをよく聞いておけ」
彼女は腕を組み、口の端を釣り上げニヤリと嘲笑う。
次の瞬間、彼女はその長い黒髪をたなびかせて勢いよく立ち上がり、高らかに宣言した。
「聞け!人間!吾こそは偉大なる神!それ以上でもそれ以下でもないホンモノの神なのじゃあ!!」
「あっ神さんておっしゃるんですね。では、下のお名前はなんて?」
「あっ、名前は綾と申しますー。苗字が神なんで、よく課長にイジられちゃって大変なんですよねー。神のくせに仕事ぐらいちゃんとしろって、いっつも。もうしつこくて〜。
あっ、綾の字はですね、綾○って飲み物知ってます?あの綾って漢字書くんです。そういえば最近抹茶ラテ味がでまして、それがまた美味しくて。是非飲んでみてほしいというか……はっ!?」
ここに驚愕の事実が発覚した。
なんと神様は神さんでそこらへんにいるOLさんだったのだ。んなあほな。
「は、計ったな!??」
ぐぬぬぬを地でいってそうな表情を浮かべる神さん。
美人さんらしからぬ可愛らしい1面をお持ちのようだ。
「い、今のは聞かなかったことにしておけ!!いいな!?」
「はあ」
「ふぅ…さて、本題に入るとするかの」
どうやらここからが本題らしい。
正直、何が何やらまったく理解できないことばかりなので、こちらとしても聞きたい事が山程ある。
「さっきわしはなんて言った?」
「抹茶ラテが最近のお気に入りだと」
「もっと前のやつじゃ!!大事なこと言ったじゃろうが!」
神…。
この場合の受け取り方は文字通りの意味ってことか。
しかし、神なんてものは信仰によっても違うものであり、それこそ無宗教の俺には都合のいい時に引っ張り出してきて勝手に祈るくらいのものでしかない。
「あなた様は神さんであって神様なんですか?」
「物凄く不愉快極まりない言い方だが、まあ合ってはいるので良しとしよう。
…いや、よくない!神様であって神さんじゃ。順番は大事なことじゃぞ」
突然『私は神様だ』なんて宣言されても、そんなものは夢か幻くらいにしか考えられないのが普通だ。
しかしながら、理屈ではわかっていてもこの状況になにか得体のしれないものを感じているのも事実だった。
「おっ、ようやく動揺してきたか?ちなみに夢でも幻でもないぞ」
さすがにこういうところは神様っぽいではないかと、不覚にも思ってしまう。
「いくつか質問しても?」
「よかろう」
まず現在の俺の状態といえば、絶賛記憶喪失にある。
自分がなぜここに来ているのか経緯が知りたい。そして、この場所についてだ。
これについて割と真剣に問いただした結果がこちらだ。
「そのうちわかる」
「ここ?ウチのお気に入りのプレイス。イケてるっしょ?いえーい」
神様だかなんだか知らんが、これだけは言わせてもらおう。
…サーセン、ブチ切れていいすか?
「というわけで、わしが偉大な神様じゃってことがわかってくれたかの」
分かりたくもないのが本音ではあったが、もはやそうあってほしいと願う自分がいる。
なにせ、この状況下では文字通りの神頼みといったところだ。
なんなら神以外でもすがりつきたい所存である。
とりあえず少しでもヒントを得る意味でも、別の質問を問いかけてみることにする。
「それで、俺ってばこの後どうしたらいいんでしょうか。帰れといわれても、ここどこなんだか本当にわかりませんし」
いつも持ち歩いていたはずのスマホや鍵、財布などもまったく見当たらない。
現代社会でこれだけ軽装備では、警察に泣きつくくらいしか策が思いつかない。
「ああ、それなら心配いらぬよ。これからわしのウルトラミラクルな力でかっとビングじゃからの」
あの、神さん?語彙力とかおかしくなってませんか?と浮かんでくるツッコミという名の疑問符を払いのけ、質問を重ねていく。
「もう少し具体的に教えてはくれませんかね」
「えーめんどいのう。まあ、後々嫌でも説明してやるから安心せい」
神さんはニヤニヤといった様子でこちらに視線を送ってくる。
いや、安心しろと言われても。
この状況下で安心できるツワモノがこの世にどれだけいるっていうのか。いや、いたとしても少数派に違いない。
そんな事を考えていると、急に神さんは何か思い出したといったような表情を浮かべ、腕時計を見る仕草をみせる。
「…あーそろそろ時間じゃ。たく、色々説明してやろうとしたものを、話を脱線させまくるからじゃぞ。まあ自己責任と言うやつじゃな。諦めろ」
安心しろと言われた途端に不安になるようなことを言わないでほしい。
というか、神様のくせに時間に縛られているのはなぜなんだ。
本当にただの風変わりな思考をお持ちの、愉快なOLさんなんじゃないのか。
「今日はマブダチのエリちゃんと新作のコンビニスイーツを買い込んで、会社で品評会をするという重要な使命があるものでな。そろそろ出なくては。まあとりあえず向こうに行っても達者でな」
そう言った神さんは、毎朝のおはようくらいの気軽さで片手を上げた。
「じゃっ」
「へ?」
その瞬間、視界が歪む。
目の前の景色が圧迫され波のように動き出す。
もはや神さんの姿をまともに認識できなくなっている。
しかし、かろうじて残った聴覚に神さんの声が届く。
「あっ、言い忘れておった。そなたはこれから裸一貫で異世界行きじゃから。そこんとこよろしく」
いやよろしくされても困る。
そういう大事なことは最初に言ってくれと心のなかで唱えながら、やがて俺の意識は途絶えたのだった。