菊 其の三
初めて彼女を見た時、まるで幼子だと思ったのを覚えている。
「一枚」
私、今夜死ぬんです
「二枚」
だから、貴女に頼みたいの
「三枚」
井戸の傍に立って、恨めしやって言って欲しいだけ
「四枚」
蝶々さん、私ね
「五枚」
あの人をとても愛していたわ
「六枚」
あの人もそうだった
「七枚」
だけど、あの人と結ばれるのは別の女
「八枚」
私、悔しくて
「九枚」
だから
「一枚足りない」
ふふ、と彼女は笑う。
「嬉しい事。そうでしょう」
ねぇ、と彼女は顔を上げる。
「播磨様」
何故と訊くと、彼女は口元を綻ばせた。
だって
「菊」
青山播磨は、よろりと前へ出る。
「何故、斯様な事をするのだ、菊」
答える代わりに、菊はまた笑う。
「恨めしいこと、播磨様」
家宝のお皿を割ってしまえば、お祝い事は出来ないでしょう
「何故、私だけを」
私が死ねば
「愛してると言ったりしたの」
あの人は私の事だけを考えて、想ってくださるわ
そうでしょう
彼女は首を傾げて、怪訝に見返した。
「菊」
「私は」
ねぇ、蝶々さん
「私はこんなにも」
私は
「貴方を愛していたのに」
「菊」
青山は、また前へと出る。
「お恨み申しますわ。貴方が、貴方の言葉が」
「菊」
「菊を縛る」
ねぇ
「罪なお人」
菊は笑う。首を仰け反らせて、笑う。
「菊」
「ねぇ、播磨様」
私は
「菊は」
「菊」
狂っているのかしら
「狂っているのかしら」
恨めしい
「なんて馬鹿な女の性よ」
恨めしや、青山
「菊」
震える男の手が、冷たい身体に触れ、
「覚えておるか」
その身体を引き寄せる。
「何を」
「私は覚えておる」
青い月が、、雲の隙間に顔を出す。
「例え現世で結ばれずとも」
丁度、こんな夜だった
「必ずや、あの世で、次の世で結ばれよう」
私達はそう誓い合った仲ではないか、と男は囁く。
「恨みに食われ、忘れてしまったか」
菊、菊。女の名を何度も呼びながら、男を腕に力を込める。
ざわり、と風が鳴る。
どん、と菊は急に男を突き飛ばす。
風が、女の黒髪を攫った。
「その言葉が」
井戸の縁まで下がった女は降り乱れた髪を掻き上げる。
「菊を縛る」
紅い唇の端が皮肉気に上がる。
「あたしは、そう言ったでしょう」
冷たい石に手をかける。
「罪なお人」
ふわり、と女は笑った。
ぐらり、と女の身体が揺れて
「播磨様」
井戸の中へ吸い込まれた。
やはり、水の音は聞こえなかった。




