菊 其の一
何だい旦那さん、青い顔しちまって
本当にお吉さんが化けて出たんじゃないんだよ
当たり前だろぅ、お天道様が西から出たって死人が起きあがったりするもんか
そもそもあの笹川って侍は酷い男でね
良いようにお吉さん騙し空かして、挙げ句には、良い所のお家に婿入りするから、って
縋るお吉さんを切り捨てたのさ
お吉さんにはお兄さんが居てね、その人が頼んだんだ
そう、化物屋に頼んだんだよぅ
あの後笹川は川に浮かんでいたそうだよ
叫びながら落ちていったのを見ていた奴がいたんだ
お吉さんの敵は取れたのさ
その日は連日の重い雲を忘れさせる、見事な冬晴れだったと思う。
行き交う人々は皆、白い息を弾ませながら忙しなく入り交じっている。
そんな喧噪をを遠くに聞きながら、彼女はその建物の前に立った。
戸口に下げられた藤色の暖簾には美しい蝶や花が染められている。
その向こうは様子を感じ取る事を拒む様に、ただ静かだった。
ふと、流れてきた微かな甘い香りに釣られて、彼女は軽く顔を仰ぐ。
目を凝らすと、通りに面した二階部分の窓から細い紫煙が薄く立ち上っている。
その白い筋を見て、彼女は眼を閉じた。
胸一杯に空気と紫煙の香りを吸い込むと、何か心に決めた様に正面を見据え、暖簾に手をかけた。
「御免下さいまし」
建物の中は小綺麗に片づけられ、所々に派手な扇や櫛やら飾ってあるが
何処か人の温もりを嫌がる静寂が流れている。
「御免下さいまし」
裂けた静寂がまたゆっくりと戻ってくる中、もう一度奥に声を掛けると、今度は若い娘の声が直ぐに帰ってきた。
「何かご用で」
小走りに出てきた質素な身なりの娘は、彼女に目を留めそこで言葉を切る。
娘はしばらく彼女を見て、お二階です、と言って、また奥へと戻っていった。
その背に礼を言って、彼女は上へ通じる階段に足を掛けた。
二階から差し込む光が、現在を忘れたくなる程に暖かく穏やかで
足を止めて、彼女は、ほぅ、と息を吐いた。
こんな時間の流れ方が出来れば良かったのかもしれない
急な階段を登りきると、辺りは甘い香りに包まれて目眩がしそうだった。
並んだ部屋の一つが襖が半分開けられ、薄い光が漏れている。
彼女は、何も言わずにその襖を開けた。
あぁ、やっと
鮮やかな着物やら帯やらが散乱する部屋の窓辺で、ふぅ、と紫煙をが広がる。
やっとこれで
切れ長の眼が彼女を捕らえ、紅い唇の端が微かに上がる。
これで楽になれる
「蝶々さん、かしら」
真っ白い手で持った煙管を口にしながら、女はにやりと笑った。
艶やかという言葉がよく似合う。
優美な動作で座る様促される。動きに沿って、癖の無い長い黒髪が畳みの上に広がった。
散らかった物の隙間に座り、目の前で足を崩してくつろぐ色のある女を、じっと見る。
彼女の視線に気付いた女は、器用に左の眉を上げてみせた。
「貴女なら大丈夫そうね」
彼女は、ふわりと笑った。
「私は菊と申します」
外の光が眩しくて、眼を閉じる。
「ねぇ、蝶々さん。私ね」
ここが、変わり目だ
「私、今晩死ぬんです」




