宵の口
しん、と静まりかえる境内に、じゃらり、と玉砂利が鳴った。
ふいに雲の隙間から現れた月が、敷石と玉砂利をより強く白に照らし
男の陰を、そして腰の二本の鞘を一層濃い影にして、地に落とす。
−出来ない筈は、御座いませんよね−
口の端だけを上げた白面が、涼やかな声が低く圧する。
闇の中で思い出したあの若造。
考えるだけでも苦々しい。
何故、自分がこんな事を
また、月が雲に隠れる。
戻ってきた闇は男の陰を侵し、より強い闇に引き込まれていった。
男、笹川はその闇に誘われる様に本堂へとその重い足を引き擦っていった。
遠くで時を告げる鐘が鳴る。
前方にぼんやりと朱色に塗られた鳥居が見えた。
もう少しであの場所に着く
色の禿げかけたその根本に、白い塊が居た。
「お止めなせぇ」
突然、塊が口を利いた。
近くまで来れば、それは白装束の行脚だった。
行脚は尚も嗄れた声で言う。
「お止めなせぇ。少し前ぇにも同じ様に来たお侍ぇ様が居りやしたが、誰一人帰って来やしねぇ。同じ様な目に遭うのが末だ。悪い事は言わねぇ、お止めなせぇ」
下を向いている為顔こそ見えないが、行脚は肩を震わせながら、そう言った。
笑いながら、言っていた。
次第に大きくなる声を不気味に思い、笹川はその場を足早に通り過ぎた。
闇に飲み込まれるその背中に、ついには狂った様に笑い出した行脚が声を投げる。
「お止めなせぇ、と言ったのに」
表側とは打って変わって手入れの悪い本堂の裏手には、一層強い闇だけが広がっていた。
自分以外には誰もいない。行脚の言った先客も見当たらない。
やはり出任せか
適当は柱に寄りかかり、足下を何とも無しに見やる。
−その神社には、そこで殺された女が夜な夜な化けて出るそうです−
−何、笹川様程の刀の腕ならばそんなものの退治など、赤子の手を捻るに等しかろう−
−出来ない筈は、御座いませんよね−
誰も知る筈は無いのだ
誰も
どうして
赤が散る。
どうして、笹川様
黒子のある口元を戦慄かせ、女は叫ぶ。
笹川様
「笹川様」
柔らかな調子の女の声が、そう言った。
その声に、背筋を汗が伝う。
今まで見ていた視線のほんの先に、若草色の裾が広がっている。
震える眼を気力でどうにか支え、その裾から上を追う。
地味な柄の着物に、細い首
打ち掛けを目深に被ったその顔の
紅を差した口元にある、あの黒子
「笹川様、私をお忘れになったのですか」
女は小さく笑いながら、首を傾げる。
その幼子の様な仕草に、背筋が凍る。
あの夜、赤に染まっていった
あの女
「お前っ」
一陣の風が、打ち掛けを攫った。
その下の穏やかな顔に、笹川は咽を引きつらせた。
「お吉っ」
震える声に答える様に、お吉は笑う。
フフフ...
アハハ...
「嬉しい。やっと笹川様に会えた」
「お吉」
「ずっとずっとお待ちしておりました、笹川様」
お吉が一歩近寄る。
その口元から、左の肩から夜目にも鮮やかな赤が伝う。
「さぁ、笹川様」
「止めろ」
「私と一緒に」
その足下に一つ、また一つ赤が咲く。
「許してくれっ」
ふと、お吉は歩みを止めた。
「許してくれ、お吉っ」
女は、男のその姿を見て
白い咽を仰け反らせて笑った。
「お吉」
アハハハ....
「お吉っ」
「ねぇ、笹川様」
上を仰いだまま、お吉は口を開いた。ゆっくりと顔を戻す。
「許さない」
笹川は、男の叫び声を聴いた。
その悲鳴じみた声が、笹川自身の物と知る事は無かった。




