12月20日 4
結局瑞希は、その辺にあったタオルを勝手に借りて、シャワーを使わせてもらうことにした。三日も風呂に入っていないのである。もし、瑞希が期待しているような事態に陥ったとしても、こんな汚い体じゃ使い物にならないのだ。
置いてあったドライヤーを使って勝手に髪を乾かしていると、何やら台所で料理をしているらしき気配がし、みそ汁のいい匂いが漂ってきた。
――まさか、あの男?
急いで髪を乾かし、トレーナーとジャージを着る。確かに男物なので手は隠れたが、Sサイズなのでまあまあ着られる。瑞希は久々にさっぱりして一息つくと、鏡をじっと見つめた。
すっぴんの肌は、十七歳という年齢にしては少々疲れて、張りがない感じがする。多分、十四歳からずっとフルでメークをし続け、夜もたびたび落とさずに寝る生活が続いていたせいだろう。瑞希はため息をつくと、手のひらでその乾いた頬をゴシゴシ擦った。
――化粧品、買わなきゃ。
それには、あの男を何とかその気にさせなければ。瑞希は思いを新たにすると、洗面所を出た。
途端に、台所に立ち、慣れた手つきでしょうがを刻んでいる男の姿が目に入った。
瑞希は本当に驚いた。自分が知っている男……父親も、彼も、絶対に台所になんか立ったことがなかったからだ。母親が出て行ったあとも、父親は何か買ってくるか、何も用意しないか、自分だけ食べに出かけるか、引っ張り込んだ女に作らせるか……とにかく、料理など一度もしたことはなかった。彼も、もっぱら瑞希に作らせて、これはうまいだの、これはまずいから出すなだの、時には並べた料理をひっくり返して威張り散らしているだけだった。でも、瑞希はそれが当たり前だと思っていた。そういう男しか見てこなかったからだ。
男は瑞希に気がついて、振り返った。穏やかな笑顔を浮かべている。
「もう少しでできますから、そっちに座って休んでいてください」
瑞希は、隅に布団が畳んで積んである部屋に目をやった。ちゃぶ台のようなテーブルが出されているが、部屋にある家具は、先ほどジャージを出したプラケースが5個ばかりと、ハンガーラックが一つ。それにこのちゃぶ台だけである。あとはノートパソコンが一台と、小難しそうな本が何冊か隅の方に積んであるくらいだ。テレビもオーディオも、何もない。シンプルと言えばシンプルだが、何もなさ過ぎる。
――どういう生活してんだろう、この男。
瑞希はいぶかしみながらもタオルをその辺に掛けると、ちゃぶ台の前に座り込んだ。手伝おうにも、もう気力も体力も限界だった。ご飯の炊けるいい匂いが漂い、みそ汁や煮浸しのような匂いが鼻を刺激する。
瑞希はふと、祖母がまだ元気で、母親もいた小さい頃の食卓を思い出していた。
祖母が生きていた頃は、妹や弟と一緒に、丸いお膳を囲んでにぎやかに食卓についたものだった。でも、まず祖母が死に、次いで母が出て行った小四の冬からは、食事や洗濯、兄弟の世話などの仕事は一気に瑞希一人にのしかかってきた。それでも、彼女は中二まで頑張った。弟と妹が何とか瑞希なしでもやっていけるようになったのを見計らって、瑞希はあり金をつかんで家を飛び出したのだ。
仕事を探しても、身元が保証されていない瑞希が就ける職は限られていた。勢い、風俗に走るしかない。年齢を偽り、ソープランドで働いている時、あの男と出会った。
彼は最初は、優しかった。瑞希の身の上話を、じっくりと耳を傾けて聞いてくれた。そんな相手に、瑞希は初めて会った。嬉しかった。ずっと一緒にいたいと思った。
彼のマンションに転がり込んで、同棲を始めてすぐ、彼はシャブを勧めてきた。瑞希はどうなっても構わないと思っていたが、シャブだけは何となく怖かった。彼女の母親が家を出たのは、父がシャブに溺れたのが原因だったからだ。
断り続け、やめるよう懇願する瑞希に、彼は暴力をふるうようになった。だからあの時、瑞希はマンションを飛び出したのだ。小銭入れをつかんで、クリスマスソングのあふれる街に。瑞希は泣きながら走った。どうして自分には、安住の地がないんだろう。どうして自分には、あたたかいクリスマスが来ないんだろう。無性に悔しくて、悲しくて、涙が止まらなかった。
「寒くないですか?」
お箸やおわんを運んできた男が、瑞希を見やって問いかける。瑞希は慌てて首を振ると、男をじっと見つめたうつむき加減の横顔に、長いまつ毛が際だっている。すっかり乾いた茶色い髪が、その顔の周りでさらさらと揺れている。彼は台ふきできれいにお膳を拭くと、箸とおわんをきちんと並べた。
「全然大したものじゃないんですけど、良かったら食べてってください」
そう言って顔を上げると、恥ずかしそうに男は笑う。瑞希は曖昧に笑ってうなずくと、探るように男を見つめた。
――妙に優しいじゃん。
何か下心があるのだろうと瑞希は思った。だとしたら渡りに船だ。それに、死ぬほど空腹だったから、男の作ったうまいかまずいか分からない料理でも、とりあえず食べられれば何でも良かった。
男はどんぶりにご飯をよそると、野菜のあんかけのようなものをその上にかけた。卵でとじたあんかけは、とろみがあって何ともおいしそうに見える。ショウガの香りも食欲をそそる。野菜は苦手な瑞希だったが、思わずごくりとつばを飲み込んだ。
「どうぞ。お口に合うかわかりませんけど」
瑞希の前にどんぶりを置くと、男は自分の分をよそり始めた。どうやらどんぶりは一個しかないらしく、自分の分は茶わんに盛っているようだ。
瑞希は、男が席に着くのを待ちきれなかった。男が自分の分を作りに台所に行くとすぐ、どんぶりにかぶりついた。小松菜だろうか、青菜にしいたけ、鶏肉も入って、卵でとじてある。何だかよく分からないがとにかくおいしかった。瑞希は男が席に着いたのも気がつかないほど、しばらくの間、夢中でどんぶりにかぶりついていた。ナメコと豆腐のみそ汁も、体が温まって嬉しかった。
男はそんな瑞希の様子をほほ笑ましく見やりながら、自分も茶碗によそったあんかけを口に運んでいたが、食欲はあまりないようだった。
気持ちがいいほどの食べっぷりで、瑞希はあっという間に一杯目を完食した。
「あー、おいしかった!」
おなかがいっぱいって、何て幸せな気分なんだろう。思わず笑みがこぼれる。瑞希は死のうと思っていたこともすっかり忘れて、両手を後ろについてふうと息をついた。
「お代わりありますよ」
男が、そんな瑞希に優しく声をかける。瑞希はちょっと恥ずかしかったが、食欲には勝てなかった。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
男は、瑞希のどんぶりを受け取ると、立ちあがった。
瑞希はあっという間に二杯目も完食すると、さすがにおなかがはちきれそうになって、幸せなため息をついた。
「ああ、おいしかったー」
お世辞でなく、心から瑞希がそう言うと、男は笑って小さく頭を下げた。
「お粗末様でした」
「あんた、料理上手だね」
「そうですか?」
「あたしも料理は結構やるけどさ、これマジでおいかったよ。よかったら、今度作り方教えて」
「適当ですよ、こんなの。誰でもできます。きっとおなかが空いていたせいですよ」
男はそう言うと、みそ汁を飲み干した。
「とにかく、ありがとう。助かったよ……」
おなかがいっぱいになったら、突然、怒濤のような眠気が襲ってきて、瑞希はめまいがした。
「……やば。眠」
「泊まっていきます?」
男は空いた茶碗を持って立ちあがると、本当に何気なくこう言った。瑞希は、ああやっぱりこいつは、それが目的なんだなと思いつつ、うなずいた。
――ただ、迫られてもあたし、まともに相手できないかも。
男は手早くちゃぶ台を片付けると、隅に積んであった布団を広げた。
「僕ので申し訳ないですけど、どうぞ」
「……いいの?」
「ええ。あなたが嫌でなければ」
嫌も何も、もう半分意識は飛んでいる。瑞希は布団に倒れ込むように横になると、目を閉じた。このまま、裸にされようが何だろうが、多分起きないだろうと確信しながら。
男は、そんな瑞希に布団を掛けてくれたようだった。電気の消える気配と、扉をそっと閉める音。やがて台所から、洗い物を片付ける音が聞こえてきた。
その音をぼんやり聞きながら、瑞希はあっという間に眠りに落ちた。それから夢も見ないで、死んだように眠り続けた。




