12月22日 6
湖を渡る風が、焼けるように痛む瑞希の頬をなでていく。
男の拳は、いつまでたっても飛んでこなかった。いぶかしく思った瑞希は、恐る恐る閉じていた目を開けた。
そして、その目を大きく見開いた。
瑞希の目の前に、誰かが立っている。その誰かが、まるで瑞希を守るかのように背にかばい、無言で男とにらみ合っているのだ。
グレーのパーカーにジーンズ姿の、すらっとした男。茶色いさらさらの髪が、風に揺れている。
その後ろ姿に瑞希は、確かに見覚えがあった。
――紺野、くん?
「誰だ? おまえ……いったい、どこから」
男は拳を振り上げた姿勢のまま、ぼうぜんと問いかける。確かについ先ほどまで、この湖畔には自分と瑞希の二人きりしかいなかったはずだ。だがこの男は、本当に降ってわいたかのように、こつ然と目の前に現れたのだ。混乱するのは当然だった。
「すみませんでした、瑞希さん。こんな状態になるまで気がつかなくて……」
紺野は男の問いには答えず、後ろにいる瑞希を横目で見やってこう言うと、小さく頭を下げた。
無視されたと思ったのだろう、男は紺野の襟首をつかみ上げると、いきりたって怒鳴りつけた。
「誰だって聞いてんだよ、答えろ!」
裏返った声で叫ぶと、般若のような形相で紺野をにらみ付ける。だが、襟首をつかみ上げられた紺野は、眉ひとつ動かさずに男を見やると、静かに口を開いた。
「先ほど、警察に連絡しました。僕の話だけでは信用していなかったようですが、さっき市役所の方からも連絡が行ったようなので、間もなくここに来るでしょう」
警察と聞いて、男の顔色が変わった。紺野の襟首をつかんでいる手が、わなわなと震えだす。
瑞希はそんな二人の様子を、半ばぼうぜんと見つめることしかできなかった。突然の紺野の出現で、思考がほぼ停止状態に陥っていたのだ。
すると突然、紺野の襟首をつかみ上げていた男が、自分の懐にさっともう一方の手を入れた。
瑞希はハッとした。彼はいつもあそこに、護身用のナイフを忍ばせていたはずだ。自分はこのナイフで二人の人間を殺したと、いつも得意そうに言っていた。この男は人を殺すことなど何とも思っていない。このままでは紺野が殺されてしまう。瑞希の全身を、ぞっと寒気が走った。
「危ない! 紺野くん!」
瑞希は声を限りに叫んだ。だが、男の手に握られたナイフは瑞希の叫びより一瞬早く、紺野の懐を目がけて風を切った。
瑞希は固く目をつむって顔を背けた。
静寂があたり一帯を包み、風がさわさわと湖畔の芦を揺らして吹き抜けていく。
「おまえ……」
男の口から、驚きと戸惑いを含んだつぶやきがもれた。
その声に、呼吸すら止めて動けずにいた瑞希は、目を開くと、恐る恐るその目線を二人の方に向けた。
紺野は先ほどと全く変わりなく、瑞希の目の前に立っていた。見たところ、刺されたような様子はない。どうやら無事らしいとわかってほっとしたのもつかの間、瑞希はその手元に目をやって息をのんだ。
紺野は、男の突きだしたナイフの刃先を、右手で握りしめていたのだ。
男はナイフを動かそうと必死で力を込めているようだ。だが、紺野の手に握られた刃先はまるでそこだけ時間が止まってしまったかのように、微動だにしない。
紺野は男を静かに見据えながら、つぶやくように言う。
「観念してください」
男は、汗だくになってつばを飲み込んだ。その手が、小刻みに震え出す。
「あなたのしていることは、瑞希さんにとっても、あなた自身にとっても、間違っている」
「黙れ!」
窮鼠猫をかむとでも言おうか、追い詰められた男は両手でナイフをつかむと、突然、信じられない力を出した。紺野の手に握られていたナイフが初めて動き、じりじりと男の方に引き戻され始める。男は笑ったのだろうか、口の端を奇妙にゆがめた。
「このまま、つかまってたまるかよ!」
紺野は、微かにその目を細めた。
次の瞬間。
紺野の手に握られていたナイフの刃先が、まるでガラス細工のように、涼しい音をたてて砕け散った。
男は息をのんでナイフを見つめた。瑞希も、何が起きたのか分からなかった。
男の足元に、粉々に砕けたナイフの残骸が、日の光をキラキラ反射しながら散らばって落ちる。
紺野は手を下ろした。ナイフを握っていたはずのその手は、傷ひとつついていない。
静かな湖畔に、パトカーのサイレンが遠く響いてきた。その音は次第に大きくなり、やがてくねくねした細い道を、数台のパトカーが蛇行しながらこちらに向かってくるのが見えた。
真っ青な顔で凍り付いていた男は、それを見たとたん、急に力が抜けたようにへたり込んだ。到着したパトカーから降りてきた二人の警官が、すぐに男の側に駆けより、その腕をねじり上げる。男はもはや抵抗する様子もなく、警察官に両脇を抱えられるようにして立ち上がると、項垂れたまま、覚束ない足取りで連行されていった。
ぼうぜんと座り込んでその光景を見ていた瑞希は、側に来た紺野に気づいて、血だらけで腫れ上がった顔を彼の方に向けた。
紺野は何とも言えない表情でそんな瑞希を見つめた。
「本当にすみませんでした。遅くなってしまって……」
沈痛な面持ちでそう言うと、紺野は瑞希の傍らにかがみ込んだ。赤く膨れあがった頬に手を添え、そっとなでる。優しく、ゆっくりと、何度も。
紺野の手が頬に触れるたびに、なぜだか痛みが和らいでいくのを感じながら、瑞希は小さく頭を振った。
「遅いなんて……。紺野くんのおかげで、助かったよ」
「でも結局、警察沙汰になってしまいましたね」
「仕方ないよ。そういうことをやってたんだもの。あたしは、全部話すつもり。そうしてリセットしなきゃ、何も始まらないし」
瑞希はそう言うと顔を上げ、まっすぐに紺野の目を見つめた。
「でもさ……紺野くん、どうしてあたしがここで、こういう状態になってるって分かったの?」
紺野は瑞希の頬をなでながら、無言で小さくほほ笑んだ。
「今、仕事に行ってたはずじゃん。それが、突然こんなところに現れて……」
言いかけてから、瑞希ははっとしたように頬をなでる紺野の手を取った。そうして、彼の手のひらをまじまじと見つめる。
「傷、……ついてないね。ひとつも」
ホッととしたようにそう言ってから、すぐに不思議そうに眉を寄せて、紺野の顔をじっと見つめる。
紺野はそんな瑞希から、少しだけ目をそらしていた。
「……あんまり、深く考えないでください」
そうこうしている間に瑞希の側にも、後から来たパトカーから降りてきた警官が数人、駆けよってくるのが見えた。
紺野は立ちあがると、瑞希に向かって頭を下げた。
「僕は、行きますね。何も言わずに仕事を抜けてきたので。もう行かないとまずいんです」
「紺野くん……」
瑞希は何か言いかけたが、口をつぐんだ。いつか紺野が言っていたあの言葉が、ふっと頭をよぎったのだ。
『誰でも言いたくないことの一つや二つ、ありますから』
紺野はそんな瑞希にほほ笑みかけると、踵を返した。駆けつけた警官に状況を説明し、自分の名前や連絡先を教えると、本当に風のように駆けて行ってしまった。
その時初めて瑞希は、自分の頬の痛みがウソのように引いていることに気がついた。
風にざわざわ揺れる芦の間に立ち、胸の鼓動に体を揺さぶられながら、瑞希は紺野の去った道の向こうをいつまでも見つめていた。




