12月22日 3
「あー、おなか痛い。マジでヤバすぎるって……」
ひとしきり笑って涙を拭うと、瑞希は紺野に向き直った。
「ありがとね、紺野くん」
紺野はちいさく頭を振ったが、何を思いついたのか目を見開いた。
「そうだ。瑞希さん、市役所に相談してみたらどうですか?」
「市役所?」
「ええ。瑞希さんの詳しい事情は分かりませんが、住む場所やお金がなくてお困りなんでしょう? 事情を話したら、何か公的に支援してもらえる制度があるかもしれない」
瑞希は思いもよらないことだったらしく驚いたように紺野を見たが、すぐに不安そうに目線を落とした。
「でも、あたしここの住人じゃないし、事情を話すといっても……」
「別に住民票がなくたって大丈夫ですよ。相談は受けてくれるはずです。そういう相談機関には守秘義務があるし、むやみに秘密を漏らすようなこともありません」
紺野は立ちあがって新聞が積んである所を何やらがさがさやって捜していたが、やがて市の広報らしき紙を持って戻ってきた。
「九時になったらこの電話に問い合わせて、相談してみたらいいですよ」
広報誌の上の方に、問い合わせの番号が載っていた。
「瑞希さん、携帯は?」
瑞希が小さく首を振ると、紺野は少しの間考えてから、ポケットに入っていた携帯を取り出して、ぽんと瑞希に渡した。
「じゃあ、この携帯使ってください」
瑞希は思わず受け取ってしまってから、目を丸くして慌てて首を振った。
「ダメだって、人の携帯なんか。大事な連絡とかが入ったら、どうすんの?」
「でも、うちには、これしか電話がないので……。」
瑞希は苦笑すると、紺野の手に携帯を返した。
「いいよ。大丈夫。ここから駅、近いんだよね?」
「え? ええ。一応」
「なら、そこに公衆電話くらいあるよね。あたし、そこからかけるから」
そう言って笑う瑞希の顔を紺野は申し訳なさそうに見ていたが、何を思ったのか戸棚に走ると、財布をつかんで戻ってきた。
「じゃあ、電話代。それと、食事代。念のため、明日の分くらいまで持ってた方がいいですね」
紺野は財布をのぞいたが、二千円しか入っていないことに気付くと、慌てて引き出しに入っていた封筒から一万円札を二枚取り出して、瑞希に渡そうとした。瑞希は慌てて手を後ろに引っ込めると、苦笑した。
「この辺の公衆電話って、そんなにかかるわけ?」
すると紺野も、ちょっと笑ってうなずいた。
「ええ。田舎なんで、この辺の公衆電話はこのくらいないとかけられないんです」
「ぼったくりすぎでしょ」
「先に、何かちょっと買い物をすればくずれますから、それでかけてください。あ、でも何だったら、十円玉も渡しましょうか?」
「大丈夫だって。十円なら持ってる」
瑞希はふと時計に目をやると、その目を大きく見開いた。七時五十分を過ぎている。
「紺野くん、仕事行かなきゃ!」
その言葉に紺野も慌てて時計を見ると、息をのむ。
「……ほんとだ。ありがとうございます」
「あたしも一緒に出るから、着替えるね!」
瑞希は昨日洗って乾かした自分の服をつかむと、洗面所に走った。
紺野はちゃぶ台の上を急いで片付けると、居間で着替え始める。ジーンズにグレーのパーカーを着て、ダウンジャケットを引っかけると、何を思ったのか、その辺にあった紙切れに急いで何か書きつけた。さっきの一万円と一緒に小さく折りたたむと、それを居間にかかっていた瑞希のコートのポケットに放り込む。
超速で身支度を調えた瑞希が出てくると、入れ替わりで紺野が洗面所に飛び込んで身支度を調える。その間に、瑞希は流しの食器を洗えるところまで洗った。
洗面所を出た紺野はそれを見て、恐縮したようだった。
「あ、いいですよ。そんなこと、僕が帰ってきてからやりますから」
「できるところまでだから。もうやめる」
瑞希は半分くらいまで洗ったところで水をとめると、手を拭いてコートを引っかけた。
時計を見ると八時十分。二人は急いでアパートを出た。
「すみません瑞希さん。九時までは、駅前の珈琲屋でコーヒーでも飲んでいてください。そこまで、送りますから」
「別にいいよ、駅のベンチで座ってるから。仕事場は、駅を通るの?」
「ええ。駅を越えて二十分くらい行った所なんです。でも、走れば十分ですから」
早足で駅へと急ぎながら、瑞希は隣を歩く紺野をちらっと見上げた。
――あとちょっとで、お別れか。
瑞希は、何だか胸を締め付けられるような気がして、ちょっと視界がぼやけた。一緒にいたのはわずか二日間ばかりだったが、瑞希にとってははるかに長い時間だったように感じられた。
間もなく、駅が見えてきた。
「駅の向こう側まで、一緒に行くよ」
ぽつりと瑞希が言う。紺野はうなずくと、複雑な表情で瑞希を見下ろした。
駅を越えて反対側にはバスやタクシーの停留所があり、田舎の駅なりににぎやかな感じだった。
紺野は駅の階段を下りきると、足を止めて瑞希に向き直った。
「……じゃあ、行きますね」
瑞希は黙ってうなずくと、下を向いた。紺野の顔をまともに見ることができなかった。何か言おうとしたが、唇が震えて言葉にならなかった。
紺野はそんな瑞希を、優しい目で見つめた。
「僕の携帯の番号、ポケットに入れておきました」
瑞希はよほど驚いたのだろう。目をまん丸くして顔を上げた。
「何かお困りの時は、かけてください。お役に立てるかどうか分かりませんけど」
そう言って紺野は頭を下げ、歩き始めた。瑞希が慌ててコートのポケットを探ると、半分に折りたたんだメモと、一万円札が二枚入っている。
歩き去る紺野の後ろ姿が小さくなっていく。瑞希は喉元に熱いこわばりのようなものを感じて、唇が震えた。耐えきれなくなったようにあふれた涙が、頬を幾筋も流れ落ちる。
みっともないとか、人が見ているとか、そんなことはもう全く関係なく、気がつくと瑞希は両手を口に当て、大声で叫んでいた。
「紺野くん! ありがとう!」
百メートルほど先を小走りに進んでいた紺野は、その声に足を止めた。振り返って、彼も大声でこう返す。
「寒いから、温かいものでも飲んでいてください! かぜひきますよ!」
瑞希はうなずいて、思い切り頭を下げた。紺野は笑ったようだった。大きく手を振ると踵を返し、走り出した。あっという間に、彼の姿は上り坂の向こうに消えた。
瑞希はうつむいたまま、動かなかった。彼女の足元には、こぼれ落ちた涙があとからあとから滴り落ち、アスファルトに丸い水玉模様を幾つもつくっている。
道路の真ん中に立ち尽くして声もなく泣き続ける瑞希を、通勤客たちがいぶかしげに見やりながら行き過ぎていった。




