第一章 楽園の迷える子どもたち(1)
第一章 楽園の迷える子どもたち(1)
青騎士団の見習い女騎士ハヤは、読んでいた論理学の本をいったん閉じた。隣室の扉が開いて、彼女の控える部屋の前を静かな足音が横切ったのだ。ルシュド殿だ、とハヤは察し、本の続きに戻ろうとしたが、すかさず隣からよく響く声が彼女を呼んだ。
「ハヤ! ルシュドを追いかけなさい! そして捕まえたらもう一回ここまで連れてきて!」
あわててハヤは立ち上がった。「その時」が来てもオロオロすることはなくなったが、相変わらず<夜の姫様>の行動は読めないままだ。とはいえ、命令は絶対である。
「は、はッ、ただいま!」
ハヤは本を放り投げ、剣もとらずに部屋を飛び出した。足音はひそやかだったのに、ルシュドの姿はすでに消えている。足音の行き先を追って廊下の角を曲がり、階段を駆け下り、正面ホールを見回してさらに庭園に出てみたが、美貌の賢者を見つけることはできなかった。我知らず、太いため息が出てしまう。
(また、怒られる……私にも「その時」が分かれば、姫様の突飛なお言いつけにもすばやく対処できるのに)
しかしすぐに彼女はその考えを却下した。「その時」が分かる人物は、二の君自身と賢者ルシュドだけ……。無礼きわまるが、あのお二人のような二重人格者になるのはゴメンだった。
二の君―――すなわちアークザード王国の二の王女ラナウィンは、すっぽりと上体をつつみこむ大きな貝殻のような籐椅子に身を沈めて、いらいらと椅子のふちを指でたたいていた。そして、背を丸めて帰ってきたハヤに冷たい一瞥だけくれて、
「よく手ぶらで戻ってこられるわね。まあもっとも、上首尾だった試しがないけれど」
「……申し訳ございません……」
こういう時、娘らしからぬ自分の巨体を恨めしく思う。いくら縮こまっても不恰好に空間を占拠しているような気がするのだ。あごが胸元にくっつきそうなほどうつむいて、更なる叱責を覚悟したハヤだったが、意外なことに姫は力のない声で「もういいわ、お下がり」とぽつんと言い捨て、立ち上がってしまったのである。
「え……?」
びっくりしてハヤが顔を上げると、壁一面のぜいたくなガラス窓は日の光に満ち満ちて、窓辺に立つ姫の姿をさらに真っ白く輝かせていた。窓の外を見ているのか、その表情をこちらからうかがい知る事はできない。それが人の好いハヤにとってはかえって気がかりで、このまま下がってよいかためらっているうちに、扉がノックされてこれまた麗しい青年が入ってきた。
親衛隊隊長のカディオンだった。群青のビロード地に金銀糸刺繍をほどこした豪奢な鎧長衣が、彼の美しさを一層引き立たせている。
「やっぱり。ハヤはいつも貧乏くじを引いてしまうね」カディオンはあでやかな笑顔を見せ、姫よりも先にハヤに声をかけた。「気になってきてみれば、また<夜の姫様>のわがままに振り回されていたんだろう? 後は引き受けるから訓練場に行ってきなさい。槍の本稽古が始まっているから」
「は、はい、では失礼いたします……」
姫と隊長それぞれに挨拶をして扉をなるべく静かに閉じた途端、ハヤはいっきに脱力してしまった。上京してまだ半年足らず、見習い騎士のハヤにしてみれば隊長も姫様も空のかなたの綺羅星のような存在だ。だから正直言って、自分のことなど無視してくれる位の方が気が楽なのだが……。
(<夜の姫様>に切り替わる時は隊長のおっしゃる通りたいてい私が当番だし、隊長は隊長で、公明正大なお方だからいつも何かと目をかけて下さるし……本当ありがたいよ、ありがたいんだけど)
隣の控え室に入り置き忘れた剣を腰につけながら、つい「疲れる……」と声に出してしまい、ハヤはぶるぶるぶるっと頭を振った。そして大急ぎで訓練場のある離れの兵舎へ駆け出していった。
一方ラナウィン姫の私室では、純白のドレスにレースの肩掛けをはおった姫と、白銀につやめく髪を右肩でゆるく結んだカディオンが、静かに優雅な会話を交わしている―――わけもなく。
「呼んでもないのに何で来たのよ」
「逃げるように帰って行くルシュドを見かけたものですから。彼がああなら十中八九、姫様も<夜>におなりでしょうし、かわいい部下がいびられるのを放っておくわけにはまいりませんよ」
姫はわざと盛大に鼻息をならした。
「なーにが『かわいい部下』よ、こないだの当番、誰かしら、けっこうきれいな女の子を泣かせてしまった時は全然顔も見せなかったくせに」
「そうでございますか?」
「そうよ、何か知らないけどハヤをチクチクいじめている時に限っておまえがしゃしゃり出てくるのよ。そんなにハヤが気にかかる? あの子、芯はしっかりしているから田舎に帰ったりしないわよ。昨今の騎士不足は、まあ確かに懸案事項ではあるけれど」
いじめているという自覚はあるんだな、とカディオンは変なところで感心し、それからふうっと息を抜くように微笑んだ。
「いいえ、姫様。これは個人的事情です。私はハヤが好きなのですよ」
「ふうん、好き……」何となくそのせりふを繰り返した姫は次の瞬間、髪飾りが吹っ飛びそうな勢いで振り向いた。「って、ええっ、好きって、その好き?! あ、愛してるとかの好き?!」
「姫様、仮にも一国の王女であらせられるのですから、意味が通じるようにお話なされませんと」
「お、お黙り! 聞いているのはわたくしよ、何よ、一体どちらなのよ?」
姫の足元、花葉模様の絨毯に陽だまりがおちている。カディオンは目を細めながらその温かさを胸におさめ、穏やかに答えた。
「不覚にも私の一目ぼれです。あとはもう可愛くなる一方ですね」
恥ずかしげも無く告白する隊長に、姫は毒気を抜かれて籐椅子にへたり込んだ。純白のドレスはしわだらけになってしまうだろうが、そんな事を気にする余裕もない。
「道理で浮いた話の一つもなかったわけね……そうなの、ハヤねえ、ハヤかあ……」
「何かご不満な点でも?」
「う〜、不満というか、気に食わない」きっぱりそう言い切って、姫は籐椅子の中で体を左向きに変え頬杖をついた。「だってハヤが可哀想。見た目だけは人畜無害なこんな男につけ狙われるなんて……こうなったら邪魔しちゃおうかしら」
ひどい言われようだがカディオンはこたえた様子もなく、思慮深げに口に手をやって、
「なるほど、本日もまたルシュドとの間に、まったくご進展が見られなかったのでございますね。だからといって忠実な家来の恋路を妬まれるのは……」
「どうしてそうなるのよっ!!」
「おや、違いましたか?」
わざととぼけた切り返しにさすがの姫も言葉を詰まらせる。しかしそこは<夜の姫>、すぐにふんぞり返ってものすごい勢いでまくしたてた。
「ええお生憎さま、おまえがどう邪推しようと勝手だけど今日はちゃんと進展があったんだから、まあ所詮一方通行中のおまえには想像も出来ないでしょうけどね、静謐な光の中わたくしたちはお互いだけを見つめ合い瞳で想いのすべてを物語って……」
と、唐突に姫の口が「え」のかたちで固まった。自分のうかつさにやっと気づいたようだ。カディオンが今回ばかりは気の毒そうに首を振る。
「姫様、それは拝察するに<昼>なのではございませんか……」
「……し、仕方ないじゃない、あれだってわたくしには違いないんだから……」
「ではいっそのこと、<昼>の方で恋路を成就されてもよいではありませんか」カディオンの口調がにわかに熱を帯びる。「私が申し上げるのは僭越ですが、<夜>のルシュドが姫様に告白するのは飛竜に軽業を仕込むより困難だと思いますよ。姫様に頼まれてルシュドにハッパをかけているものの、あんなに気弱では見込みがないというか、毎回不毛なやり取りの繰り返しでこちらまで気が滅入りそうです」
「…………」
「姫様?」
「…………は嫌」
うつむいていた姫は決然とおもてを上げ、さらに身を乗り出して怒鳴るように宣言した。薄紫の瞳が心なしかうるんでいる。
「それだけは絶対に嫌よ! 確かにさっき、わたくしはルシュドに思いのたけを伝えようとしたわ。彼に抱きしめられそうなそんな予感さえしていたの……でも、あれは、あのわたくしは非の打ち所のない完璧な<昼の二の君>、労せずして誰からも愛されるのよ。ルシュドだって例外でないわ。だけどルシュドには、今のわたくしも愛してほしい、出来ることなら<昼>よりも先にわたくしを認めて受け止めてほしいのよ……!」
沈黙が、落ちる―――空気がまだふるえているようなそんな沈黙。窓は少し開いているはずなのに、離れで訓練している騎士たちの掛け声も本当に微かにしか聞こえてこない。半透明のカーテンがそよ風にさらさらと揺れ、幾重の襞は絶え間なくかたちを変える。そんな光景を見るともなしに見ていたカディオンは、ためらいながらも口を開いた。
「恐れながら、夜と昼は並び立たぬものでございますれば、今の姫様に愛を告白できる者といえば<夜>のルシュドの方しか……」
「もちろん分かっているわ、カディオン」隊長の言葉を途中でさえぎり、姫は強気に微笑んだ。「完全無欠の格好いい<昼>のルシュドはもちろん好きよ。陳腐な表現だけれど、出会う前からそう定めづけられていたというか、神の御手に導かれているようなそんな揺るぎない絆を感じるの。でも……<夜>のルシュドは違う。彼と一緒にいてもわたくしは不安でたまらない。愛してくれているかどうかも分からない。だからわたくしは<夜>のルシュドが憎たらしくて、腹立たしくて―――大好きなのよ」
「……確認いたしますが、その大好きというのは、愛しているの好きでございますね?」
へたな冗談に姫の顔が崩れ、泣き笑いのような表情になった。
「そうね、一目ぼれではないけれど。まあそれにもしかしたら、<昼>のわたくしと張り合っているだけかもしれないわ。どちらが先に結ばれるかって。わたくし負けず嫌いだもの」
ほがらかな口調でそう締めくくり、居住まいを正した姫に、カディオンは沈黙するしかなかった。そんな浅はかなものではないと否定するのは簡単だが、そうしてみたところで彼に一体何ができるのか。
逡巡しても仕方なかった。だから彼は髪を払い、恭しく一礼した。
「つい長居してしまいました。御前失礼いたします。副隊長だけだと稽古が締まらないので」
無言でこくりとうなずいた姫は、精緻なかたかけを胸元でそっと合わせたその姿は、<昼の姫>よりもずっとはかなげに見えてカディオンは一瞬目を疑った。