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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

作者: opty61

三年前の9月末頃、突然の転勤で引っ越す事になった。急な話だというのに、景気の悪さからか、会社の方針で支給されるのは引越料金のみ。その他の援助は無い。仕方無しに、それらのいらない、すぐに入居できる部屋を探した。


仮住まいのつもりで、「三ヶ月程住めればそれで良い」と不動産屋には伝えていたが、紹介されたのは築40年、古びた二階建てのアパートだった。自分の部屋は、二階に三つある部屋の中で、一番奥の角部屋だ。その階で他に入居してるのは、隣に住む小さな子供連れの若い夫婦だけ。


入居当日、荷物を運び入れた後、まずはと挨拶に行くことにした。部屋の前に小さな自転車や、ジョウロが雑に置かれていた。


〈ビー〉


呼び鈴を鳴らすと、部屋の中でチープな音が聞こえる。そして、ドタドタと足音が近づいて来た。


ドアを細く開け、不機嫌そうに顔を出したのは、浅黒く焼けた肌にピアスだらけの、金髪の青年。二十歳前後だろうか。痩せた首にはタトゥーが見える。


「あ?何だてめえ」

「あ、いや。隣に越して来たので、挨拶に伺いました」

「あ?寝てんだけど」

(もう昼過ぎなのに?)とは言え無かった。


「これ、つまらないものですが」と、菓子折りを手渡す。

「はいはい」

それだけ言って、男はドアを閉めた。


(面倒なとこに引っ越したな)

そう思わずにはいられなかった。


そして、それは初日から思い知る事になった。

荷解きも一段落した夜の七時頃、突然『ぎゃー』という子供の泣き叫ぶ声がした。続けて男の怒鳴り声と、それをなだめる女の喚き声。よく聞けば「コブ付き」だの「ちゃんと躾けろ」と怒鳴っている。断片的な情報から、何となく隣の家庭環境が窺い知れた。

どうやら女は男とは再婚らしく、女は男より歳上らしい。「拾ってやった」「お前みたいな年増」。男が心無い言葉をぶつける。


〈ガチャーン!〉何かが何かにぶつかる音と同時に、ガラスが割れるような音がした。


他人の家庭事情に、首を突っ込むのは気が進まないが、只事では無い雰囲気に、隣の部屋へ様子を見に行く事にした。サンダルをひっかけ、玄関を出る。ほとんど同時に、隣の部屋から誰かが飛び出てくる。

五歳くらいの女の子を抱いた、母親らしき女だった。お互い不意を突かれ固まる。

女は裸足だった。乱れた髪に表情こそわからないが、薄暗い明かりの下でも、顔や青白く細い腕に、痣のようなものが見えた。


声を掛けようとしたが、女は黙って走り去ってしまった。




それから毎晩のように、男の怒鳴り声が聞こえた。関わり合いたく無い気持ちと、なけなしの正義感が戦っている内に、音が止む日もあれば、あの時と同じように、女が子供と一緒に家を飛び出す日もあった。


そんなことが一週間程続いたある日、珍しく夜になっても静かな事に気付いた。少しホッとした。あの二人は今日は無事なんだと、身勝手な想像をして、その日は床についた。



次の日も同じように静かだった。あの親娘はどうしたのだろうか。ついに愛想を尽かして出て行ったか。いや、それとも…。それ以上の想像は頭の隅に追いやる。

コンビニ弁当と発泡酒で、遅めの晩御飯を食べる。どこかの街で子供が虐待の末、殺されたというニュースを見た。妻の連れ子を夫が虐待、妻も夫の虐待に加担して、あろうことか血の繋がった我が子を手にかけ、二人とも逮捕された。


そう言えば、昨日も今日もいやに静かだ。いや、静かすぎる気がした。

次の日は休みだったので、様子を見に行こうと思った。テレビを消し布団に入る。


程なくして、何か音がする事に気付いた。耳を立てないと聞こえないほどの、わずかな音。音の出所は…。

(押入からだ…)


ゆっくりと襖を開ける。


『かりかり…かりかり…』


押入れの向こう側。隣の部屋の押入れの中から、何かが壁を引っ掻いている。そっと指を、それから手のひらを押し当ててみる。わずかな振動。

ネズミか何かとも思ったが、音の持つ湿度めいた何かが、その考えを改めさせる。試しに指でとんとんと壁を叩く。すると音がぴたりと止んだ。あれ?と思った次の瞬間。


『がりがりがりがり』


さっきより激しく音がなる。


「うわ!」思わず飛び退いて、尻餅をついた。

息遣いが荒くなる。そのまましばらく、押入れの壁を見つめていた。


『かり……かり……』


次第に音は止んで、ついに聞こえなくなった。気味が悪くなり、その日は電気を点けたまま寝る事にした。




なかなか寝付けず朝を迎えた。昨晩は思わず狼狽えてしまったが、落ち着きを取り戻した今、あの音の正体についてある想像が浮かんでいた。


(きっとあの子だ…)


そう思いたくは無いが、考えれば考えるほどそう思えてならなかった。


とにかく確認しよう。あわよくば、部屋の中も伺うつもりでいた。アニメでも見て大人しくしていてくれたなら…。出来るだけ明るい材料を探しながら、隣の部屋へ向かった。


〈ビー〉呼び鈴を鳴らす。


男が出て来ても毅然と対応しよう。弱気を見せればきっと押し負ける。何となく背筋を伸ばし、ドアが開くのを待った。

そのまま数十秒経ったが、何の反応も無い。もう一度呼び鈴を鳴らす。


留守なのかと思ったが、昨夜、音の聞こえた後、誰かが家を出る様子は無かった。もっとも、ずっと起きていた訳では無かったので、確信は持てないが。

変に思いながらも、自分の部屋に戻る事にした。考えすぎだったのかもしれない。もしかすると、仲直りに旅行にでも行っていて、あの音は本当にネズミだったんだろう。


勝手にいろいろ想像して、一人で熱くなっていたのが恥ずかしくなった。自嘲気味にため息をつく。そして、自分の部屋へ戻ろうと廊下を戻って、玄関のドアを開けようとした時だった。


〈ガチャ〉隣の部屋のドアが開いた。

開けたのはどうやら、母親のようだった。顔こそ出さないが、ドアノブから伸びる、ところどころ痣のある、青白く細い腕に見覚えがあった。


「何か?」腕と同じくらいか細い声。表情は窺えない。

「いや、最近ちょっと賑やかだったのが、静かになったんで、どうしたのかなぁと思って」出来るだけ明るく言いながら、もう一度、隣の部屋に近付こうとした。


「ありがとうございます…。でも…何でもありませんから…」

部屋を覗こうとしたのが気取られたのか、踏み出した一歩目が地に着くより早く、ドアは閉められてしまった。


相変わらず痣だらけではあるが、母親が無事である事は分かった。なら、あの女の子はどうなんだろう。


隣の部屋が静かになって、三日目の夜を迎えた。

いつもと同じ様に、コンビニ弁当で晩飯を済ませる。その後風呂に入って、いつものニュース番組を見ていた。

するとまた、あの事件についてだった。番組が取材を続けていくうちに、夫婦には児童相談所の調査を受けた過去があり、一時は子供も保護されていた事が分かった。しかし、どういった判断からか親元に返され、結果、むごたらしい最後を迎えてしまった。


途中、取材を受けた近隣住民の言葉が、耳に残った。

「おかしいとは思ってたんです。でも…通報なんて大袈裟かと思って…。こんな事になるくらいなら、ちゃんと…」

小さな子供を抱いてインタビューに応えた女性は、口元を押さえたまま、涙で声を詰まらせた。たまらなくなりテレビを消した。

(明日、もう一度行ってみよう。せめて、女の子の無事さえ分かれば)



もやもやしたまま、布団に潜り込んだ。



するとまたあの音が聞こえて来た。


『かり…かり…かり…かり…』心なしか、音に力がない様に聞こえる。


頭の中では、あの女の子が助けを求めて、隣人である自分に、メッセージを送っている様な気がしてならなかった。

(だめだ…)


朝まで待っている余裕は無い。あのインタビューでの言葉が蘇る。深夜だったが、形振り構っている場合では無かった。


児童相談所へ初めて電話した。これまで見聞きした事を踏まえ事情を説明する。思いのほか、対応ははやく、念のため警察と来てくれる事になった。


先に様子を窺おうかとも思ったが、足を引っ張りたく無かったので、一人で向かう事はしなかった。しかし、気持ちが落ち着かず、外で待つ事にした。


しばらくして、児童相談所の職員と警察、そして大家までやって来た。聞くと、場合によっては、鍵を開けるためと言う。そして、四人で部屋に向かった。


部屋の前まで来るが、中に明かりはない。


〈ビー〉


何も反応は無い。まずは相談所の職員が前に出る。


〈コンコンコン〉ノックをする。

「〇〇さーん?」静かな廊下に声が響いた。もう一度ノックする。


今度は警官がドアの前に歩み出る。


〈ドンドン、ドンドン〉


少し強めのノックをする。相談所職員と警官が目配せする。そして、大家へ鍵を開けるよう促した。



「ごめんください」

ドアを開き、まずは警官が中へ踏み込んだ。続けて職員が付いていく。大家は外で待機する。


自分も騒ぎの張本人として、最後まで見届けよう。そう思い後に続いた。

部屋の中に人の気配は無い。警官の懐中電灯の明かりを頼りに進む。警官が先導するよう促す。真っ先に、女の子が閉じ込められている押入れの前まで来た。

しかし…


(なんだこれ…?)


押入れの襖を見て息をのむ。その低い位置に、満遍なく手形が付いていた。


気を取り直し襖に手を掛ける。三人は顔を見合わせ、目配せをした。その後、一気に引いた。



そこにいたのは。




あの男だった。



(え…?)



気付いた男が警官にすがりつく。あの横柄な態度が嘘のようにガタガタ震えている。そして、ある場所を指差す。それは風呂場だった。

男のただ事でない様子に、全員が風呂場の扉を見やる。そして、緊張した面持ちで風呂場へ向かう。警官がドアを開けた。




そこには、変わり果てた女の姿があった。オレンジ色の丸い光の中、首はねじれ腕も曲げられた状態で、コンパクトに畳まれ、浴槽に詰め込まれていた。


「あぁっ!」声にならない声を出し、職員が外へ逃げ出す。自分も腰が抜けてしまって、その場にへたり込む。

すると、男が急に喚き出した。


「ごめ…悪かった…謝るから…許して…」


今更反省したって遅いだろう。警官と顔を見合わせる。その表情から、同じ事を考えていることがわかった。




何気なく、警官が男の目線の先に目を向けた。何かに気づき、目を見開いたまま動かなくなる。

嫌な予感がする。


(そっちは…)

振り向く事を体が拒否する。その時。




“やさ…しく……して…よ…やさ…し…”


嗄れた声と、浴槽から這い出る音が聞こえた。凍りついたまま動けないでいると、浴室から腕が伸びて、そのまま力なく床に張り付いた。青白く痣のある腕。ずりずりと、腕が身体を引きずる。


“こ…ども……やさ…しく…”

「やめっ……もうしない!しないから…!」男はもはや半狂乱になっていた。


『ずずっ…ずずっ』身体を引きずる音。


警官も、自分も、もはや目だけでその動きを追う。そして、浴室からゆっくりと、濡れた頭が出てくる。首が折れているせいか、位置が定まらない。ふらふらと動く頭を、半ば引きずるようにして進む。べっとりと絡みつく髪の毛。

その隙間から覗いた目と目が合った時、意識を失った。




「〇〇さん!〇〇さん!」

目を覚ますと大家が顔を覗き込んでいた。アパート前の道路に運ばれたようだ。

あたりを見回すと、複数のパトカーと警官が見えた。


あの部屋の玄関にブルーシートが張られ、遺体が運び出されているようだった。


そして、男は逮捕された。ニュースで報じられた事情聴取の内容によると、二人は正式に籍は入れておらず、男はいわゆる内縁の夫で、連れ子が自分に懐かない事に腹を立てての犯行らしい。

女の子も、残念な事にその凶行で幼い命を失っていた。



後日、あの時の警官が、自分だけに特別に教えてくれた。

女と女の子が殺されたのは、音のしなくなった最初の夜だったという。


だったら、あの日玄関で自分を迎えたのは…?


それから男は押入れの中、ただじっとしていたらしい。押入れの中には、爪で書いたと思われる


“やめて”


という言葉が、いたるところにあったらしい。

命を失ってもなお、助けを求めていたのだろうか。そう思うと、やり切れない気持ちで、胸が締め付けられた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ∀・)なるほど。ベタな路線かもしれませんが、しっかりと恐怖を描かれた作品だと感じました。それでいて作者さまの伝えたいメッセージも物語のなかで添えることが為されていました。まぁまぁ評価したい…
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