寂しがりやの夜
マオが去った後、残された二人は円形のテーブルを囲み、勇者を映した鏡を見守っていた。
マオが転移した後、ベルはなんとかしてマオを帰還させる方法を考えたが、ベルたちはマオほどの精度で転移魔法を使えず、仮にうまく転移できたとしても、魔力の薄い最果ての地では、満足に力を発揮できない。結果、事の成り行きを見守ることとなった。
「アシュリー、あなたは魔法が発動する原理を知っていますか?」
と優雅に紅茶を啜りながら、ベルは訊ねた。
「魔力を利用して人為的に世界を歪めるんだにゃ?」
と両手でクッキーを頬張りながら、アシュリーは答える。
「ええ、ざっくり言えばそんな感じです。ここで大事なのは、魔法は魔力を用いた技術だということです」
「よくわからないにゃ」
「私達は魔界から出たことがないので忘れがちですが、魔族というのは魔力がないと生きられない。それは魔力に適応した結果であり、だからこそ魔力を用いて魔法を行使できるのです」
「なるほどにゃー」
「そして当然、魔界から離れれば離れるほど魔力は薄くなっていきます。勇者が生まれる最果ての村は魔界から最も離れた位置にある。つまり、大陸で一番魔力濃度が薄い土地なのです。そのような魔力の薄い環境で生存できる魔族は、スライムのような低級の魔物だけ。そしてマオ様は魔法の天才であるがゆえに、魔法陣や呪文に頼ることなく魔法を使うことができる。それは魔力濃度の濃い魔界では無敵の力を発揮しますが、逆に魔法を発動するための技術を知らないマオ様は、魔力の薄い場所では一切魔法を使えないのです」
マオの才能は、魔力に満たされた魔界でのみ通用する。つまりマオにはただ力だけがあり、状況に合わせて臨機応変に対応するための知識と技能を、全く持ち合わせていないのだ。
「ってことはマオ様は……」
「ええ、魔界の外ではスライム以下の戦闘力。無能で虚弱な可愛いだけの女の子。包み隠さず一言で言えば、……雑魚です」
とベルはティーカップをソーサーに置き、目元を抑えた。鏡には、ドヤ顔で魔法を放とうとするマオの姿が映されている。
「にゃーー……」
◆
「…………。あれ?」
とマオは周囲になんの変化も起こらないことに驚き、きょとんとしてユーシャを見た。
「どうしたの? 自慢の魔法とやらは」
とユーシャは、さすがになんの抵抗もしてこない少女を斬りつけるのは良心が痛むので、攻撃を中断し様子を見ることにした。
「あれ、おかしいな? ちょっとまってて。はあ! なんの! これしき!」
とマオはいろんなポーズを試してみるが、やはり魔法は不発だった。魔界にいた頃は、念じただけですべてが思い通りになったというのに……。もしかして自分はとんでもない過ちを犯してしまったのではないか? 。マオは今更になって後悔した。
「なぜじゃ? なぜ魔法が使えぬ?」
とマオは涙目でユーシャに訊ねる。もうヤケクソだった。敵でもなんでもいいから、この状況を何とかして欲しかった。
「いや、わたしに聞かれても……」
ユーシャはすっかり戦意が失せてしまった。魔王というからには、もっと恐ろしい容姿であって欲しかった。目の前で困っているマオに、ユーシャは庇護欲を掻き立てられた。
「うっ、ゲホッゲホッ、く、苦しい……」
マオはじたばたと足掻くうちに、息苦しさを覚えしゃがみこんだ。魔力が足りていないのだ。彼女のような高位の魔族は、その存在の根本まで魔力に依存している。スライムのような単純な生命ならいざ知らず、魔力によって歪められた存在である魔族は、魔力の薄いこの最果ての地では、カタチを保っていられないのだ。
こちらからはなにもしていないのに、満身創痍状態のマオを見て、ユーシャは唖然とした。あまりにも弱すぎる。これが倒すべき敵なのか? 。
「ひぃ、ゲホッゲホッ。ふぇ、たすけ……」
「ちょっと、だいじょうぶ?」
とユーシャは、マオのあまりにも無残な姿に心配になり、聖剣を収めた。
「ひぃっ! いやっ、お願い、殺さないで……。なんでもするから……」
このままでは殺される。見知らぬ土地。思い通りにならない肉体。そして目の前には不倶戴天の敵である勇者。マオは生まれて初めて恐怖を覚えた。自分の意志とは関係なく涙があふれる。四肢は痙攣し、着衣が乱れる。羞恥心は苦痛にかき消され、あらわになった下半身を隠す気力もない。少しでも呼吸を楽にしようと、ドレスの胸元を無理やり緩める。常日頃見下していた人間に羞恥の姿を晒す。うわ言のように助けてを繰り返す。涙と涎でドロドロになった顔を、ぬぐう気力もない。ゆっくりと近づいてくるユーシャの影から逃れようと、地面を這ううちに、マオの意識は途切れた。
ユーシャの目の前には、ナメクジのように這いつくばり気を失った、着衣の乱れた少女の姿があった。完全に凌辱現場だ。同じ少女であるユーシャには、彼女がどれだけ危機的な状況にあるか、痛いほど理解できた。絶対に男性には見せられない光景だ。もう彼女を魔王としては見られなかった。どういう理由かは知らないが、この大魔王である少女はとても弱っているらしい。ユーシャも、それなりに辛い目にはあってきた。魔族とはいえ、危機に瀕するこの少女を、見捨てる事はできなかった。
「さすがに、放っておけないわよね……」
とユーシャは仕方なく、今日はこの場所で夜を明かすことにした。
幼い頃の記憶。マオは母を知らない。彼女が生まれてすぐに死んだから。それでも、優しく抱かれた温もりは、しっかりと覚えていた。そう、ちょうど今みたいに――――。
マオが目を覚ますと、辺りはすっかり闇に包まれていた。そばには小さな焚き火。マオは、背の低い立ち木の根本に背中を預け、眠っているユーシャの太ももを枕にして横になっていた。
「気がついた?」
と目を覚ましたマオに気づいたユーシャが言った。
「われは、死んだのか?」
マオはまだ寝ぼけているらしい。体が浮いているように痺れていた。
「ちゃんと生きてるわよ」
とユーシャは苦笑する。そのイタズラっぽい笑顔に、マオは彼女の前で見せた恥ずかしい姿を思い出した。
「うう、何たる不覚。恥を晒すくらいならいっそ殺してくれ……」
とマオは赤くなった顔を隠す。
「さっきは必死になって命乞いしたくせに」
とユーシャは口を尖らせて言った。
「うっ」
とマオはバツの悪そうな顔をした。
「正直、スライムのほうが強かったわよ。魔王さま」
「うう、もういやだ。お城に帰りたい……」
「それで、どうして魔王のあなたがこんなところまで飛んできたの? 。そもそもあなたは本当に大魔王なの?」
マオは事の顛末をユーシャに話した。
「はあ、つまり初めて見る勇者に気分が高揚して、一人で暴走して死にかけたってことね」
マオの説明は前後が曖昧かつ抽象的で、ところどころ自分に都合のいいように改変され誇張されていたのだが、ユーシャはなんとなく事情を察してくれたらしかった。
「うむ」
実はマオの暴走には、ユーシャも少しだけ関係していた。マオが聞かされていた勇者像は、筋骨隆々、下品で下卑た粗雑な乱暴者。、毛深くて臭くて、魔族をなぶり殺しにするのが生きがいの極悪人というものだった。これはすべて彼女の教育係を務める、ベルから吹きこまれたものである。ところが実際に目にした勇者は、清らかで、気高く、そして美しかった。少なくともマオにはそう見えた。その時マオが心に抱いた感情は、ほとんど一目惚れに近かった。早く勇者に会いたい。マオは気づいた時には転移魔法を発動し、勇者の元へ飛んでいたのだった。
「体はもう大丈夫なの?」
「ふふん、どうやら魔力が足りんようだ。しかしさすがはわれだ。もうこの環境に適応しつつある。ひゃっ!」
と言って、マオは勢い良く立ち上がろうとしたが、ふらついて倒れこみ、ユーシャに抱きかかえられた。
「まだおとなしくしてなさい!」
「うう」
とユーシャに叱られたマオはしゅんとした。
「とにかく、魔界に戻れば元気になるのよね?」
「うむ、魔力さえあればわれは無敵だ」
「なら……、一緒に行かない? わたしもちょうど魔界に行く途中だから」
「…………、いいのか?」
とマオの顔がほころぶ。
「まあ、勇者と魔王が一緒に旅をするのは変だけど、わたしの旅はあなたを倒してはい終わりってわけじゃないから」
勇者の使命には、魔王討伐の他に、世界の浄化も含まれている。ここでマオを倒してしまうのは簡単だが、それでも魔界には行かなくてはならない。マオは威厳の欠片もないただの少女にしか見えなかったが、仮にも魔王なのだから、それまでの道中役に立つこともあるだろう。なにより、ユーシャにはこのポンコツ娘が悪人とは思えなかった。
「そ、そうか、われは、貴様がどうしてもというなら、つ、着いて行ってやっても構わぬぞ? 命を助けられた礼もあることだし。魔界に着いたなら、茶の一杯でもごちそうしてやらんこともない」
「素直じゃないわね。別に嫌ならいいのよ? わたしは一人で行くから」
「えっ? あの、その、マオも一緒にいきたい……」
「そう、じゃあ決まりね。わたしのことは適当にユーシャって呼んで。あなたはマオでいいのよね?」
「うむ」
「ほら、食べて」
と話が一段落したところで、ユーシャは鞄から黒い物体を取り出し、マオに手渡す。
「なんじゃ、これは?」
とマオは硬い靴べらのような物体を、奇妙に思い眺める。
「パンよ」
それは水分の少ない保存用の固いパンだった。
「パン? これが?」
と魔界にいた頃は、パンも肉も野菜も、ふわふわとろとろしたものしか口にしていなかったマオは、驚いて言った。
「残念だけど今は保存食しかないの。ちょっと食べづらいけど我慢して」
「むう、うっ? むぐ? むぐぅ?」
と思い切って枯れ木のようなパンを頬張ったマオは、口の中の水分を奪われ険しい顔をした。
「はいはい、よく噛んで、飲み込んで。よし、偉い偉い」
とユーシャはマオの背中を擦る。
「げほっごほっ、はあはあ。水、水をくれ……」
マオはなんとかパンを飲み込んだ。味を感じる余裕はなかったが、空っぽの胃が満たされる感覚は心地よかった。
「ものを食べられればひとまずは大丈夫ね。さあ、朝まで休みましょう」
と言って、ユーシャはマオの汚れた口元を拭いてやった。
マオにはああ言ったが、実はユーシャも内心では心細かった。一人旅も、屋根のない場所で一夜を明かすのも、初めての経験だ。こんな小さな女の子でも、たとえ倒すべき敵であっても、そばに居てくれるのは嬉しかった。
「本当に、素直じゃないわね……」
とユーシャは誰に言うでもなく呟いた。
ユーシャとマオは肩を寄せ合い、立ち木の根本にうずくまる。遮るもののない草原では、星が綺麗に見えた。ユーシャが星々の煌きを目で追っていると、赤ん坊のようなマオの寝息が聞こえてきた。疲れていたのだろう。緩んだ寝顔だ。旅は始まったばかりだ。明日もかなりの距離を歩かなくてはならない。ユーシャは、突然現れた奇妙な旅の同行者の髪を軽くなで、ゆっくりと目を閉じた。