眠りについたその後に
白雪姫っぽい王女が、隣国の王子に嫁いだ後のお話です。
それは、春の麗らかな日のこと。
暖かな日差しの中。王宮の、柔らかな新緑の映える庭園で、御義姑様ーー側妃様が主催される園遊会が開かれておりました。
皆の談笑がふと途切れた時に、陛下ーー御舅様が、突然おっしゃいましたことには。
「この佳き日に、私は皆に退位を告げようと思う」
「……陛下?」
「父上……!?」
家臣の方々や、ご子息である王太子殿下が息をのんで見守る中。陛下は、いっそ晴れやかなお声で、続けてこうおっしゃいました。
「人生の残る日々を、私は私の愛する妻と二人で過ごしたいと思うのだ」
そうして、御舅様の視線が、すぐそばにいらっしゃる側妃様ではなく、いずこか遠いところにやっておられるのを拝見して。
ああ、この方は。このつらいばかりの王宮に、愛しいはずの御子息をただ一人残して。その御心はすでに、遠くへと旅立っていかれてしまったのだと、わたくしはそう思ったのです。
それは、麗らかな春の日が、厳しい夏へと移り変わろうとする、ある一日のこと。
* * *
その若き日、名君と呼ばれた陛下ーー御舅様は、今も賢君であらせられますが。陰で密かに「人形王」と呼ばれるようになって久しいのだそうです。
等身大の美しい人形を愛で、傍に置いて愛撫し、話しかけるばかりか、閨にまで引き込むのだと、貴族はおろか、民草にまで噂され。
そのあおりを受けてか、その王太子たる殿下まで「人形王子」と呼ばれ。その妃となったわたくしは、「人形姫」なのだとか。
その噂の元になった人形は、今は亡き正妃様に、何から何まで似せて作られたものなのだそうです。正妃様のご子息である殿下も、その遠縁に当たるわたくしも、その人形に似ていると聞きますが。わたくしはまだ拝見したことがございません。
陛下が、さすがに人前では自粛するようになったのだとか、その人形を愛おしむあまり、人目に触れさせまいと自室の外に出さなくなったのだとか、陰で色々と囁かれているようです。
陛下が口にされた「愛する妻」とは、おそらく、間違いなくこの人形のことであろうと思いますと、わたくしは暗澹たる思いになるのです。
陛下の突然の退位宣言に、わたくし共は皆、騒然となりました。わたくしはもちろんのこと、殿下も、主だった家臣の方々も、皆初耳だったそうです。
側妃様も、何も聞かされてはいなかったようです。
正妃様亡き後に嫁いで来られ、殿下の養育に国事の補佐にと、立派に役目を果たされてきた方なのですが。
神殿にまで話が伝わったのか、神官の最上位にいらっしゃる叔父上様ーー王弟殿下が駆けつけて、陛下の執務室で、余人を排した話し合いがなさていたと聞きます。
そうして、長い長い時間の後、執務室を出て来た叔父上様が、ため息をつき、首を振りながら、「あれは駄目だ……」とつぶやいていたという噂が、やはりまことしやかに流れてきて。
陛下の退位の日が決まりました。つまり、王太子殿下の即位の日が。
「驚いただろう、アネリーゼ」
「はい、殿下」
自室に戻り、少し疲れた表情でおっしゃる王太子殿下に、わたくしは頷きました。
「私もたいそう驚いた。……とはいえ、いつか来る日が早まっただけだと、そう思うことにした。どのみち、あの父上にはーーいや、今はいい。アネリーゼ」
「はい」
私の名を呼び、そっと手を差し伸べられた殿下は、いつものように、口の中で何やら呪文のようなものを呟かれ。
わたくしの意識は、そのまま途切れたのでした。
王太子殿下が「人形王子」、その妃であるわたくしが「人形姫」と呼ばれる由来は、ただ御舅様のことばかりではなく、わたくしどもの出会いによるものです。
わたくしは、一応は隣国の王女に当たるとはいえ、わたくしどもの結婚は政略によるものではありません。それは、成り行きで仕方なく、としか言いようのないものだったのです。残念ながら。
祖国の後ろ盾の薄さは、そのままわたくしのこの国での立場の微妙さに繋がっております。
祖国におりました頃。
生母様亡き後、お父様の正妃となられた継母様との不仲のため、わたくしは王宮を出され、離宮とは名ばかりの、民家のような屋敷で暮らしておりました。
身の回りの世話をする七名の者たちは、国の事情に疎い、遠方からの移民ばかりで。その体躯が小さいことから、七人の小人とも揶揄されておりましたが。わたくしにとっては、親身になってくれる、身内のような者ばかりでした。
わたくしは、継母様の手の者の、魔術による攻撃を受けては、その都度彼らに助けてもらっていましたが、やがてそれもかなわぬ事態が起きました。
権力を用いて、彼らが皆、屋敷から呼び出された留守中。
魔術の誘導によって、術の媒介となる物ーーこの場合は林檎でしたがーーを口にしたわたくしは、ついに目覚めることはなかったのです。
魔術により固められた身体の中にあるものは、身体を壊すことなく取り出すことはできません。そのままであれば、術で固定されたまま、やがて命を落とすことになったでありましょう。
しかし。ガラスの棺に納められ、墓所へと運ばれる途中のわたくしを、たまたま通りがかった殿下が目にしたことから、事態は変わりました。
見初められた、といえば聞こえはよいのかもしれませんが。ほぼ屍の状態だったわたくしを、殿下は権力ずくで入手され、自国へ持ち帰ることを決めてしまわれました。
わたくしの素性を知らされていなかった七名は、王家に頼ることもできず、身分の違いから殿下を押しとどめることもかなわずに、泣く泣くわたくしを殿下に引き渡したそうです。
その後、思いがけずわたくしが目覚めたのは、殿下が自国へと戻られる道中、国境を越えた後のことでした。
わたくしの話でその出自を知ったお付きの方々は、言葉もないほどに驚かれていました。
これが国境を越える前であれば、まだ言い訳もできたのでしょうが。村娘と思い込んで、一国の王女をかどわかしてしまったとあっては、国際問題にもなりかねません。
村娘同然の服装のわたくしの話を、よくも信じてくれたものだと思いましたが。
目覚めたわたくしの立居振舞や言葉遣いを見れば、自ずと身分は知れるものなのだそうです。
その時、わたくしは自分にかけられた術がどんなものであるか、聞かされておらず。どうして自分が助かったのか、疑問を持つことはありませんでした。
どうやって、固定化されていたはずの身体から、術の媒介になる物が出されたのか。
誰が何のために、固定化を解いていたのか。
それと意図せずに、のどに詰まった林檎が吐き出されるほどに、わたくしの身体が揺さぶられていたのはなぜなのか。
ましてや、その時点で殿下とわたくしの関係が、事実上成立していたことなど、思いもよらぬことであったのです。
その後、殿下に求婚されることになったわたくしは、戸惑いました。
もともと国同士の関係は悪くはなかったのですが。和睦のためでも、関係強化のためでもなく、国に望まれてもいないのに、よく知りもしない方に嫁ぐというのは、わたくしの想定にはなかったことです。
しかし。一国の王太子ともあろうものが、隣国の王女の操を奪いながら、娶るらずにいることは、あり得ない醜聞なのだそうです。
こうして、互いの国にも、御舅様にも側妃様にも、わがお父様にも継母様にも、誰にも望まれぬままに、わたくしは殿下の正妃となったのでした。
そのときから、「人形王」の息子たる「人形王子」の名は、動かしようのないものとなったのだそうです。
屍同然の、眠る人形のような女を見初めて、意識の無いままに契りまで交わされた殿下がそう呼ばれるのは、致し方のないことなのかもしれません。
--ですが。
* * *
殿下が何やら呟かれた後、失われた意識が戻ったときには、わたくしは寝台の上に横たえられていて。知らないうちに翌朝になっていました。
これは殿下と婚姻を結んだ日から、夜ごとに繰り返されることで。もはや慣れてはいるのですが。
意識の無い間に、自分の身体に何事かが起こっている、あるいは、何事かが為されているという感覚には、いつまでたっても、慣れることができません。
たとえば、かつてはお優しかったはずの継母様に、自分ではどうしようもない理由で突き放されたあの時のような。理不尽なものに対する、怒りですとか、無力感ですとか。癒えない哀しみにも似たものを感じずにはいられないのです。
* * *
午後になって、叔父上様ーー王弟殿下がわたくしを訪ねておいでになりました。
陛下が退位を宣言され、王太子殿下の即位が決まったために、神殿に戻ることが難しくなった叔父上様は、そのまま王宮に滞在されています。
今の王太子殿下にご兄弟もお子様もおありでない現状では、継承順位からいうと第二位になる叔父上様が王太子の立場を引き継ぐことが決まっており。殿下の即位に合わせて、叔父上様の立太子の儀も、非公式ながら行われるのだそうです。
王太子という立場も、政に関わる役職とみなされるため、神職との兼任はかないません。
殿下にお子が誕生しない限り、継承順位に変動はなく、叔父上様が神殿にお戻りになることはかなわないでしょう。
叔父上様は、それを不服とされているようで。今も、王族の纏う衣装の上に、神職のみが身に着けることを許される、幅の広い襟飾りを身に着けておられます。
記録には残っていませんが、歴代の王で唯一、政治と神事を兼任されていたという、初代神聖王というのは、あるいはこのようなご衣装でおられたのかも知れません。
「困ったことになりました」
形式に従った挨拶もそこそこに、叔父上様はため息混じりにおっしゃいました。
「王家の歴代の神職者の中でも、一番適性が高いと言われる私が、神殿を去るなど。本来であれば、許されることではないのですが」
叔父上様のお考えでは、現在の王家の血統のうち、最低一人は神殿にいて、高位の神職者として勤めを全うすべきなのだそうです。
今の王太子殿下も、高い魔力特性ーー神殿では神力、と呼ぶのだそうですーーを持っておられ。もしも殿下にご兄弟がーー他に王位を継いでくれる方がおられたならば、もろ手を挙げて神殿に迎えられるお力がおありだというのです。
「”聖”よりも”俗”の力が重んじられる現代であれば、致し方のないことかもしれませんが。玉座を守るよりも神殿を守る方が、よほどこの国のためになることなのですが。王族の数が、極端に少なくなっていることも影響しているのでしょうが」
政治など、血統が無くても適性があれば、誰に任せてもよいのだ、と言い放つ叔父上様は、わたくしの祖国では、政争に敗れて神殿に追いやられたと噂されていた方ですが。実際にお会いしてみなければ、わからないこともあるものです。
「というわけで、本題に入らせてもらいますが。私は、もともと、あの馬鹿者を諌めるつもりで来ておりました」
「馬鹿者……って、まさか陛下のことをおっしゃっているのですか?」
「いや、そうではなくて。まあ、あれも馬鹿者ではありますが、ああなってはどう諌めても、もはや手遅れでしょう。側妃様も、もうお子を望める御歳ではありません。なにしろ、私を身ごもった時の母よりも上なのですから。
湖畔の国の王のようにとまではいかずとも、もう少し励んでいただいていたなら、今日のような事態にはなっていないものを」
湖畔の国の王とは、世継ぎを設けるために次々と妃を取り換えたと噂される、とある王のことで。奇しくも、継母様のお父上にあたるお方ですが。確かに、この国の歴代の王のあり方とは、だいぶ異なるようです。
叔父上様は、今の陛下と同じく、先王の正妃様のお子様です。それも、陛下と十四歳もお歳の離れた。身ごもった時、ある程度のお歳であられた正妃様は、危うく命を落とされるところだったとか。
その後も、先王陛下は先の正妃のみを寵愛されたため、陛下のご兄弟が増えることはなく。二人しかいない王子の片方を神殿に入れるのはいかがなものか、との意見が根強かったために、叔父上様の神殿入りは遅れることとなったのだそうです。
今の陛下が、正妃様亡き後、側妃様を娶られたのは、王族が少ないのは困る、との声に押されたためでしたが。結局、実質が伴わない、名ばかりの妃に終わってしまい。王太子殿下は、一人っ子のままになっているのです。
「とにかく、王族を増やしてもらわなければなりません。次の王太子となるお子と、神殿に迎え入れられるお子と。できれば、他国との縁を繋ぐ姫にもいていただきたい。事は急を要するのです。私の神殿入りが遅れたために、神殿に王族が存在しなかった、あの数年の悪夢を繰り返すわけにはいかないのです。そのためにはーー」
叔父上様は、固い意志がこもった表情でわたくしを見据え、こうおっしゃいました。
「あの馬鹿者が、夜な夜な貴方様にかけている、あの怪しからん術を打ち消す術を掛けさせていただきます」
ーーわたくしは、言葉もなく、しばしその場に固まりました。
* * *
ついつい他人事のように聞いていましたが。
叔父上様が神殿に戻る気で、妻帯なさらない以上、わたくしがお子を産みまいらせなければ、この国の王族が増えることはないのです。
わたくしを娶ったことで、特殊な志向があからさまになった殿下には、縁談はおろか、側室になりたいと名乗り出るような、奇特な女性も現れておりませんので。
もともと、王太子妃が夜な夜な術をかけられているらしいと噂に聞いたとき、叔父上様はてっきり、妊娠を避けるための術だと思われたそうです。
まだまだ新婚気分のうちは致し方ないと、しばらくは黙認の構えでいたところに、突然の現王退位の知らせに、そうも言っていられなくなり。
駆けつけた王宮で、実際にかけられた術の気配を察して、仰天されたとのこと。
叔父上様によりますと、あれは複数の効果が巧妙に組合わせられた術で、その効果の中には、身体の時を戻すものも含まれているのだそうです。
身体の時間がもどされているのであれば、たとえ夜の間にお子を孕んだとしても、夜明けには孕む前の状態に戻されてしまいます。
つまり、このままであれば永遠に、わたくしがお子を身ごもることはないのです。
殿下のその器用さを、別のことに使ってくれればと、叔父上様は嘆いておられました。
殿下が叔父上様の言葉に耳を貸そうともしなかったため、叔父上様はわたくしに直接術をかけることを思い立たれたとのこと。
殿下の力が増してきているため、叔父上様の術をもってしても、完全に打ち消せるかは微妙とのことですが。とこかく、時を戻す術だけは必ず打ち消して見せると、息巻いておられます。
わたくしも、王族としてこの国に嫁いだ身です。お世継ぎを生みまいらせることは、果たすべき務めであると知っております。
とはいえ……なんなのでしょう。このどうしようもない、虚しさと悲しさは。そして、怖さは。
* * *
叔父上様には、体調がすぐれないと訴え、その日は帰っていただきました。
そうして、一人、しばし物思いに沈んでおりました。
祖国を離れ。あの小さくも暖かかった離宮を離れ。ただ一人、考え込む時間が増えたように思います。
最低限の知識として、書物で学んだだけのこの国に、思いがけず嫁ぐこととなり。なじめているかどうかもわからず、気を許せるような側仕えの一人もないままに、日日を、ただやり過ごすばかりでおりました。
しかし。お子を産みまいらせるのであれば、お育てすることも考えなくてはなりません。そのためには、嫁いだこの国に根を下ろすということになるのでしょう。おそらく、生母様や継母様がされていたであろうように。
そのための心構えも、よりどころとなるものも、何もないままに。
わたくしは、怖いのでしょうか。
夜な夜な、わたくしの意識を奪ってまで、殿下はいったい、何をなさっているのでしょうか。
叔父上様が、殿下の術を打ち消されるということであれば。おそらくわたくしは、今まで知らずにすんだそれを、知ることになるのでしょう。
それはおそらく、知ってよい気持ちになるようなことではないと思われます。
もしそうであれば、殿下はわたくしにあのような術をかける必要はないのでしょうから。
継母様と不仲であった上に、思いがけず嫁ぐことになったわたくしには、嫁ぐ娘が知るべき事柄を、教えて下さるような方もございませんでした。
ですから。自分の身に起こっていることを知りたいという気持ちと、知りたくない気持ちとが、諸共に、わたくしの中にあるのです。
そうして、わたくしが一人思い悩んでいるところに。
突然、一通の親書がもたらされました。
差出人は、思いがけず、祖国のお父様で。拝読したわたくしは、しばし言葉を失いました。
王太子殿下の即位を祝うために、お父様がこちらの国を訪問されるというのです。それも、--継母様を伴って。
これを、どう見ればよいのでしょう。継母様は、今度こそわたくしの命を奪うお心で来られるのでしょうか。そして、お父様はどういうお考えなのでしょう。
わたくしがこの国に嫁いだ以上、わたくしを害する理由は、継母様には無くなったのではないか。そう思ってはみるのですが。
ーーわからない。わたくしには、なにもわからない。
そして、このことを相談できるような相手もおられないのです。
わたくしは、眠れぬままに、長い夜を過ごすことになりました。
そうしてその夜、明け方になってやっと短い眠りについたその時まで、王太子殿下が寝室に戻ってこられることはありませんでした。