君に月をあげよう。
――君はあの日、もう夜遅く二時だと言うのに、僕を容赦なく叩き起こしたね。
こんな時間に誰だろう。
電話のベルで目を覚ました時、最初に思ったのはそんな様なものだったと思う。その後数秒経ってやっと、隣の人に迷惑ではないか、と気づき僕は焦り始めた。
何か悪い知らせだろうか。
眠いせいでもあるが、少し足取りは重い。安っぽいベッドから足を下ろし、絨毯を踏みしめて電話台に向かう。大して広くもない部屋なのに、電話を取るまで何故だか凄く時間が掛かった気がした。
黒い台に置かれている、白の受話器に手を伸ばす。呼び出し音は、情けをかける事も知らずに寝起きの僕の頭に相変わらずがんがんと響いていた。
今携帯電話は料金未納で止められているから、恐らく友達が明日提出のレポートについて聞こうとしたのだろう。
――レポートが完成して、至福の時を味わっていたというのに。
「はい、もしもひぃ?」
間抜けな声であったと、自分でも思う。
「もしもひぃ、じゃないわよ。私よ、わたし」
「わたし?」
瞬時に思考を巡らせた。脳内迷路の中を、ずんずんと進んだ先にあった答え。
それは。
「理砂?」
「そうよ、私」
おいおい。
「え……理砂?」
はあ、と、僕がため息をついてしまう事を、誰が咎められようか。もちろん、このため息の中には悪い知らせでは無かった事への『安堵』も半分ほどはあるだろう。しかし、それ以上に。
彼女――理砂は、僕の『彼女』だった。
ただし、『前の』彼女だが。
理砂と僕は、別れてからすでに3ヶ月が経過していた。その期間、違う学部でなのか何なのか、全く音沙汰の無かった理砂が、今ごろどうして。
「どしたの?」
「どしたの、じゃないわよ。私の声も分からなかったり、私だって分かったら『え、理砂』とか何とか確認する様な戯言吐くし。挙句の果てには何? どしたの、ですって?」
別に、そんなに悪い事をした気はなかったのだが。彼女の論理や価値観は、やはり今でもいまいち分からない。
「というかね、貴方電話を取るのも遅かったでしょう? あんなに掛かる物なの? 悲しく切ない都会の音の代名詞とも言える様なあの『プルルルル』ってやつを女の子に5回以上聞かせるんじゃないわよ、本当」
「僕は眠くて……」
「だから、なに」
本当に、この神経の図太さには感心させられる。
ははは、と間抜けに笑ってから、僕は食卓の椅子を電話台まで引っ張ってきてそれに座った。
――すっかり長電話の体勢なんて、女子高生みたいだな。
「まあ、いいわ。私の話を聞きなさいね。私ね、今何をしていたんだと思う?」
「さあ、分からないね。どうしてそんな事聞くの?」
「貴方には全然関係無いわ、とにかく答えて」
質問されている以上、ある程度関係はあると思うが、そんな思想は彼女の頭にはない。
「えーっと、マニキュアを塗っていた?」
「そんな訳無いでしょ。そんな事していたら私、馬鹿みたいじゃない。頭きちんと使ってよね」
でも僕は君がマニキュアを夜遅くに塗るという話を聞いた事があるけどな、という意見は、もちろん彼女には通らない。
「何言っているの? 寝言は寝て言いなさい」
僕はもうすでに半分眠っている状態だよ、理砂。
そう言ってから、次はもうちょっと考えてみる。頬杖をつきながら、少し目を細めて考えてみた。
「じゃあ、チャット、とか?」
「違うわ」
「うーんと……カラオケ?」
「私の居る場所は至って静かよ、此処はカラオケボックスなんかじゃないわ」
「じゃあ、ハッキング」
「ちょっと私、極悪人じゃないのよ!」
極悪人、はかなり言いすぎだと思うよ、と軽く注意してから、僕は改めて考え始めた。少し長くなってきた前髪が目にかかった。もう今では、一般人の三分の一は髪で視界がさえぎられている状態だ。そろそろ切ろうとは思うが、別段髪型に興味も無い。その邪魔な毛を指で絡めて遊びながら、僕は無言になってしまっていた。
「ど、降参?」
「降参」
先に理砂が話し出てくれた。それに相槌をうってから、答えを教えてくれるだろうと思い耳を傾ける。が。
「そう、じゃあこの間の映画の話をするわね」
え、と僕の小さな動揺の言葉も聞かず、理砂は話し始めた。
映画の話だけではない。どんどんと話題が変わっていき、バイト先の愚痴なども混じってきた。それに適当な相槌を打ちながら、心の中で僕はそっと笑った。
だって、理砂はいつもこうだった。
いつも時間を問わず電話してきて、自分の言いたい事を一気に捲し立てていく。久しぶりのそのテンションに、僕は懐かしささえ感じていた。
数十分後、一通りしゃべったのか、理砂は1つ、ふうとため息をついた。
僕は、何も言わなかった。言う気はしなかったのだ。
僕は彼女の話に挟まれる、何も無い静寂が、本当は凄く好きだったから。暫くして、理砂は言葉を発した。
「貴方は――貴方だけは、本当に変わらないのね」
「君も変わっていないと思うよ」
僕はすぐに答える事が出来た。彼女は少しだけふふっと笑う。
「そうね、私は変わらないと思うわ」
「僕もそう思うよ」
これだけは、確信を持って言える。
――君は、変わらない。
だから、やっぱりまだ好きなんだ。僕達が別れたのは、相手に飽きたからじゃない。相手より好きな人を見つけたからでもない。相手の事が好きではなかったと、分かってしまったって訳でもなくて。
だとすると、何故別れる事になったのか、僕は僕で本当に分からないのだけれど。
でも、好きなんだって事は分かるし、理解出来るよ。
「君は、変わらないね」
不動な程の図太さが、やっぱり本当に好きなんだ。
少し経ってから、君は切り出したね。
「……今日」
「今日?」
僕は君が何を言いたいのか、しかもその答えまで分かっていたのだけれど、わざと何も言わなかった。強情で、素直じゃない理砂の素直さを、見てみたかったから。
「……覚えてる?」
彼女はここまでしか言わない。決して核心に触れてはいないけれど、僕には何の事か良く分かった。何を、と聞くまでの意地悪はしないでおこうか。というか僕自身、そろそろ我慢の限界なんだ。何日も、何日も。ずっと前から、カレンダーを見つめて、待っている訳でもなく何かをそっと感じていたから。
電話台の横の壁に貼ってある、カレンダーを見つめた。今日の日付には、滅多にデコレーションなんかをしない僕が唯一この日だけに書いた、赤い花がある。
「ねえ、聞いてる?」
「聞いているよ」
僕はしっかりと言った。もうこの時点で、頭はしっかり起きていた。
よし、言うぞ。最近、ずっと思い描いていた台詞だ。
「空、そこから見える?」
「ええ、見えるわ」
受話器の向こう側で、カーテンを引く音が聞こえる。僕は微笑んだ。椅子からは立ち上がらないで、僕はそのまま目を閉じる。
まさか、言えるとは思っていなかった言葉。本当に陳腐だけど、君は笑ってくれるかな――いや、照れ隠しに、怒るかな。
「雲はある?」
「無いわよ、かなり綺麗な夜空だと言えるわね」
よし、と僕は思わず、電話を持っていない方の手でぐっと拳を作った。ずっと、ずっと、空想していたんだ。君がこんな風に、電話をかけてきてくれるのを本当に僅かに期待して。
あの空想は、無駄ではなかったね。もしや言えるとは思っていなかったのだけれど。
「月も見えるの?」
「ええ」
君はまだ、当惑しているようだった。
けれど、僕の方はもう気持ちが高ぶっていて仕方が無い。たったこれだけ、言葉を述べるのに強い決心がいるなんて。けれど、ずっと言いたかったから。
だから、すんなりと言うことができたよ。
「その月、あげるよ」
君に、あげるよ。
話せなくて。君の愚痴を聞かされなくて。
会えなくて、名前さえ呼べなくて。振り返って笑う、君の顔を見れなくて。
――どれだけ毎日不安だったか。
どれだけ毎日、辛かったか。
その想いを、淡い光にして月にのせるから。
「君に、あげるよ」
月の良い所は、一人が見ているからといって、他の人が見えなくなったりはしない所だ。どんなに遠く離れても、同じ物を見ていられる。
けれど今日は貸しきろう。
あの月は君だけに。
君の、誕生日プレゼントに。
僕はカーテンの閉まった窓を、長く鬱陶しい前髪の間から見つめた。僅かに開いた隙間から、ぼんやりと光る――否。それはまるで、光ろうとして光っているのではなく、その存在そのもので淡い光を出しているような光り方。
――君に、この月を。
「ありがとう、とっても綺麗だわ」
僕は、理砂にも聞こえるか聞こえないかと言うぐらい小さく笑った。出来るだけ、綺麗な笑い声になるように。
「あのね、私今まで――貴方のこと考えていたんだから」
月のプレゼントのお礼は、君の素直なその言葉。
明日からは、また楽しい日々が戻ってきそうだ。
十年前の小説がウェブ上に残っている奇跡に感謝しています。 --2016/10/11
始めまして、初投稿です。感想・批評があれば宜しくお願い致します。本当に上達したいので、出来れば辛口でお願い致します。 --2006/11/20




