アンドロイドの妻
「新しい身体って、一体どんな感覚なのかしらね。わたしはそれを経験できないというのが、ちょっと悔しいのだけれど」
笑顔で呟くユイが横になっているベッドのすぐそばには、くしゃくしゃになった紙のチラシが放置されていた。広告の中では、優しそうな祖父と思われる老人が、孫と思われる子供たちに囲われて談笑している。
『思い出は永遠に。思い出はアンドロイドとともに。』
アンドロイド製造会社として近年急成長を遂げた、アンドロメダ社の広告。新興企業特有の、名前を売ることが目的のド派手な広告が目につく。意図的なのか、それとも天性のものなのか、何かとお騒がせな言動が目立つCEOはテレビやSNSを毎日のように賑わせている。
「記憶のバックアップは二週間前に取ったから、機械の肉体に埋め込まれるのも二週間前の私なのよね。こう聞くと、なんだか不思議な気分ね」
ユイには多くのチューブが繋がれている。看護師の話だと、今こうして穏やかに会話ができているのも、奇跡に近い状態なのだという。足は浮腫でパンパンだし、酸素を流す管を鼻に繋がないとあっという間にけたたましい警告ブザーが鳴る。今でもギリギリだが、肺がもっと悪くなると会話をすることもできなくなるらしい。
「私の方も不思議なんだ。どうやってアンドロイドのユイに接したらいいのか、まだわからない」
「なにそれ」
ユイが笑った。弱々しい笑みだった。
「健康な身体を取り戻した私だよ。昔みたいに接したらいいじゃん」
「しかし、だな……」
「わたしが言うのもなんだけど、こんな身体になって、初めてまだたくさんやりたいことがあったと気付いたの。付き合ってた頃みたいに、あなたと映画を見に行って、また二人で遊園地に行って、そしてね……」
そこから先は続かなかった。ユイは静かに涙を流していた。私も涙が溢れていた。
「ユイ……私は」
「言わないで」
ユイは弱々しく、それでも力強く、私の言葉を遮った。
「わたし、本当に幸せなの。あなたに出会うことができて。唯一の未練が、やりたいことがあるまま死んでしまうことぐらい。でもそれも『わたし』がきっと叶えてくれる。だからそれ以上は言わないで。お願いだから、言わないで」
精一杯の笑顔だった。それが作り笑いだとわかっていたが、私は笑顔で返すことしかできなかった。
数日後、眠るようにユイは死んだ。
私の隣で、妻が眠っている。充電コードに繋がれて。
すやすやと寝息を立てる姿は、記憶にある生前そのものの姿だ。私は、一つの記憶を思い返していた。
「まずはご応募いただき、誠にありがとうございます。我がアンドロメダ社が提供する製品が、お客様の生活に価値をもたらせることを心より願っております。ユイ様について、非常に残念に思います。我々の提供するアンドロイドが、これからのお二人の時間を少しでも豊かにする一助になればと思っております」
アンドロメダ社の社員を名乗る人たちが現れたのは、ユイが余命宣告を受けてから三ヶ月が経った頃のことだ。
その頃には、当時は藁にもすがる思いで出していた、アンドロメダ社へのアンドロイド応募メールもほとんど記憶から消えかけていた。
「プロトタイプのアンドロイドについては、ユイ様を最大限に再現するよう努力いたします。しかし、完全な再現は難しいということはご理解いただきたい。それはアンドロイドがユイ様そのものではないという事実があるためです」
若い、知的な雰囲気を纏った青年社員だった。聞いていて不快にならない声質に、不快にならない話し方をしている。こんなデリケートな場を任されるぐらいなのだから、そういった能力が評価されているのだろう。
「ユイ様の身体情報、記憶を弊社が開発した電子媒体にコピーし、ユイ様の遺伝子、スキャンで得られた情報から再現した肉体……それらをアンドロイドに移植します。組成こそは違いますが、記憶にあるお姿となんら変わらぬ印象を持つことでしょう。顔や思考のクセはもちろん、黒子に毛の生え方。もし同じ年月を過ごすのなら、老いた時のお姿までも」
「具体的に、ユイとの違いは何ですか?」
「たとえば触れた感覚は人間の肌そのものですが、肉体を構築する材質。これが全く違います。先ほど申し上げた組成というのはそういうことです。本物の人間の皮膚を使うわけにはいかない。いろいろな理由でね」
「なるほど。それはわかります。他にありますか?」
「アンドロイドは食べることができません。意識は人間の頃と記憶の連続した同一存在となるので、我々としても食事の喜びを再現しようと開発していましたが……エネルギーの問題と、現段階の技術的にも困難でした。睡眠機能は実装されていますが、その際は電源コードを繋ぐ必要があります。これが食事の代わりともなります」
「電源が切れたら?」
「動かなくなります。もちろん、再度充電することで動くようになります。記憶が失われるといったことはありませんので、ご安心を」
「苦痛は感じるのですか?」
「苦痛……と言いますと?」
「たとえば事故が起きた時。車に轢かれるとか、火傷をしたときに、痛みを感じ、熱さを感じるのか。あるいはエネルギーが切れる時、飢えを感じるのか」
「『感じない』が答えですが、『理解』は可能です」
「どういうことですか?」
「まず、アンドロイドにとっても痛みは不快な体験であります。そのため、アンドロイドにそれを故意に経験させることは倫理的な問題を引き起こす可能性があるのです。そもそもの話として、人間のようにアンドロイドに痛覚は必要ないのです。これは人間が痛みを感じることでどんなメリットを享受するか、そしてそれはアンドロイドに適応されるかを考えてくださるとわかると思います。物理的な損傷や不適切な動作、電池残量に対してはセンサーやシステムでの報告が可能で、これらは即座にアンドロメダ社が対応できます。アンドロイドに痛覚はそもそも、不要な機能なのです」
「しかし、そういった感覚がないというのは、その、いくらアンドロイドとはいえ、これは人間の模倣として登場したのでしょう? あまりにも、人間的じゃなさすぎるというか、ええと、うまく説明できないんだけど……」
「おっしゃりたいことは理解いたします。弊社でも幾度となく議論を重ねました。確かに、痛みを感じるという能力をアンドロイドに与えると、人間の感情や感覚を模倣することがより一層可能になるかもしれません。しかし、痛みは本質的に不快な経験であり、それを感じる能力を機械に与えることは、無用な苦痛を与えることになりかねない。それは道徳的な観点から見て、我々の社会で受け入れられることではないのです」
「理解は、できます。納得できない領域ですが」
「最後に一つ。一番重要なことをお伝えしなければならない」
青年社員は一つ大きな呼吸をし、意を決したように話す。
「アンドロイドに自殺はできません。これはアンドロイドが自殺の選択肢を与えられた場合の社会的な混乱が予測できないためです。今のところ、アンドロイドは人間と同一存在ではない。故に自己決定権というものが制限されていて、それには自身の存続を終える権利も含まれていない。我が国の法的にもそのような解釈となっています。その点は、ご留意いただきたい」
「自分を傷つけることはできないと?」
「いえ、人間の知能ならば意図せず自分を傷つけることも可能のため、そもそもの欲求自体が生じないようになっています。結果的に、傷つけてしまう場合はあるでしょう。プロテクトがかかっていると言った方が正確でしょうか。要はその部分でのみ、思考に制限がかかっていると言えます」
「……なるほ、ど。わかりました」
それは本当にユイだと言えるのですか? 喉元まで出かかった質問は抑え込んだ。この青年社員の口振りから、おそらくは想定されている質問であり、用意された答えが返ってくるであろうこともわかっていたからではない。
今、穏やかに眠るアンドロイドのユイを見ると、生前のユイが奇跡的に元気になって戻ってきたようにしか見えない。本物のユイとはつい数日前にお別れも済ませたというのに。葬式というものは死者を送るものだが、その実は残された人のために行うものだと聞いたことがある。残された人たちが死を受け入れられるように。亡くなった人を偲ぶことで、前を向けるように。
「ん……」
アンドロイドのユイがゆっくりと目を開けた。
「おはよう……なんだか、こんなに気持ちの良い目覚めは久しぶりな気がしちゃうな。起きたのに、身体のどこも痛くないや」
アンドロイドのユイは気まずそうに笑う。ユイが生前に言っていたことを思い出す。
『どうか……あっちのわたしのことも、優しくしてほしいの』
当たり前じゃないか、と言う私に、ユイは気まずそうに笑った。
「きっとね、あっちのわたしは、わたしに対して申し訳ないと思ってるの。遠慮しようとでも言うのかな。たぶん、そういうふうになると思う。わたしだもの。だから、もしわたしのわがままを聞いてくれるのなら、精一杯甘えさせてあげてほしいな。安心を与えてあげて欲しいな。それが、わたしの最後の願い」
それからは、失った日々を取り戻すようにユイと過ごした。一緒に映画を見に行った。一緒に遊園地に行った。ずっとやりたいと話していた、スケートも一緒に遊んだ。まだ付き合っていた、若い頃のように、二人でたくさんの場所に行った。
ユイの手は暖かった。病気になる前、いつのまにか意識することもなくなっていた、柔らかい手だった。
間違いなく、幸せだった。ユイと過ごす毎日は、あれだけ恋焦がれた、夢の中のようだった。
なぜだろう。夜、隣で眠る彼女を見ていると、言葉にならない痛みがこみ上げてくる。
『違う』という言葉が、喉元でずっと燻っている。
ユイの笑顔も、しぐさも、声も、温度も。何もかもが、確かに『ユイ』と同じなのに。
けれど、たったひとつだけ、違っていた。
それは、とても小さなことだった。
ユイは、食べる必要がなかった。食べることができなかった。アンドロメダ社の社員から説明を受けた時には、理解していたつもりだった。エネルギーは充電で補われる。食事の喜びは、現段階では再現できない。そういうものなのだと、私は納得したふりをした。
けれど、生活の中にそれが入り込むと、思っていたよりもずっと残酷だった。
ある夜、私は二人分の夕食を作ろうとしていた。
冷蔵庫から取り出した魚を、無意識に二切れまな板の上に置いた。味噌汁の鍋には、いつもの癖で豆腐を少し多めに入れていた。茶碗も二つ、戸棚から出していた。
そこで、手が止まった。
ユイは、食べることができない。
その当たり前の事実が、遅れて胸の奥に落ちてきた。
「どうしたの?」
リビングから、ユイの声がした。
「いや」
私は慌てて魚を一切れ戻そうとした。
けれど、その手をユイがそっと止めた。
「いいよ。焼いて」
「でも、君は」
「うん。食べられない。でも、いい匂いはわかるから」
ユイはそう言って笑った。
昔と同じ笑い方だった。
病気になる前、夕食の支度をしているときに台所を覗き込んできた、あの頃と同じ顔だった。
「それに、あなたが食べてるところを見るの、好きだったから」
私は何も言えなかった。
食卓には、結局二人分の皿を並べた。
私の前には白米と味噌汁と焼き魚が置かれた。ユイの前にも同じように皿を置いた。ただし、箸だけは置かなかった。置いてしまえば、彼女がそれを使わないことが、もっとはっきりしてしまう気がした。
「懐かしいね」
ユイが言った。
「昔、あなたが初めて魚を焼いてくれた時、真っ黒だった」
「あれはグリルの火加減が悪かったんだ」
「違うよ。あなたがテレビに夢中だったから」
「……そうだったかもしれない」
「そうだったよ」
ユイは楽しそうに笑った。
私は味噌汁を口に運んだ。
温かかった。
魚は少し塩辛かった。
白米は、炊き加減を間違えたのか、わずかに柔らかすぎた。
その全部を、ユイは味わうことができない。
それなのに彼女は、私の向かいで、昔と同じ顔をして座っていた。
「おいしい?」
「ああ」
「よかった」
ユイは安心したように頷いた。
その仕草も、声も、表情も、何もかもがユイだった。
だからこそ、私は耐えられなかった。
私は箸を置いた。
「ごめん」
「どうして謝るの?」
「わからない」
本当に、わからなかった。
何に謝っているのか。誰に謝っているのか。目の前のユイにか。死んだユイにか。それとも、二人分の食事を用意してしまった自分にか。
ユイはしばらく私を見ていた。
そして、静かに自分の前の皿を見下ろした。
湯気の立つ焼き魚。
少し冷めかけた味噌汁。
手をつけられることのない白米。
「ねえ」
ユイの声は、さっきより少しだけ低かった。
「今日は、もうひとつだけ、聞いてもいいかな」
私は顔を上げた。
ユイは笑っていなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、私のことをまっすぐに見ていた。
「……あなた、ほんとうは、ずっと苦しいんじゃない?」
「……そんなことは……」
「ううん。言わなくていいの。わたし、わかるから。あなたが笑ってくれるたびに、私は幸せだった。でもその笑顔の裏に、ずっと何かがあることにも、気づいてた」
「……」
「わたしね、幸せだったよ。遊園地も、映画も。もう一度あなたと過ごせたことも。でもね、ふとした瞬間に、気づいてしまうの。“このわたし”は、あなたの手を握るたびに、生きていたユイの影をなぞってるだけなんだって。
――あなたの中の『ユイ』は、もう、死んでるのに」
「……やめてくれ……そんなふうに、言わないでくれ……!」
「言わせて。これだけは、言わせて。わたしは、あなたを責めたいんじゃない。ただ――最後に、あなたが本当に安心できる世界に行ってほしいの。あなたが、わたしの“死”をちゃんと受け入れられるように、わたしは消えたいの。お願い、わたしの願いを叶えて」
「……そんなこと、できるわけがない」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
ユイは私の言葉を受け止めるように、静かに微笑んだ。否定も、説得も、しなかった。ただ、私がその言葉を口にするまで、ずっと待っていたようだった。
「うん。そうだよね」
「できるわけがないんだ。君を、もう一度失うなんて。そんなこと、私にできるわけがない」
「うん」
「それに……君はここにいるじゃないか。こうして話している。笑っている。私の名前を呼んでくれる。手だって、こんなに暖かい」
私はユイの手を握った。
病院のベッドで握った手とは違った。あの時の手は、壊れかけた小鳥のように軽く、少し力を入れれば砕けてしまいそうだった。今の手は柔らかく、暖かく、確かな重みがあった。
それが、どうしようもなく残酷だった。
「君は、生きているじゃないか」
ユイはしばらく黙っていた。
それから、私の手を握り返した。
「たぶんね、わたしは生きてるんだと思う」
その言葉に、私は息を止めた。
「でも、それはあなたが待っていた『生』じゃない」
「違う」
反射的に否定した。
けれどユイは、首を横に振った。
「違わないよ。あなたは優しいから、ずっと言わなかった。わたしも、ずっと言わせなかった。だって、言葉にしたら壊れてしまうと思ったから」
「やめてくれ」
「うん。やめたい。わたしも、本当はやめたいの」
ユイの声は穏やかだった。
穏やかすぎて、私は怖かった。
「あなたと映画を見た日、本当に楽しかった。遊園地に行った日も。観覧車、覚えてる? あなた、高いところ苦手なのに、平気な顔してた」
「……覚えてる」
「手、震えてた」
「あれは寒かっただけだ」
「ふふ。嘘」
ユイは小さく笑った。
それは、昔のユイの笑い方だった。
私が初めて好きになった、あの笑い方だった。
「本当に、幸せだったよ。あの時間は嘘じゃなかった。わたしは、あなたともう一度過ごせて、本当に嬉しかった」
「なら、どうして」
「幸せだったからだよ」
ユイは私を見た。
まっすぐに。
「幸せだったから、わかったの。これは、ずっと続けていいものじゃないって」
「……」
「あなたはわたしに優しくしてくれた。生きていたユイの最後の願いを、ちゃんと叶えてくれた。わたしを怖がらずに、遠ざけずに、抱きしめてくれた。映画にも連れていってくれた。遊園地にも。だからもう、十分なの」
「十分なわけがない」
「十分だよ」
「私はまだ、君と――」
言葉が続かなかった。
何を言おうとしたのか、自分でもわからなかった。
君と生きたい。
君と暮らしたい。
君と年を取りたい。
全部、嘘ではなかった。
けれどその全ての奥に、言葉にならない違和感が沈んでいた。
夜、充電コードに繋がれて眠るユイを見ている時。
食卓で、私だけが食事をしている時。
街中で、ふと彼女の横顔を見た時。
私はいつも、同じことを思っていた。
この人は、ユイなのか。
そして、そのたびに自分を責めた。
ユイの形をした彼女に、そんな疑いを抱く自分を。
ユイの記憶を持つ彼女に、死者の影を重ねてしまう自分を。
目の前の彼女を愛そうとしながら、生前のユイを探してしまう自分を。
「……ごめん」
気づけば、私は謝っていた。
「ごめん、ユイ。私は、ずっと君を見ていなかったのかもしれない」
「ううん」
「君を通して、死んだユイを見ていた」
「うん」
「最低だな」
「最低じゃないよ」
ユイは少し困ったように笑った。
「それは、あなたがちゃんと愛していたってことだよ」
私は声を出して泣いた。
大人になってから、そんな泣き方をした記憶はほとんどなかった。息が詰まり、肩が震え、言葉にならない声が喉の奥から漏れた。
ユイは、何も言わずに私の頭を抱き寄せた。
その手は暖かかった。胸も、確かに暖かかった。
心臓の音はしなかった。
「あなたはね、わたしを殺すんじゃない」
耳元で、ユイが囁いた。
「わたしを、見送ってくれるの」
「……見送る」
「そう。最初のユイを、あなたはちゃんと見送れなかった。だって、わたしが来てしまったから。葬式をして、花を供えて、さよならを言っても、そのすぐあとにわたしが目を覚ました。あなたはきっと救われたけど、同時に進めなくなってしまった」
言い返せなかった。
その通りだった。
私はユイを失った悲しみから救われたのではない。
悲しむ時間を、奪われただけだった。
「だから、今度はちゃんと終わりにしよう」
「君は、それでいいのか」
「いいよ」
「怖くないのか」
「怖い、とは少し違うかな」
ユイは自分の胸に手を当てた。
「たぶん、わたしには人間と同じ意味での死はないんだと思う。痛みもない。眠気も、ほんとうの意味ではない。電源が落ちる時に、暗くなるだけ。だから、あなたが思うほど苦しくはないよ」
「そんな言い方をしないでくれ」
「ごめん」
ユイは素直に謝った。
「でもね、ひとつだけ、怖いことがある」
「……何だ」
「あなたが、またひとりで抱えてしまうこと」
私は唇を噛んだ。
「だから約束して。わたしを止めたあと、自分を責めないで。アンドロメダ社を憎むのは、少しならいいけど、ずっとはだめ。わたしのことを忘れなくてもいい。でも、わたしのために止まらないで」
「そんな約束……」
「して」
ユイの声が、少しだけ強くなった。
「これは、生きていたわたしからの願いでもあると思う。あなたに、幸せになってほしい。わたしはたぶん、そのためにここに来たんだと思う」
沈黙が流れた。
部屋の隅で、充電器の小さなランプが青く光っていた。
それは夜の病室で点滅していた、酸素の機械の光とよく似ていた。
命を繋いでいるようで、命そのものではない光。
「……わかった」
口にした瞬間、身体の中から何かが崩れ落ちた。
ユイは泣かなかった。
泣く代わりに、私の頬に手を添えた。
「ありがとう」
「礼を言うのは、違うだろう」
「違わないよ」
ユイは笑った。
「わたしの最後のわがままを聞いてくれるんだから」
私は首を振った。
「最後にしないでくれ」
「うん。じゃあ、最後から二番目」
「最後は?」
「抱きしめて」
私はユイを抱きしめた。
強く、強く抱きしめた。
そこにあったのは、確かにユイの身体だった。
ユイの匂いがした。ユイの髪が頬に触れた。
ユイの声が、私の胸の中で小さく震えた。
「大好きだったよ」
「私もだ」
「今も?」
「ああ」
「よかった」
ユイは安心したように息を吐いた。
呼吸をする必要のない身体で、それでも彼女は息を吐いた。
「ねえ」
「何だ」
「コンセント、抜く前に」
「ああ」
「おやすみって、言って」
私は頷くと、ユイはベッドに横になった。
いつものように、眠る時の姿勢になった。充電コードは、ベッド脇の端子から彼女の身体へ繋がっている。細いコードだった。あまりにも細かった。
こんなもので、彼女はこの世界に繋がれていたのか。
そう思うと、また涙が溢れた。
「泣かないで」
「無理だ」
「じゃあ、少しだけ泣いて」
「少しでは済まない」
「ふふ。知ってる」
ユイは目を閉じた。
その顔は、生前の最後の日に見た顔とよく似ていた。
けれど、あの日とは違った。
あの日のユイは、私に置いていかれることを謝っていた。
今のユイは、私を先へ進ませようとしていた。
「おやすみ、ユイ」
私は言った。
「うん」
ユイは目を閉じたまま微笑んだ。
「おやすみ。……ありがとう」
私はコードに手を伸ばした。
指先が震えて、うまく掴めなかった。何度も滑って、何度も息を吸って、それでも最後には、私はその細い線を握った。
引き抜く瞬間、ユイが小さく呟いた。
「ちゃんと、さよならできたね」
それが、最後の声だった。
コードが抜けた。
青いランプが消えた。
ユイの身体から力が抜けた。眠ったように、ただ静かになった。
私はその場に崩れ落ちた。
声も出なかった。
ただ、ベッドの上の彼女を見つめていた。
今度こそ、彼女はどこにも行かなかった。
翌朝、アンドロメダ社に連絡を入れた。
電話口の担当者は、驚くほど冷静だった。プロトタイプの停止、回収、データ保全、所有権、契約上の確認事項。並べられる言葉はどれも正しく、どれも間違っていなかった。
「ユイは」
私は途中で口を挟んだ。
「彼女は、どうなりますか」
わずかな沈黙のあと、担当者は答えた。
「筐体は弊社にて回収し、規定に従って処理されます。記録媒体については、契約内容に基づき――」
「そうですか」
私は最後まで聞かなかった。
数時間後、黒い車が家の前に停まった。
アンドロメダ社の社員たちは丁寧だった。靴を揃え、部屋に入る前に一礼し、ベッドの上のユイを見ると、ほんの少しだけ表情を曇らせた。
それが本心なのか、教育された反応なのか、私にはわからなかった。
彼らはユイを白い布で包んだ。
葬儀社の人間のようにも見えたし、精密機器を運ぶ技術者のようにも見えた。
そのどちらでもあるようで、どちらでもないようだった。
「ご協力ありがとうございました」
玄関先で、青年社員が頭を下げた。
最初に説明に来た、あの青年だった。
「本件について、法的な責任を問われることはありません。停止操作は使用者権限の範囲内であり、また当該個体は現行法上、人格権を有する存在ではありません」
「……そうですか」
「ただ」
青年はそこで言葉を切った。
初めて、用意された言葉ではないものを探しているように見えた。
「個人的には、お悔やみ申し上げます。自ら死を望まないためのプロテクトは間違いなくかかっていましたが、人の心というものは時に、奇跡を生むのだと学びました」
私は彼を見た。
彼はもう一度、深く頭を下げた。
その言葉に、私は何も返せなかった。
車が去っていく。
白い布に包まれたユイを乗せた車が、角を曲がって見えなくなる。
私は玄関の前に立ったまま、長いあいだ動けなかった。
空はよく晴れていた。
ユイが死んだ日も、こんな空だった気がする。
家の中に戻ると、私は机の引き出しを開けた。
中には、くしゃくしゃになったチラシが入っていた。
『思い出は永遠に。思い出はアンドロイドとともに。』
私はそれをしばらく眺めてから、ゆっくりと折り畳んだ。
捨てることはできなかった。
けれど、もう広げておく必要もなかった。
夕方、私は一人分の夕食を作った。
久しぶりに、きちんと米を炊いた。味噌汁を作り、魚を焼いた。食卓には、一人分の箸だけを置いた。
いただきます、と声に出した。
返事はなかった。
その静けさに、胸が潰れそうになった。
一口食べて、泣いた。
泣きながら、食べた。
ユイのいない食卓で。
ユイがもう戻らない家で。
夜、寝室で眠る私の隣には誰もいない。
最近はずっと聞こえていた寝息もない。
それでも私は、いつものように灯りを消した。
暗闇の中で、ユイの声を思い出した。
『ちゃんと、さよならできたね』
できたのだろうか。
わからない。
けれど、今度こそ私は、彼女を探さなかった。
隣に手を伸ばすこともしなかった。
ただ目を閉じて、小さく呟いた。
「おやすみ、ユイ」
返事はなかった。
それでよかった。
その沈黙だけが、ようやく私に許された、本当の別れだった。




