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噂の悪女は否定しません。ただし本当に怖いのはここからです。

作者: 星渡リン
掲載日:2026/03/17

 王都では、事実より先に噂が走る。

 そして一度「悪女」と呼ばれた令嬢の言葉は、たいてい誰にも信じてもらえません。


 ならば、否定しない方が生きやすいこともあるのではないか。

 そんな発想から生まれたお話です。


 誤解、印象、空気、社交界。

 きらびやかな場所ほど見えない圧が強い世界で、主人公が「悪女」という噂そのものを武器にして立ち回ります。


 少しひやりとして、少し痛快で、続きが気になる物語を目指しました。

 楽しんでいただけましたら嬉しいです。

 王都アルヴェインの春は、花よりも先に噂が咲く。


「ルグラン子爵家のご令息、あの方に泣かされたんですって」

「泣かされたどころか、婚約の話まで消えたそうよ」

「まあ、怖い……」


 ひそひそ声は、ひそひそ話しているつもりなだけで、よく響く。


 アシュベリー伯爵令嬢ヴィオレッタは、紅茶のカップを静かに傾けながら、自分についての噂を聞いていた。


 黒に近い紫の瞳。感情の読みにくい整った顔立ち。黙っていれば美しい。動かなければ冷たい。笑わなければ恐ろしい。


 噂という生き物を育てるには、実に都合のいい顔だった。


 背後で、新しくついた侍女ミレイユがごく小さく息をのむ。


 まだ十五歳になったばかりの少女は、主人の悪評を本気で信じているらしい。茶会が始まってからずっと、肩に力が入りっぱなしだった。


 ヴィオレッタはカップを置いた。


「少し、冷めているわ」


「も、申し訳ございません……!」


 ミレイユは飛び上がるように頭を下げた。


 その様子を見て、少し離れた席の令嬢たちが顔を見合わせる。


「やっぱり」

「侍女も長く続かないのね」

「前の方も三人辞めたのでしょう?」


 正しくは、一人は実家の事情、一人は結婚、一人は料理長と喧嘩して辞めた。


 どれもヴィオレッタとはほとんど関係がない。


 けれど、事実はいつも丸ごと流通するとは限らない。切り取られ、並べ替えられ、もっともらしい顔をして人から人へ渡っていく。


 前世で、ヴィオレッタはそれを嫌というほど見てきた。


 日本。会社。会議室。画面の向こうで増え続ける短い言葉。事情も文脈も知らない誰かが、一文だけを見て断罪する。謝罪文の句読点さえ燃料に変え、人を追い詰めていく。


 説明して助かった人を、ヴィオレッタはあまり知らない。


 だからこそ、今生で十歳のとき前世を思い出し、この王都の社交界があの世界によく似ていると知った瞬間、彼女は一つの結論を出した。


 誤解は、必ずしも解くものではない。

 時には、持っていた方が安全だ。


「お嬢様」


 控えめな声に顔を上げると、主催家の侍従が銀盆を捧げていた。


 盆の上には、封蝋のついた招待状が一通。王家の紋章が刻まれている。


 茶会の主が目に見えて息をのむ。周囲の令嬢たちの視線も、一斉に集まった。


 ヴィオレッタは封を切り、中身に目を通す。


 三日後、王宮主催の夜会への招待。


 列席予定者の名簿の中に、見覚えのある名があった。


 レオノーラ・セレスティア侯爵令嬢。


 王都で最も可憐で、最も優しく、そして最も空気の使い方が上手い少女。


 ヴィオレッタは、わずかに目を細めた。


「舞台が整ったのね」


「え?」


 戻ってきたミレイユがきょとんとする。


 ヴィオレッタは答えず、立ちのぼる紅茶の香りを静かに吸い込んだ。


 王都では、招待状一枚が剣より雄弁だ。


 誰が呼ばれ、誰が呼ばれず、誰の隣に立つのか。

 その並びだけで、人の価値も、次に流れる噂の向きも決まる。


      ◇


「お嬢様は……夜会に、行かれるのですか?」


 屋敷へ戻り、ドレスの仮縫いが始まったころ、ミレイユは縫い子の後ろからおそるおそる聞いてきた。


「招待されたもの。行くわ」


「でも……また何か、言われるかもしれません」


「言われるでしょうね」


 あっさり返すと、ミレイユはますます困った顔になった。


 ヴィオレッタは鏡越しにその顔を見る。


「ミレイユ。あなたは、私が噂どおりの人間だと思う?」


「そ、それは……」


 少女は固まった。


 肯定しても失礼。否定しても白々しい。実に困る質問だろう。


 その狼狽が少し可笑しくて、ヴィオレッタは口元だけで笑った。


「では、質問を変えるわ。私が違うと否定したら、あなたは安心する?」


「少しは……すると思います」


「でしょうね。でも、その安心はあまり役に立たないの」


 ミレイユがぱちぱちと目を瞬く。


「人はね、自分が先に決めた物語を信じるの。悪女なら悪女らしく、聖女なら聖女らしく。そういうわかりやすい話の方が、皆好きだから」


「ものがたり……」


「ええ」


 ヴィオレッタは袖口を整えながら続けた。


「私は前に、説明しても助からない人をたくさん見たわ。だから学んだの。言葉で覆すより、相手が見たいと思っているものを逆に利用した方が早いこともあるって」


 ミレイユはまだ半分も理解できていない顔だったが、それでいい。


「見ていなさい」


 ヴィオレッタは静かに言う。


「否定しない方が、よく見えることもあるわ」


      ◇


 夜会当日、王宮の大広間は金色の湖のように輝いていた。


 無数のシャンデリアが灯を散らし、磨き抜かれた床には光が溶けている。花の香り、香水、笑い声、楽団の旋律。すべてが美しく、すべてが少しだけ息苦しい。


 ヴィオレッタが姿を見せると、空気がほんのわずかに張った。


 誰も露骨には避けない。だが、誰も彼女の近くに長くは立たない。


 怖がられている。


 不快でもある。けれど便利でもあった。


 この世界では、人々の認識がごく微弱な魔力を帯びる。


 多くの人間が「あの令嬢は恐ろしい」と信じていれば、その印象はただの気分では終わらない。場の温度や距離感に、見えない圧として滲み出る。


 ヴィオレッタは昔から、それを肌で感じていた。


 今もまた、人々の「怖い」という認識が薄い霧のように彼女の周囲を取り巻き、誰かが一歩近づこうとするたび、足を止めさせている。


 その圧を、彼女は利用していた。


「ヴィオレッタ様」


 鈴を転がすような声がした。


 振り向けば、レオノーラ・セレスティアが桃色のドレスを揺らして立っている。


 金糸のような巻き髪。やわらかな微笑。少し潤んだように見える瞳。誰が見ても守りたくなる顔だった。


「お会いできてうれしいですわ。以前から一度、きちんとお話ししてみたかったのです」


「そう」


「皆さま、誤解なさっていることも多いでしょう? わたくし、ずっと心を痛めておりましたの」


 優しい言葉だった。


 けれど優しい言葉ほど、使いどころによっては刃になる。


 ヴィオレッタはレオノーラの胸元に目をやった。青い石のついたブローチがきらめいている。侯爵家に代々伝わる品だと、昼間に聞いたばかりだった。


「お心遣い、ありがとう」


「そんな。わたくしにできることなど、ほんの少しですわ」


 レオノーラははにかむように目を伏せ、自然な動作でヴィオレッタのすぐ隣に立った。


 周囲の令嬢たちは、遠巻きに二人を見ている。近づかない。けれど離れすぎない。


 場が用意されている。


 ヴィオレッタはそう確信した。


「ヴィオレッタ様は、きっとお優しい方ですわ。少し不器用なだけで」


「私を庇うつもり?」


「庇うなんて……ただ、きっと誤解が多いのだと思って」


 そのとき、レオノーラ付きの侍女が近づき、耳元で何かを囁いた。レオノーラがわずかに振り向く。


 胸元の青い石が、灯りを受けて揺れた。


 そして数瞬後。


「まあ……!」


 レオノーラが胸元を押さえた。


「どうなさいました?」


「ブローチが……ありませんの!」


 侍女が悲鳴に近い声を上げる。


「先ほどまで確かにあったのです! 奥様の形見の……!」


 ざわり、と空気が動いた。


 人々の目が一斉にレオノーラの胸元へ、そしてそのすぐ隣に立つヴィオレッタへ向く。


 あまりにもわかりやすい流れだ。


 誰かが床を探し始め、誰かが「人払いを」と囁き、誰かが「この場にいた方だけで」と口にする。


 まるで台本どおりだった。


 そして、もっとも都合のいいタイミングで。


 ヴィオレッタのドレスの裾から、青い石のブローチがころりと落ちた。


 大広間に、沈黙が落ちる。


「まさか……」

「でも今、裾から……」

「やはり……」


 数歩離れた場所で、文官見習いのエドガー・ルヴァリエが息をのむのが見えた。第二王子付きの若い官僚候補。人より半歩ぶん冷静な目をした男だ。


「違うのです!」


 レオノーラが震える声を上げた。頬は青ざめ、今にも泣きそうで、見事だった。


「きっと何か誤解がありますわ! ヴィオレッタ様が、そのようなことをなさるはず……」


 庇っているようでいて、庇っていない。


 無実だと言いながら、無実の理由は一つも示さない。

 ただ周囲に、「それでも疑うべき空気」だけを残していく。


 ヴィオレッタは足元のブローチを見下ろした。青い石は、灯りを受けて冷たく光っている。


「見事ですわね」


 小さく呟くと、レオノーラの睫毛が一瞬だけ揺れた。


「え……?」


「ずいぶん丁寧なご準備だと思っただけよ」


「わ、わたくしには何のことか……」


 視線がさらに鋭くなる。


 彼らが求めているのは、否定だった。激情でも涙でも弁明でもいい。とにかく「違います」と言ってくれれば、その出来を皆で採点できる。


 ヴィオレッタはしなかった。


「アシュベリー令嬢」


 年配の貴婦人が冷たい声で言う。


「何か説明はございますか」


 視線が突き刺さる。好奇心と軽蔑、そして少しの期待。どんなふうに取り乱すのか見たいのだ。


 ヴィオレッタは会場を見渡した。


 きらびやかな衣装をまとった人々が、皆、同じ顔をしている。答え合わせを待つ顔だ。


「皆さまがそうお思いなら、それで構いませんわ」


 一拍、空気が止まった。


「み、認めるのですか?」

「違いますわ、そんな意味では……」

「ですが今……」


 ざわめきが広がる。


 レオノーラの瞳には、勝利より先に戸惑いが浮かんでいた。台本が少しずれたのだ。否定しない相手は、責める側にとって思いのほか扱いにくい。


 ヴィオレッタはブローチを拾い上げ、近くの侍従に渡した。


「セレスティア侯爵令嬢にお返しして」


 それだけ言って一礼し、踵を返す。


 逃げるわけでもなく、すがるわけでもなく、ただ「この場はもう終わった」とでも言いたげな足取りで。


 大広間を出た瞬間、背後のざわめきが一気に膨らんだ。


      ◇


 馬車に乗り込むなり、ミレイユが半泣きで叫んだ。


「どうして否定なさらなかったのですか!?」


「騒がしいわ」


「だって、だって……! あれでは本当にお嬢様が……!」


「そう思わせたいのでしょうね」


 ヴィオレッタは窓の外へ目を向けた。王都の夜景は美しい。美しいものほど油断ならない。


「広まり方が雑ね」


「雑、ですか?」


「ええ。焦っている人間がいるということよ」


 今日の配置。視線の集まり方。人の流れ。すべてが少し急ぎすぎていた。


 誰かが、今この瞬間に「悪女ヴィオレッタ」の像をもう一段強くしたかった。そうしなければならない理由がある。


 屋敷へ戻ると、父アシュベリー伯爵が書斎で待っていた。


「聞いた」


 低い声だった。責めているのか、疲れているのか、判別しづらい。


「お前がやったとは思わん」


「珍しいわね」


「だが、そう思われている」


「ええ」


 父は重く息を吐いた。


「なぜ否定しない」


 まっとうな問いだ。だからこそ、ヴィオレッタは少しだけ苦笑した。


「否定したところで、皆さまは信じたい方を信じるでしょう。なら、今は別のものを信じさせた方が早いわ」


「別のもの?」


「セレスティア侯爵令嬢の善良さに、少しだけ影を差すの」


 伯爵は眉を寄せた。


「危うい綱渡りだぞ」


「王都で安全な道なんて見たことがないもの」


 しばしの沈黙の後、伯爵は机の上の紙束を指で叩いた。


「給仕の名簿と夜会の座席表だ。使うか」


 ヴィオレッタは目を見開いた。


「父親としては正しい応援とは思わん。だが今さら、綺麗事で娘を守れるほどこの都は優しくない」


「ありがとう、お父様」


 その呼び方に、伯爵はわずかに視線をそらした。


      ◇


 翌日から、噂は予想どおり王都を駆け巡った。


 ヴィオレッタが盗んだ。

 レオノーラは庇った。

 やはり悪女は恐ろしい。


 けれど、別の声も生まれ始める。


 レオノーラは脅されているのでは。

 怯えていたのは本当に恐怖からでは。

 ヴィオレッタを怒らせると危ない。


 どちらに転んでも、ヴィオレッタにとっては都合がよかった。


 安易に近づいてくる人間が減るからだ。


 彼女は表立って動かなかった。代わりに、静かに確認を重ねた。


 夜会で給仕の配置が通常と違っていたこと。

 レオノーラ付きの侍女が、最近不相応に高価な装飾品を身につけていたこと。

 ブローチの留め具がかなり緩く、少しの接触でも外れやすかったこと。

 そして、ヴィオレッタがあの位置へ立つよう、人の流れがごく自然に誘導されていたこと。


 どれも直接の証拠にはならない。


 けれど社交界に必要なのは、裁判ではない。疑いの角度だ。


 一方、エドガーもまた独自に動いていた。


 あの場で見たヴィオレッタの目が、彼の中に引っかかっていたのだ。追い詰められた人間の目ではなかった。盤面を確認する棋士の目だった。


 調べるほどに、彼は奇妙な違和感を覚える。


 ヴィオレッタにまつわる悪評の多くが、偶然にしてはよくできすぎている。


 泣いた令息。辞めた侍女。震えた商人。

 単独ならただの出来事が、なぜかすべて「悪女」の輪郭にぴたりとはまる。


 誰かが、そう見えるように並べているのではないか。


 そう考えたとき、エドガーの脳裏に浮かんだのは、レオノーラのやわらかな微笑だった。


      ◇


 数日後、侯爵夫人主催の小規模な茶会が開かれた。


 社交界において、小規模な茶会とは小さな戦場のことだ。人数が少ないぶん、囁きはよく回り、沈黙はよく響く。


 ヴィオレッタは濃紺のドレスで現れた。


 前回の一件以来、彼女の周囲には以前よりもさらに広い空白ができていた。誰も露骨には避けないが、皆、二歩ぶんだけ遠い。


 その距離を見て、ヴィオレッタは内心でわずかに笑う。


 安全距離が広がった。


 会場の中央では、レオノーラがやわらかな笑みを振りまいていた。少し憔悴したように見せる演出まで実に見事だ。あの夜から彼女には、「怯える被害者」という新しい役が与えられている。


「ヴィオレッタ様」


 誰かが息をのむように名を呼ぶ。


 視線が集まる中、ヴィオレッタはまっすぐレオノーラのもとへ歩いた。背後でミレイユが倒れそうな顔をしている。


「ごきげんよう、セレスティア侯爵令嬢」


「ご、ごきげんよう……」


 レオノーラの笑顔がわずかに硬い。


 怯えすぎれば芝居に見える。平静すぎれば前回との整合が崩れる。彼女もまた、難しい綱を渡っていた。


 ヴィオレッタは差し出された紅茶を受け取り、何でもない話をするように口を開く。


「このあいだの夜会、給仕の配置が珍しかったそうですわね。奥の通路にいつもより人が多くて、少し驚いたの」


「あ、あら……そうでしたの?」


「ええ。珍しいこともあるものね」


 周囲の数人が、さりげなく耳を傾ける。


「それから、あのブローチ。とても繊細なお作りだったとか。留め具が外れやすいと宝飾師が申していましたわ」


 レオノーラの指先が、ぴくりと揺れた。


「まあ……そうでしたの……」


「知らずに身につけていらしたなら危ないわね。少しぶつかっただけでも落ちてしまうのでしょう?」


 誰も口を挟まない。


 だが、空気は確実に動いていた。


 ヴィオレッタはさらに、砂糖をひとつカップに落とすような軽さで続ける。


「レオノーラ様付きの侍女も、最近ずいぶんと良い贈り物をいただいたとか。若い方は華やかなものが似合ってうらやましいわ」


 茶匙が皿に触れ、ちり、と鳴った。


 レオノーラの頬から色が引く。周囲の婦人たちが視線を交わした。


 侍女への贈答。夜会の配置変更。外れやすい留め具。

 どれも単独では無害だ。だが並べれば、人は勝手に物語を作り始める。


 今度、その物語に落ちるのはレオノーラの方だった。


「ヴィオレッタ様は……」


 レオノーラが震える声で言う。


「まるで、わたくしが仕組んだような言い方をなさるのですね」


 悪手だった。


 まだ誰も、そこまでは言っていない。

 だからその言葉は、自ら輪郭をなぞったように聞こえる。


 会場の空気が一段深く沈んだ。ついこの前までヴィオレッタに向けられていた「怖い」が、今、別の場所へ流れ始める。


 ヴィオレッタはゆっくりとカップを置いた。


「わたくし、何も申し上げておりませんわ」


 静かな一言。


 けれど、それは細い針がもっとも柔らかい場所を正確に刺すような言葉だった。


 レオノーラの唇が開き、閉じる。何を返しても、自分で自分を説明することになる。


「ただ」


 ヴィオレッタは感情を動かさぬまま続けた。


「誤解は怖いものですわね。ほんの少し出来事が重なっただけで、人は好きな物語を作ってしまうのですもの」


 その意味は、会場の誰もが理解した。


 今、物語を作られているのは誰か。


 レオノーラの瞳が潤む。だが前回とは違う。これは同情を呼ぶ涙ではない。疑いに追いつかれた人間の涙だ。


 ヴィオレッタは一礼し、その場を離れた。


 背中へ向けられる視線の質が変わっているのを、はっきり感じた。


 恐怖はまだある。けれどそこに、畏れに似たものが混じり始めていた。


      ◇


「お見事でした、と申し上げるべきでしょうか」


 茶会の後、庭園へ続く回廊でエドガー・ルヴァリエが待っていた。


「褒め言葉に聞こえないわね」


「実際、褒めるべきことかどうか判断に迷っています」


 率直な男だ。そういうところは嫌いではない。


「何を迷うの?」


「あなたはあの夜、自分の潔白を示せたはずです。少なくとも今日より穏当なやり方で」


「できたでしょうね」


「なぜしなかったのです」


 ヴィオレッタは白い石の欄干に指を置き、庭園を見下ろした。春の薔薇はまだ咲き切っていない。つぼみのうちから品評されるのが王都の花だ。


「否定しても、皆さまは信じたい方を信じますもの」


「では、最初から諦めていたと?」


「いいえ。選んだのよ」


 エドガーは黙って続きを待った。


「好かれることを目指すのは、大変なの。期待に応え続けなければならないし、少しでも外れれば裏切りになる。でも、怖がられるのは簡単よ。一度そう見せれば、人は勝手に距離を取ってくれる」


「それが生き残る術だと」


「王都ではね」


 ヴィオレッタは彼を振り返る。


「悪女だと思われるなら、その方が都合のいい時もあるの。近づきたくないと思わせられる。利用しようとする人間が減る。善意の顔で踏み込んでくる人間も、少しは足を止める」


 エドガーの灰色の瞳が細くなる。


「あなたは、この都をまるで怪物のように言う」


「怪物でしょう?」


 ヴィオレッタは静かに笑った。


「本当に怖いのは私ではありませんわ。誰かを悪役に仕立てることで安心したがる、この都の方よ」


 エドガーはしばらく言葉を失った。


 彼もまた官僚の端くれとして知っているのだろう。整って美しい場所ほど、汚れの流し方が巧いことを。


「では」


 やがて彼は口を開く。


「あなたは、その怪物の口の中で、悪女の仮面を被って立つつもりですか」


「必要なら」


「危険です」


「今さら?」


 ヴィオレッタが言うと、エドガーは苦笑した。


「確かに」


 彼は一歩下がり、一礼する。


「それでも、私は調べます。あなたにまつわる噂は、あまりに出来すぎている。誰かが意図して並べているなら、放置すべきではない」


 その言い方は、彼がヴィオレッタを完全には信じていない証でもあり、少なくとも見捨ててはいない証でもあった。


「好きにすれば」


「そうします」


 回廊を去りかけたエドガーが、ふと思い出したように足を止める。


「ところで、あなたの新しい侍女は途中で何度も倒れそうな顔をしていました」


「ええ。よく頑張っていたわ」


「少しは安心させてあげてください」


「努力はする」


 エドガーは珍しく笑って去っていった。


      ◇


 その夜、ミレイユは寝台の脇で小声で言った。


「お嬢様、今日のあれは……すごかったです」


「そう」


「こ、怖かったですけど」


「でしょうね」


「でも……前みたいな怖さじゃなくて」


 少女は言葉を探すように両手を握ったり開いたりする。


「守られている側の怖さ、みたいな……」


 妙な表現だった。けれど、嫌いではなかった。


「ありがとう、ミレイユ」


 そう告げると、少女はきょとんとしてから、耳まで赤くした。


 一方そのころ、王城の資料室でエドガーは古い記録をめくっていた。


 社交界の醜聞を雑にまとめた年代別の控え。その中に、奇妙な単語が何度も現れる。


 悪女。

 魔女。

 災厄の娘。


 しかもそれらの名が浮上する時期は、決まって政争や王家の継承問題、大きな法改正の前後に重なっていた。


「何だ、これは……」


 さらにページを追うと、幾つもの案件の陰に同じ家名が見え隠れする。


 グランツ侯。


 王都の噂市場を裏から束ねていると囁かれる古い名門だ。


 エドガーの背筋を冷たいものが走った。


 これは、一人の令嬢の悪評ではない。

 もっと古く、もっと大きい仕組みだ。


 誰かがこの王都で、必要な時に「悪女」を作っている。


      ◇


 窓辺に立つヴィオレッタは、夜の王都を見下ろしていた。


 遠くの灯りは静かで、静かなものほど油断ならない。


 昼の茶会で、レオノーラの善良さにはたしかにひびが入った。だが、あれで終わるはずがない。レオノーラ自身が駒にすぎない可能性もある。


 王都の空気が揺れている。


 見えない認識の流れが、誰かの都合で形を変えようとしているのを、ヴィオレッタは肌で感じていた。悪女と呼ばれる視線が自分へまとわりつくたび、その輪郭は少しずつ硬く、鋭くなっていく。


 噂は、ただの音ではない。

 信じられ続ければ、やがて現実の形を持つ。


 ならば、その形を選ぶのは自分でなければならない。


 ヴィオレッタは薄いカーテンを押さえ、夜空に向かって小さく呟いた。


「噂の悪女は否定しません」


 その声は静かだった。けれど、芯があった。


「ただし、本当に怖いのはここからです」


 王都のどこかで、また新しい噂が生まれている。


 けれど今度は、その流れを読むだけでは終わらない。


 必要なら、利用する。

 必要なら、食い破る。


 悪女という仮面の内側で、ヴィオレッタ・アシュベリーは静かに目を細めた。


「さて」


 月光の下、その微笑みさえ噂になりそうだった。


「ここからが、本番ね」

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


 本作は、

 「悪女の噂を晴らす話」ではなく、

 「悪女の噂をあえて利用して生き残る話」

 として組み立てました。


 ヴィオレッタは派手に言い返すタイプではありません。

 その代わり、相手が信じたい物語を見抜き、静かに盤面をひっくり返していきます。


 少しでも

 「この悪女、好きだな」

 「続きが読みたいな」

 と思っていただけたら、とても励みになります。


 本当にありがとうございました。

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