借り物の信頼、俺たちの勝利
「――君はクビだ!」
地響きのような田中部長の怒号が、蛍光灯の光さえも震わせる。俺の目の前には、仁王立ちの部長。その背後で、佐藤さんと鈴木くんが唇を噛み締めていた。佐藤さんの目には、部長への恐怖と、それでも俺を庇ったことへの僅かな後悔が宿っているように見えた。
…なんでだ?
なんで俺なんかのために、この人たちは部長に逆らってくれたんだ?
「加賀谷くんのやったことは、やり方はともかく、会社のためになることです!」
「契約社員だからって、黙ってろってのはおかしいでしょ!」
さっきまでの彼らの声が、耳の中で反響する。胸の中に、今まで感じたことのない温かい何かがじんわりと広がっていく。それは心地良いはずなのに、同時に鋭い棘のように心臓を突き刺した。
『借り物の信頼』。そうだ、これは俺がループの知識を使って、彼らの不満を先回りして解消したことで得た、脆い関係だ。俺は、この人たちを危険な賭けに巻き込んでしまった。俺一人がクビになるならまだいい。でも、彼らのキャリアに傷がついたら…?この脆弱な協力関係で、本当に俺たちは田中部長の絶対的な権力に立ち向かい、勝てるのか?
罪悪感と、初めて感じる『仲間』という感覚が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って息が詰まる。この関係は、俺がループの知識で先回りして作り出したものだ。これは、本当の俺の力なのか?俺は、この問いにまだ答えが出せずにいた。
「いいか、加賀谷!明日だ。明日までに、そのくだらんプロジェクトを全て中止し、関係各所に謝罪しろ。それができなければ、契約は即時打ち切りだと思え!」
田中部長は最終通告を叩きつけると、俺が提出した企画書をゴミ箱に叩き込んだ。紙の束が虚しい音を立てる。彼の顔には、俺に対する不信感と、予想外の反発を受けたことへの苛立ちが色濃く浮かんでいた。
絶対的な権力。その前では、どんな正論も、どんな熱意も無力だ。さっきまで俺を庇ってくれていた佐藤さんも鈴木くんも、今は悔しそうに俯くだけで、もう何も言えない。佐藤さんは、田中部長の視線が向けられるたびに、体が微かに震えるのを俺は見て取った。オフィス中の視線が突き刺さる。同情、嘲笑、無関心。俺は完全に孤立していた。ループで手に入れたはずの万能感なんて、木っ端微塵に砕け散っていた。
結局、俺はここでも『居場所』を作れなかったのか。
*
自室の冷たい空気が、肺の奥まで染み渡った。電気もつけず、窓から差し込む月明かりだけが、部屋の隅に立てかけた描きかけのキャンバスをぼんやりと照らしていた。
無力感。何度味わえば気が済むんだ、この感情は。結局、俺は何も変えられない。『すみませんボット』だった頃と、本質的には何も変わっていないじゃないか。
その時、脳裏にあの男の声が響いた。
『次のステージでは、パワハラ上司ではなく、貴方が捨てた『本当の貴方』と向き合っていただきましょう』
クロノスの、あの人を食ったような声。そうだ、この男は言っていた。俺がこの終わらない月曜日に囚われているのは、他でもない、俺が捨てた『可能性』――。その才能の具体的な内容も、なぜそれがループの原因になるのかも、あの男はまだ明かしていないが、確かにそう言っていた。
『本当の貴方』…。
俺は、描きかけの絵に視線を落とす。そこには、ただ無秩序に色が塗りたくられているだけで、何を描きたいのか自分でも分からなかった。
そうだ。今まで俺がやってきたことは、黒川課長への復讐であり、この会社の理不尽さへの反撃だった。それは、既存の何かを壊すための行為。『破壊』だ。だが、破壊の先には何も生まれやしない。瓦礫が残るだけだ。
なら、次は。
俺が本当にやりたかったことは、何だ?
俺が過去に捨てた才能。『人間心理の洞察力』と『戦略的思考力』。それは、人を操り、出し抜くためだけの力じゃないはずだ。
ふっと、息を吐く。
月明かりに照らされたチャコールペンを、そっと握りしめた。
「もう破壊は終わりだ。ここからは…創造の時間だ」
独り言は、決意の狼煙だった。
*
深夜。スマートフォンの画面だけが煌々と光る。俺は、佐藤さんと鈴木くんを招待したグループチャットに、メッセージを打ち込んでいた。
『加賀谷:深夜にすみません。お二人に、ご相談したい作戦があります』
すぐに既読が二つ付く。
『佐藤:加賀谷くん、大丈夫…? 部長、本気みたいだったけど…』
佐藤さんの言葉の端々には、まだ部長への恐怖がにじんでいた。
『鈴木:あんな言い方ねえよな! 俺、マジでぶん殴ってやろうかと思ったぜ』
二人の優しさが、また胸に染みる。だが、今は感傷に浸っている場合じゃない。
『加賀谷:ありがとうございます。でも、部長を倒す必要はありません。あの絶対的な権力に正面からぶつかっても砕かれるだけです。俺たちの目的は、部長を倒すことじゃなく、この会社を良くすることです。だから…会社そのものを、俺たちの味方につけましょう』
俺は、この数時間で練り上げた計画の概要を打ち込んだ。それは、田中部長の権力を正面から否定するのではなく、会社の規定や力関係、そして各部署が抱える問題を巧みに利用して、俺のプロジェクトを『一個人の暴走』から『全社的な悲願』へと昇華させる、緻密な戦略だった。過去のループで得た膨大な情報が、俺の戦略的思考を研ぎ澄ませていた。
『佐藤:……これって、各部署の部長を巻き込むってこと? そんなの、ただの契約社員の君にできるわけ…』
佐藤さんの懸念はもっともだ。彼女はまだ、俺がループの知識でどの部署の誰がどんな問題を抱えているかを知っているとは知らない。それでも、彼女の口調には、俺を信じたいという微かな期待が感じられた。
『鈴木:いや、待てよ佐藤さん。理屈は通ってる。営業部だって、この改善案が通ればマジで助かる。他の部署も同じはずだ』
鈴木くんのWi-Fiが一時的に不調だったのか、少し途切れ途切れの文章だったが、彼の熱意は伝わってきた。
『加賀谷:俺に考えがあります。これは賭けです。リスクもあります。でも、成功すれば、俺たちは何も壊さずに、新しい『当たり前』をこの会社に作ることができる』
数分間の沈黙。画面の向こうで、二人が葛藤しているのが伝わってくる。俺は、ただ息を飲んで待った。
やがて、鈴木くんからメッセージが届く。
『鈴木:…ったく、面白そうじゃねえか。契約社員とか関係ねえよ。面白い方に賭けるのが営業ってもんだろ? 乗った!』
その言葉に、胸が熱くなる。
続いて、佐藤さんからも。
『佐藤:昔、田中部長もああいう熱い人だったんだけどね…。分かったわ。経理のデータなら任せて。部長の度肝を抜くようなコスト削減試算、作ってあげる』
画面の光が、滲んで見えた。
深夜の共犯関係。孤独な戦いだと思っていたこのループで、俺は初めて、背中を預けられる仲間を得た。この脆弱な『借り物の信頼』が、強固なものへと変わっていく予感があった。
*
翌朝。オフィスには、いつも通りの静かな緊張感が漂っていた。俺は自分のデスクで、ただその時を待つ。
田中部長が出社してきた。不機嫌さを隠そうともせず、ドスドスと足音を立てて部長席に向かう。PCを起動し、メールをチェックした瞬間、その眉がピクリと動いたのが見えた。
計画通りだ。
田中部長の受信トレイには今、他部署の部長陣から「加賀谷氏の進める業務改善案について、詳細を伺いたい」という問い合わせのメールが、雪崩のように届いているはずだ。昨夜、俺が過去のループで築いた人脈――いや、一方的に知っているだけだが――を使い、匿名を条件に各部長の個人的なメールアドレスへ改善案の概要を送っておいたのだ。彼らが抱える問題点をピンポイントで解決する内容に、食いつかないはずがなかった。
そこへ、佐藤さんがすっと立ち上がり、部長のデスクへ向かう。彼女の表情にはまだ僅かな緊張が見えたが、その足取りは迷いなかった。
「部長、例の件に関するコスト削減試算です。加賀谷くんの案を実行した場合、年間でこれだけの経費が削減できる見込みです」
淡々とした口調で置かれたレポート。その数字のインパクトに、田中部長の目が大きく見開かれる。
間髪入れず、今度は鈴木くんが続く。
「部長! こちら、営業効率化の見込みレポートです! このツールがあれば、報告書作成時間が大幅に短縮され、その分を新規開拓に回せます!」
論理と、数字と、既成事実。
俺たちは、田中部長が『NO』と言えない状況を、完璧に作り上げた。佐藤さんと鈴木くんは、徹夜で資料を作成し、それぞれの部署で事前に協力を取り付けていた。もはやこれは、俺という『一個人の暴走』ではない。『全社的な期待案件』なのだ。部長一人の独断で、これを中止する権限は、もう彼にはない。
田中部長はしばらくレポートとPC画面を交互に睨みつけていたが、やがて観念したように、大きくため息をついた。彼の顔には、悔しさと、そして不信感の混じった疲労が刻まれていた。
*
「…今回は見逃してやる」
部長室に呼び出された俺に、田中部長は苦々しげにそう吐き捨てた。その顔には「してやられた」と書いてある。本音は「これ以上騒ぎを大きくして自分の管理能力を問われたくない」という保身だろうが、そんなことはどうでもいい。
「ただし! このプロジェクトの責任者は、黒川課長だ。何か問題が起きたら、全て彼の責任にしてもらう。いいな!」
まだ瞑想から帰ってこない黒川課長に責任を押し付けるという、見事なまでの捨て台詞。だが、それでも勝ちは勝ちだ。
オフィスに戻ると、佐藤さんと鈴木くんが駆け寄ってきた。二人の顔には、安堵と興奮が入り混じっている。
俺たちは、何も言わなかった。
ただ、顔を見合わせ、そっと拳を突き合わせる。
ゴツン、と小さな音が響く。
温かいものが、拳を通じて流れ込んでくるようだった。一人で戦ってきた。ずっと、一人だと思っていた。でも、今は違う。
胸が、熱い。だが、その熱さの奥底で、冷たい棘がちくりと刺さる。この勝利は、本当に俺の力で勝ち取ったものなのか?ループで得た知識という、不正なアドバンテージがあってこそだ。彼らの信頼も、この達成感も、すべては『借り物』の上に成り立っているのではないか。この、根源的な違和感が、歓喜に浸りきることを許さなかった。この『これは本当の俺の力か?』という違和感は、きっと今後のクロノスとの対立で重要なテーマとなるのだろう。
安堵と疑念の息をついた、その時だった。ポケットのスマホが静かに震えた。ディスプレイには『非通知設定』の文字。嫌な予感が、背筋を走る。
「…もしもし」
『おめでとうございます、加賀谷さん』
電話の向こうから聞こえてきたのは、クロノスの、あの滑らかな声だった。
『素晴らしい。貴方は初めて『世界』を書き換えた。…さて、そのインク代は、誰が支払うのでしょうね?』
不気味な賞賛の言葉に、全身の血が凍る。
インク代…? どういう意味だ…?俺の行動がもたらした、予期せぬ影響とは何だ?
クロノスの電話が切れた直後、スマホが再び震えた。今度は、見慣れた名前が表示されている。親友の、タカシからだ。
嫌な予感を振り払うように、通話ボタンを押す。
「タカシか? どうした?」
電話の向こうから聞こえてきたのは、押し殺したような、悲痛な声だった。
『加賀谷…! 店が…店が、大変なんだ!』
その言葉に、俺の頭は真っ白になった。
勝利の熱気は一瞬で消え去り、心臓を直接氷で握られたかのような、悪寒が全身を駆け巡った。
俺が書き換えた『世界』。
その代償は、俺の知らないところで、一番大切な友人に支払われようとしていた。




