業務改善クエスト、ラスボスは部長
俺の視界に映るオフィスは、もはや職場ではなかった。
これは、経営シミュレーションゲームだ。タイトルは『業苦商事 立て直し伝説』。そんなところか。
プレイヤーは俺、加賀谷。目的は、非効率とパワハラに満ちたこのクソゲーを、俺だけの力で最適化すること。履歴書には一行も書けない、最高の転職活動。攻略すべきゲームステージだ!
視線の先では、チュートリアルNPCこと黒川課長が、虚空を見つめて微動だにしない。魂がログアウトしたままの彼は、もはやただの置物。最高のサンドバッグであり、最高のカカシだ。
「…よし」
小さく呟き、俺はキーボードを叩き始めた。今こそ、この会社のシステムという名の巨大なラスボスに、一介の契約社員が挑む時だ!
まずは、このゲームの攻略マップ作りからだ。
ループで嫌というほど叩き込まれた、各部署のボトルネック。それを片っ端からテキストファイルに打ち込んでいく。
『経理部:月末に集中する交通費精算。申請フォーマットが古く、手入力箇所が多すぎ。承認フローも無駄に複雑』
『営業部:日報がただの日記。重要情報が埋もれ、共有にタイムラグ発生。結果、他部署との連携ミス多発』
『総務部:備品申請が全部紙。在庫管理も目視。急な欠品で業務停止、なんて笑えない事態が日常茶飯事』
指が止まらない。頭の中に蓄積された「非効率」のデータベースが、滝のように流れ出してくる。カタカタと響く俺のタイピング音だけが、やけにオフィスに響いていた。周囲の同僚たちが、何事かと俺のモニターを遠巻きに窺っている。その視線には「またエスパーが何か始めたぞ」という不審と、ほんの少しの好奇が混じっているのを、俺は知っている。
リストアップを終えた俺は、具体的な解決策を盛り込んだ企画書の作成に取り掛かった。Wordを立ち上げ、見出しに『全社業務効率化プロジェクト(仮)』と打ち込む。我ながら、なんという大胆不敵さ。
だが、今の俺にはループで得た知識と、封印を解いた『戦略的思考力』がある。
「…まずいな」
企画書を作り始めて数分、俺は壁にぶち当たった。具体的な改善案には、各部署の現状データが必要不可欠。だが、俺のアカウントでは共有サーバーの深層部にあるフォルダにはアクセスできない。
『アクセスが拒否されました』
無慈悲なエラーメッセージ。そりゃそうだ、一介の契約社員だもの。
だが、こんなことで諦める俺ではない。正規ルートがダメなら、裏口を探すまで。俺は席を立った。
向かった先は、経理部の島にいる佐藤さんのデスクだ。
「佐藤さん、お疲れ様です。ちょっといいですか?」
「あら加賀谷くん、どうしたの?」
欠伸を噛み殺しながら、佐藤さんが振り返る。昨夜もきっと、お気に入りの刑事ドラマを夜更かしして見たのだろう。ループで得た無駄知識だ。俺は最高の笑顔を貼り付け、彼女のPC画面をちらりと見る。案の定、大量のExcelファイルと格闘している。
「いや、佐藤さん、いつも経費精算大変そうだなって。特にこの月末の交通費、一件ずつ手入力とか地獄じゃないですか?」
俺の言葉に、佐藤さんの目がカッと見開かれた。
「えっ、なんでそれを…!? もしかして、私の心の声読んでる!?」
「いえいえ、滅相もございません!」
エスパー疑惑、加速中! だが、ここで畳み掛ける。
「もし、この申請がスマホで完結して、データも自動で会計ソフトに連携されたら…佐藤さんの月末の残業、半分以下になりますよ」
「…半分以下」
佐藤さんの口から、夢見るような響きが漏れた。
俺はすかさず、事前にスマホで作っておいた簡易的な改善案のモック画面を見せる。
「うわ…すごい…。え、何これ、加賀谷くんが作ったの…? 怖いんだけど」
「ははは…。それで、もしよろしければ、現状のフローと課題点をまとめたデータだけ、こっそりいただけませんか?」
若干引かれているが、実利は人の心を動かす。佐藤さんは数秒迷った後、こくりと頷いた。
次は営業部の鈴木くんだ。彼は俺が近づくと、露骨に警戒した顔を見せた。
「…なんスか。俺、今日はまだプリンター使ってないんで、キレてませんけど」
「知ってるよ。鈴木くんの今日の最初の紙詰まりは、午後二時十五分だから」
「やっぱエスパーじゃないスか! ストーカー!?」
「違う違う! そうじゃなくて、鈴木くんたちが毎日書かされてるあの日報、正直無駄だと思わない?」
俺は鈴木くんの不満の核心を突く。彼は一瞬言葉に詰まり、それから「…まぁ、ぶっちゃけ」と口を尖らせた。
俺は、顧客情報や進捗をリアルタイムで共有できるシンプルなツールの概念図を見せる。
「これなら、日報を書く手間が省けるし、課内の情報共有もスムーズになる。黒川課長の理不尽な『あれどうなった?』攻撃も減ると思うけど」
「…マジすか」
食いついてきた。チョロい、とは言わないが、俺の『人間心理の洞察力』は、パワハラ上司以外にも通用するらしい。
こうして俺は、各部署のキーマンたちを次々と攻略していった。アクセス権限は佐藤さんがこっそり通してくれ、必要なデータは各部署の協力者が集めてくれた。
完成した企画書を印刷しようとしたら、案の定、午後二時十五分にプリンターがけたたましい音を立てて沈黙した。隣で鈴木くんが「ほら来たァ!」と血管を浮き上がらせる寸前、「大丈夫、ここのカバー開けて、緑のレバーを引いて、奥のローラーを布で拭けば直るから」と予言者さながらに告げると、彼は白目を剥いて俺を崇め始めた。
もはや、ただのエスパーである。
俺の非公式な改善活動は、静かな波紋となってオフィスに広がっていった。
「加賀谷さんの作ったマクロ、マジ神…」
「備品申請、データで送ったらすぐ来たんだけど…」
面倒な雑務が少しずつ、それでいて確実に減っていく。その効果を最も実感した佐藤さんたちが、お礼にとジュースを差し入れてくれるようになった。俺は約束通り、営業二課の田中さんに自販機でコーヒーを奢った。
「ありがとう。助かったよ」
田中さんの素っ気ない、でも偽りのない感謝の言葉が、胸にじんわりと染みた。
黒川課長を完膚なきまでに叩きのめした時の、あの乾いた達成感とは違う。誰かに感謝されるというのは、こんなにも温かいものだったのか。
復讐とは違う、純粋な喜び。その心地よさに、俺は少しだけ戸惑っていた。
だが、その穏やかな空気は、唐突に引き裂かれた。
「加賀谷くん、ちょっといいかな」
鋭く、低い声。振り返ると、そこには腕を組んだ田中部長が仁王立ちしていた。トイレでの転倒以来、やけに秩序と規律にうるさくなったと噂の人物だ。その目は、笑っていなかった。
部長室に呼び出された俺の目の前で、田中部長は俺が作った改善案の企画書を、分厚い束のまま机に叩きつけた。
バンッ! という乾いた音が、鼓膜を揺らす。
「これは、なんだね」
「…業務改善に関する、私的な提案書です」
「私的? 君の行動で、各部署が混乱していると報告が上がっている。黒川課長は何をしている!」
「課長は現在、瞑想中です」
「…そうか」
部長は深くため息をつくと、氷のような視線で俺を射抜いた。「君は契約社員だ。それも、今月入ったばかりの。誰が君に、部署をまたいだ改革案など作る権限を与えた?」
「いえ、権限は…しかし、非効率を改善することは、会社にとって有益かと…」
「黙りなさい」
一喝され、俺の言葉は霧散した。ループで得た万能感が、現実の権力構造の前に脆くも崩れ去る。
「君のやっていることは、組織の和を乱す越権行為だ。スタンドプレーは、時に善意であっても組織を破壊する」
部長は忌々しげに呟いた。「またあの時の二の舞はごめんだ…」
その独り言の意味は分からなかったが、彼の揺るぎない拒絶の意思だけは痛いほど伝わってきた。
「いいか、加賀谷。出る杭は打たれるんじゃない。引っこ抜かれるんだ。これは命令だ、わかったな?」
有無を言わさぬ口調で、部長はプロジェクトの即時中止を命令した。
冷や水を浴びせられたようだった。才能と知識があれば、何でもできると思っていた。だが、たった一人の管理職の鶴の一声で、積み上げたものはすべて無に帰す。
これが、組織。これが、現実の壁か。
「…はい」
俺は、無力感に唇を噛み締めながら、そう答えるしかなかった。
意気消沈して自分の席に戻ると、オフィスの空気は凍りついていた。誰もが俺と部長のやり取りに気づいている。同情、あるいは「やっぱりな」という諦めの視線が突き刺さる。
…結局、俺は一人なのか。
すみませんボットに戻るしかないのか。
ループを重ねても、結局は無力なままなのか。
絶望が胸を覆い尽くした、その時だった。
「…あの、部長」
か細い、けれど凛とした声が響いた。声の主は、経理の佐藤さんだった。彼女は席でおずおずと立ち上がり、震える声で、しかしはっきりと続けた。
「加賀谷さんの案、経理としては…正直、すごく助かるんですけど…。ダメ、でしょうか…?」
部長の眉が、ぴくりと動く。
その声に呼応するように、別の声が上がった。
「部長! 営業も、あいつのおかげで無駄な報告書作成の時間、マジで減ったんスよ!」
営業の鈴木くんだ。彼はプリンターが壊れた時のような勢いで立ち上がっていた。
それを皮切りに、あちこちから声が上がり始めた。
「総務も、備品管理が楽になりました!」
「情報共有、前よりずっと早いです!」
今まで遠巻きに俺を見ていただけの同僚たちが、次々と俺を擁護する声を上げる。彼らは皆、部長の威圧に怯えながらも、必死に声を絞り出していた。
俺は、ただ呆然と彼らの顔を見つめていた。
言葉が出ない。
一人で戦っていると思っていた。このゲームのプレイヤーは俺一人で、他は全員NPCだと、どこかで思っていた。
違った。
俺が変えようとした現実は、俺だけのものじゃなかった。俺の行動は、無意識のうちに、彼らのためのものでもあったのだ。
そして、彼らは今、俺のために立ち上がってくれている。
ゲームの敵は一人じゃなかったのか。だが…仲間がいるなら、どんなクソゲーも、少しはマシになるかもしれない。
胸の奥から、熱い何かがこみ上げてくる。それは、復讐の炎とはまったく違う、温かくて、少しだけくすぐったい感情だった。
田中部長は、予想外の反乱に驚いたように目を見開き、それから苦虫を噛み潰したような顔で俺を睨みつけた。
彼の敵意は、もはや疑いようもなかった。
その夜、俺は自室に戻ると、描きかけのキャンバスの前に立った。
『何かを指揮する自分』の淡い輪郭。
俺はチャコールペンを手に取り、その姿の周りに、ぼんやりとした人々の輪郭を描き加えていく。佐藤さん、鈴木くん、まだ顔も知らない誰か。
個の力だけでは、このゲームはクリアできない。
次のループでは、この『仲間』という駒を、どう動かすか。
俺の戦いは、復讐という名のソロプレイから、組織を攻略するチーム戦へと、そのステージを変えようとしていた。




