最高の転職活動(ただし履歴書には書けない)
六度目の月曜日。
見慣れた自室の天井を前に、俺は笑っていた。絶望も、諦めもない。あるのは、これから始まる実験への高揚感だけだ。
「さあ、実験開始だ!」
声に出して、ベッドから跳ね起きる。
業苦商事の古びたオフィスに足を踏み入れると、そこには案の定、生ける屍が鎮座していた。黒川課長だ。
前回のループで俺に完膚なきまでに論破され、よろよろとオフィスを去っていった男。その魂はまだ戻ってきていないらしい。虚ろな目でモニターを眺め、生気のない指が無意味にマウスを彷徨っている。
いつもの怒声も、ネチネチとした嫌味もない。ただ、そこにいるだけ。
……なるほど。こいつはもうラスボスじゃない。
俺の才能を試すための、最初のチュートリアルだ。
席に着きながら、脳内でクロノスの甘い声が反響する。
『貴方が捨てた本当の貴方と向き合っていただきましょう』
目を閉じれば、ホコリを被ったギターケースと、描きかけの巨大なキャンバスが浮かぶ。
そうだ。俺はいつから「すみませんボット」になった? 昔は、こんな人間じゃなかったはずだ。
人を観察し、先を読み、物事を最適化する。
それが、俺の本質。
『人間心理の洞察力』と『戦略的思考力』。
……そうだ、思い出した。俺は昔、クラスの人間関係をチェス盤みたいに眺めて、誰と誰をくっつければ面白いことになるか、なんて考えてるような、嫌なガキだった。面倒くさいから、そんな自分に蓋をしたんだ。
「よし、リハビリだ」
まずは『人間心理の洞察力』から。
俺はオフィス内を見渡し、一人、行動予知ゲームを開始した。
(3秒後、経理の佐藤さんが大きく欠伸をする。昨日のドラマ、最終回だったからな)
カウントダウン、3、2、1……ふぁ〜あ、と間延びした声。的中。
(10秒後、営業の鈴木くんがプリンターの前でキレる。あいつ、紙詰まりごときで毎回キレるから面白い)
鈴木くんがプリンターに向かう。数秒後、ガコン!と嫌な音が響き、「んだよこのポンコツがぁ!」という叫び声。これも的中。
完璧だ。ループで蓄積された情報が、俺の洞察力をブーストしている。楽しくなってきた。
「次は……あ、田中部長、30秒後にトイレで盛大にコケるな」
うっかり、声に出てしまった。
隣の席の同僚が、ギョッとした顔で俺を見る。
三十秒後、フロアの奥から「ぐわっ!」というくぐもった悲鳴と、ガラガラガッシャーン!という派手な音が響き渡った。
「え、加賀谷さん…もしかしてエスパー?」
同僚の引きつった顔に、俺は曖არ昧に笑って誤魔化すしかなかった。
次は『戦略的思考力』のリハビリだ。
ターゲットは、もちろんチュートリアルNPC、黒川課長。
彼のデスクに山と積まれた「誰がやるんだこんなもん」的な書類の山。ループを繰り返したおかげで、その中身も、理不尽な指示の流れも、すべて頭に入っている。
俺は席を立ち、まず営業二課へ向かった。
「田中さん、例のデータ、今なら部長の目もないし、10分で終わりません? お礼に自販機のコーヒー奢ります」
次に経理部。
「佐藤さん、この伝票、黒川課長に回す前に俺の方でチェックしちゃいました。多分、これで一発OKです」
最後に総務部。
「鈴木さん、この間の備品申請、俺の方でまとめておきましたんで!」
各担当者の機嫌、業務の空き時間、上司の不在。過去のループで集めた膨大な情報を元に、最適解を叩き出す。面倒な部署間の連携も、俺が水面下で根回しすることで、驚くほどスムーズに進んでいく。
俺が自分のデスクに戻る頃には、なぜか部署全体の業務が円滑に進み始め、同僚たちは「あれ? なんか今日、仕事楽じゃない?」と首を傾げていた。
気づけば、俺は笑っていた。
復讐じゃない。黒川を叩きのめした時の、あの後味の悪い勝利感とも違う。
これは、純粋な達成感だ。
どんな職場でも通用する、最強の『ソフトスキル』を身につけるための、最高のトレーニングジム。
「これは復讐じゃない。履歴書には一行も書けない、俺だけの、最高の転職活動だ」
そうだ。このクソみたいなブラック企業は、俺が俺を取り戻すための、攻略すべきゲームステージなんだ!
午後三時。
ついに、その時が来た。
抜け殻状態だった黒川課長が、ようやく動いた。いつものように俺の席にのっそりと近づき、パワハラをしようと口を開きかける。
「おい、加賀谷。例の……」
だが、言葉が続かない。俺のデスクに押し付けるはずの、あの理不尽な仕事の山が、どこにもないからだ。
きょとん、と呆けた顔で辺りを見回す課長。
そのタイミングで、俺は静かに一枚の報告書を差し出した。
「課長、ご指示の件、完了しております」
黒川課長は、まるで信じられないものでも見るかのように、俺の手から報告書を受け取った。パラパラとページをめくる指が、微かに震えている。
彼は何も言わずに、ただ俺の顔をじっと見つめる。
その目に浮かんでいたのは、もはや屈辱や怒りではなかった。
未知の生命体に遭遇したかのような、純粋で、原始的な困惑。
もはや、パワハラをすることすらできない。理解の範疇を超えた現象を前に、彼の思考は完全に停止していた。
オフィスに響くのは、空調の音だけ。
この静寂こそが、俺の完全勝利を告げていた。
一日の終わり。完璧な業務ハックを終え、俺は満足感に浸っていた。
その時、ふっと周囲の音が遠のき、目の前にあの男の幻影が現れた。クロノスだ。
「素晴らしいリハビリでしたね。ですが、その才能、本当に“その使い方”でよろしいのですか?」
クロノスが優雅に指し示す。
視線の先には、俺の部屋にあるはずの、あの描きかけのキャンバスの幻影が浮かんでいた。
前回見た時とは違う。
真っ白だったそこに、淡い線で何かが描かれ始めている。
それは、ただのオフィスワーカーではなかった。
何かを指揮し、何かを創造している、俺自身の姿だった。
クロノスは、心を見透かすような笑みを浮かべて、俺に問いかける。
「次のステージでは、その絵の続きを描いていただきましょう。貴方が本当に創りたかったものは、一体何です?」




