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社畜輪廻  作者: おぷっち


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転職エージェントは静寂に囁く

章題: 転職エージェントは静寂に囁く

静寂がオフィスを支配していた。

モニターの電源は落ち、生命を失った箱が並ぶ。つい先ほどまでの喧騒が嘘のようだ。今は空調の低い唸りが、耳の奥で響いている。

黒川課長の姿はもうない。床に崩れ落ち、抜け殻となった彼は、他の社員たちの憐れみ、あるいは怯えの視線に送られ、よろよろとオフィスを去った。

勝った。

完璧に、完膚なきまでに。

だが、胸に広がるのは爽快感ではなかった。妙な後味の悪さだけが残る。ループで得た知識、いわばイカサマで得た勝利だ。俺が本当に誇れるものなのか?



パチ、パチ、パチ…。



乾いた拍手の音が、不意に静寂を破った。

心臓が強く脈打つ。誰だ? 社員は全員帰ったはずだ。

視線を向けると、オフィスの入口、消灯されて薄暗い影の中に、一つの人影が立っていた。ゆっくりと拍手をしながら、その影はこちらへ歩み寄ってくる。

蛍光灯の光が、その姿を照らし出した。

高級そうな仕立ての良いスーツ。磨き上げられた革靴。すべてを見透かすような、それでいて人好きのする笑み。この『業苦商事』にはあまりに不釣り合いな、洗練された空気をまとった男がそこにいた。

俺は全身の神経を逆立て、即座に警戒態勢に入った。



「実に見事なプレゼンテーションでした、加賀谷さん」

男は心地よく響くバリトンボイスで言った。俺の勝利をずっと見ていたかのようだ。

「…あんた、誰だ?」

俺は声の震えを悟られぬよう、低く問う。

「失礼。私はクロノス。しがない転職エージェントですよ」

クロノスと名乗る男は、優雅に一礼した。転職エージェント? なぜこんな時間に、こんな場所にいる? まるで、俺が何を考えているかを見通しているかのように、彼は楽しげに言葉を続けた。

「貴方の鮮やかな手腕、拝見させていただきました。あの傲慢な上司を、データという武器一つで沈黙させる。素晴らしい!」

クロノスは大げさに賞賛してみせる。しかし、その目は笑っていなかった。冷たい光を宿している。

「ですが」

彼は一歩、俺に近づいた。

「その借り物の力で得た勝利に、貴方自身は満足しているのですか?」

ドクン、と心臓が大きく脈打った。

なぜ、こいつは俺の核心を突いた? 俺が抱いていた微かな罪悪感と違和感。その核心を、いとも容易く抉り出してきた。



「…何が言いたい」

動揺を押し殺し、俺は鋭く睨みつけた。だが、クロノスは俺の警戒を意に介さず、楽しげに口角を上げた。

「貴方が本当に使うべきだった才能は、そんな付け焼き刃のハッキング技術ではなかったはずだ」

その瞬間、俺の視界の隅に、ありえない幻影が映った。

見慣れた自室の隅。ホコリを被ったギターケース。描きかけのまま放置された巨大なキャンバス。……そうだ。こんな付け焼き刃のハッキング技術じゃなく、本当は、もっと違うものがあったはずなのに。それは幻影。だが、あまりにも鮮明で、俺が心の奥底に封印してきた後悔そのものだった。全身の血がわずかに凍りつく。

「なっ…!?」

「貴方の中に眠る、もっと深く、本質的な力。違いますか?」

クロノスの声が、脳に直接響くようだった。誰にも話したことのない、話せるはずもなかった俺の過去。人の心を読み解き、先手を打つ、そんな『人間心理の洞察力』や『戦略的思考力』を、俺は『面倒くさい』と捨てた。俺だけの才能だったはずなのに、なぜ、あの時、あっさり切り捨ててしまったのか。今になって、その愚かさに、胸の奥がチクリと痛む。

こいつは、それを知っている。

「お前が…このループを?」

俺の声が震えた。もはや虚勢を張る余裕などない。背筋を這い上がってくる恐怖が、思考を麻痺させる。

クロノスは満足げに唇の端を上げた。

「原因は貴方自身ですよ、加賀谷さん」

彼は俺のすぐそばまで歩み寄ると、耳元に囁いた。その声は悪魔の誘惑、甘く冷たい響きだった。

「貴方が過去に切り捨てた『可能性』…その歪みが、この素晴らしい『再挑戦の機会』を生み出しているのです」

吐息がかかるほどの距離で、彼はさらに囁きを続けた。

「貴方が本当に向き合うべきは、あの無能な上司じゃない。貴方が面倒くさいと捨てた、本当の君自身だ」

俺の全身の血が、完全に凍りついた。

目の前の男は、ただの人間ではない。俺の自己否定が生み出した、何か。俺の最も深い後悔を糧にする、何か。恐怖と驚愕で、俺は身動き一つできなかった。



「このループは最高の転職活動の場。納得いくまで何度でも挑戦なさい。スキルを磨き、経験を積み、最高のキャリアプランを練り上げるのです」

クロノスはうっとりと語る。

「次のステージでは、パワハラ上司ではなく、貴方が捨てた『本当の貴方』と向き合っていただきましょう。その方が、ずっと面白いプレゼンになりそうだ」

そう言い残し、彼はすっと後ずさった。彼の身体は陽炎めいて揺らめき、オフィスの暗がりに溶けるように消えていった。



後に残されたのは、再び戻ってきた静寂と、俺一人。

勝利の味は、もうどこにも感じられない。

手の中に握りしめていたUSBメモリが、今はひどく虚しいガラクタのように思えた。黒川への復讐は終わった。いや、そもそも、あれは本題ですらなかったのだ。

本当の戦いは、今、始まった。



俺はUSBメモリを強く握りしめる。

次のループの目的は決まった。

黒川じゃない…お前だ、クロノス。

そして、俺が捨てた『俺』だ。



俺の目には、もはや単なる復讐心ではない、自分自身の根源へと向かう覚悟の光が宿っていた。

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