例の件と、黒川課長の受難
じっとりとした給湯室の空気が、首筋に張り付く。目の前の黒川課長の顔が、ぬらりとした爬虫類のように見えた。
「お前、『例の件』を忘れたとは言わせんぞ…」
粘着質な声が鼓膜を這う。それはいつものパワハラとは質の違う、個人的でどす黒い怨念の色をしていた。
俺は内心で舌打ちする。恐怖?いや、違う。これは――『新しい攻略イベント発生』の合図だ。
「…はて、何のことでしょう」
とぼけてみせると、課長の目がさらに細くなる。面白い。実に面白い。Excelの関数を覚えただけの俺を、ここまで本気で潰しに来るとは。こいつの逆鱗は、どうやら俺が思っていたよりずっと浅い場所にあるらしい。
「まあいい。すぐに思い出させてやる…せいぜい楽しみにしているんだな」
捨て台詞を残して去っていく背中を見送りながら、俺は口の端に浮かんだ笑みを抑えきれなかった。
いいだろう、黒川。お前の『例の件』とやら、次のループで根こそぎ暴いてやる。ゲームの難易度が上がった?上等じゃないか。どうせ無限にコンティニューできるんだ。
【四度目の月曜日】
いつもの天井、いつもの安物の目覚まし時計の音。俺は跳ね起きると、すぐにPCを立ち上げた。
今日のミッションは『例の件』の特定。まずはセオリー通り、情報収集からだ。
「おはようございまーす」
いつもより少しだけ明るい声をオフィスに響かせる。狙いは経理の佐藤さん。この会社で一番の古株で、噂好きだ。
「佐藤さん、ちょっと昔の話で恐縮なんですけど、黒川課長って昔、何か大きな失敗とかやらかしたことあります?」
給湯室でコーヒーを淹れる彼女に、世間話のノリで切り出す。佐藤さんは一瞬、面白そうな顔をしたが、すぐにサッと表情を消した。
「さあ…?私は何も知らないわよ」
壁。鉄壁。他の同僚にも探りを入れたが、結果は同じだった。黒川の名前を出した瞬間、誰もが口を閉ざす。よほど根深い恐怖が染みついているらしい。
ならば、直接だ。
昼休み。黒川が席を外した隙を狙い、俺は彼のPCに歩み寄る。ループで何度も見た光景。このタイミングで彼は必ずトイレに立つ。時間は三分。
電源は入ったままだ。スクリーンセーバーを解除しようとマウスを動かすと、無慈悲なパスワード入力画面が俺を睨みつけた。
…だよな。そう甘くはない。
俺は過去のループで観察した黒川の癖を思い出す。キーボードを打つ指の動き、付箋に書かれた走り書き。総当たりで試せるだけの単語を打ち込む。誕生日、愛車の名前、好きな野球チーム…。
すべて弾かれる。タイムリミットだ。俺は黒川が戻ってくる足音を聞きつけ、何食わぬ顔で自席に戻った。
「…ダメか」
これまでの社内調査という『いつもと同じ行動』では限界がある。このループで、俺は初めて『いつもと違う行動』の必要性を痛感していた。
発想の転換だ。正面突破がダメなら、裏口を探すまで。
俺の脳裏に、入社時に一度だけ存在を聞かされたサーバーの名前が浮かんだ。今はもう誰も使っていない、旧共有サーバー。データの墓場。だが、墓場だからこそ、消し忘れられたお宝が眠っている可能性がある。
問題は、アクセス方法もパスワードも誰も知らないことだ。
だが、俺には時間がある。無限の月曜日が。
ループを繰り返した。ある月曜日では社内規定書を読み漁り、サーバーのIPアドレスを突き止めた。次の月曜日では、退職した元システム管理者のSNSを特定し、彼の趣味や家族構成を調べ上げた。地道で、ひどく滑稽なハッキング作業。
パスワードのヒントは、元管理者が飼っていた猫の名前だった。俺は彼の古いブログ記事から、三毛猫の「ミケランジェロ」という大層な名前を突き止め、ログイン画面に打ち込んだ。
アクセス許可。
俺はガッツポーズした。膨大なデータの海が目の前に広がる。ここから黒川のファイルを探すのは、砂漠で米粒を探すようなものだ。
しかし、俺にはループがある。一日かけてフォルダを一つずつ開いては、次のループで別のフォルダを開く。非効率極まりないが、確実に探索範囲は狭まっていく。
そして、何度目かの月曜日。ついに俺は、階層の奥深く、誰もが見向きもしないような場所に隠されたフォルダを見つけ出した。フォルダ名は『個人用バックアップ_old』。
その中に、それはあった。
『【重要・取扱注意】ドラゴン商事様案件に関する顛末書』
心臓が跳ねる。これだ。ファイルを開くと、数年前の日付が入った報告書が現れた。若き日の黒川が担当した、一大プロジェクト。その顛末書には、彼の犯した、あまりにも致命的で、そしてあまりにも情けない誤植ミスが記されていた。
――提出した最終企画書の宛名『ドラゴン商事』を、『ドラ息子商事』と誤記。
プロジェクトは大炎上。顛末書の最後には、涙目で土下座する若い黒川の写真が添付されていた。これが『例の件』。これが、彼の決して触れられてはならない弱点。
【五度目の月曜日・決戦】
朝の全体ミーティング。淀んだ空気の中、黒川がネチネチとした声で口火を切った。
「加賀谷。先週から少し調子に乗っているようだがな、お前のような…」
その言葉を遮り、俺はすっと立ち上がった。神妙な、心底憂いているかのような表情を作って。
「課長、昨夜不思議な夢を見まして」
オフィス中の視線が俺に集まる。黒川は眉をひそめ、訝しげに俺を見た。
「とても大きな龍がですね、自分の息子を勘当するという、なんとも物悲しい夢でして…」
その瞬間、黒川の顔色が一瞬で変わった。血の気が引いていくのが、遠目にもはっきりと分かった。
周囲の同僚たちは「何を言ってるんだコイツ」という顔でぽかんとしている。俺は構わず、追い打ちをかけた。
「ところで課長、先日のデータ分析の件、参考に過去の類似案件を洗い出していたら、数年前のドラゴン商事様の案件で興味深いデータを発見しました」
俺はポケットからUSBメモリを取り出し、静かに黒川の目の前の机に置いた。カチャリ、と軽い音が会議室に響く。
「今後の我々の教訓とするためにも、この場で共有いたしましょうか?」
それは提案の形をした、最後通牒だった。
黒川はUSBメモリと俺の顔を交互に見た後、完全に沈黙した。額から脂汗が流れ、唇がわなわなと震えている。何も言えない。何もできない。ただ、屈辱と恐怖に染まった顔で立ち尽くすだけだった。
数秒間の、異様な静寂。
その沈黙が、俺の完全勝利を雄弁に物語っていた。
ミーティング後、オフィスには奇妙な平穏が訪れた。誰も俺に話しかけてはこないが、その視線には畏怖と好奇が混じっている。力関係が逆転したことを、誰もが肌で感じていた。
俺は自席で、初めて「本当の勝利」の味を噛みしめていた。
だが、その甘美な味の奥に、微かな苦みが残る。ループで得た情報で、人をここまで完膚なきまでに叩きのめしてしまった。これは、本当に俺の力なのか?すみませんボットだった俺が、こんなことをしていいのか?
微かな罪悪感。そして、借り物の力で得た勝利への違和感。
それは、これから俺が向き合わなければならない、新しい問題の芽生えだった。
終業後、ほとんどの社員が帰ったオフィスで一人、俺がその余韻に浸っていると、背後に人の気配がした。振り返ると、そこには一日で十年は老け込んだような、やつれた様子の黒川が立っていた。
「…お前、一体何者なんだ…?」
恐怖と混乱が入り混じった、絞り出すような声だった。
俺がその問いに答えようと口を開いた、その時だった。
オフィスの入口、薄暗い影の中から、これまで一度も聞いたことのない声が響いた。
それは底冷えのするほど、それでいて抗いがたいほどに魅力的な声だった。
「――実に面白いショーだったよ、加賀谷くん」




