最適解とイレギュラー
三度目の月曜日の朝。安物の目覚まし時計がけたたましく鳴り響く。
俺はそれを止めるや否や、ベッドから転がり落ちるようにして古びたノートPCの前に座った。もはや感傷に浸る時間はない。パワハラ課長撲滅作戦、第三ラウンド。ルールは、俺が作る。
「今日の課題は、『膨大なデータ整理』…だったな」
昨日のループで黒川が投げつけてきた、到底半日では終わらない無茶振り。それを完璧に、そして圧倒的にこなす。そのための武器を、この無限の朝で手に入れる。
俺はネットの速習講座のサイトを開いた。Excel。かつての俺が「面倒くさい」と避けてきた、数字の迷宮。しかし、今は違う。ループという名の無限の時間は、凡人を天才に変えるチートコードだ。
動画を再生し、一時停止し、巻き戻す。ショートカットキーの一覧を睨みつけ、指が痙攣するまで同じ操作を繰り返す。Ctrl+C、Ctrl+Vの単純作業から、VLOOKUP、ピボットテーブルの複雑な関数まで。一度覚えた手順は、次のループの俺に引き継がれる。身体は忘れても、脳が、指が、その『習得方法の記憶』を呼び覚ます。
時折、アパートのネット回線が不安定になり画面が固まる。その度に舌打ちしながらも、俺は学習を止めなかった。
「……チートな努力、か」
自嘲の笑みが漏れる。ふと視線を横にやると、部屋の隅に立てかけられた、友人がくれたギターケースと、描きかけの巨大なキャンバスが目に入った。ホコリを被ったそれらは、俺が捨てた過去の残骸だ。
こんな付け焼き刃じゃなく、本当は…。
一瞬、胸をよぎった感傷を振り払うように頭を振る。今は目の前の敵に集中する時だ。
始業30分前。業苦商事のオフィスはまだ静けさに包まれている。
俺は自分の席に着くと、まず黒川のデスクを観察する。PCモニターに貼られた付箋の数、左側に少しだけ崩れた書類の山。昨日と寸分違わぬ光景。次に、共有サーバーにアクセスする。
他の社員のアクセスログ、黒川が昨日参照していたファイルの最終更新日時。それらの断片的な情報を、脳内で繋ぎ合わせ、再構築していく。
パズルのピースが嵌っていく感覚。
「……見えた」
今日の無茶振りの具体的な内容。参照元データの場所、要求されるアウトプットの形式。俺は99%の確信を持って、その全貌を予測した。
準備は、完璧だ。
始業のチャイムが鳴り、オフィスに緊張が走る。
案の定、黒川が椅子を軋ませて立ち上がり、フロアに響き渡る大声で怒鳴った。
「加賀谷! てめぇ、今日の昼までにこの売上データを全部まとめてグラフ化しろ! いいな!?」
周囲の同僚たちが、同情と諦めの視線を俺に向ける。いつもの光景だ。
しかし、今日の俺は「すみませんボット」じゃない。
俺はゆっくりと立ち上がり、黒川に向き直った。
「はい、課長。その件でしたら」
一瞬の間を置き、俺は続けた。
「昨日のデータにいくつか矛盾点があったので、修正案と合わせて3パターンほど資料を作成済みです」
静かなオフィスに、俺の声だけが響く。
黒川の顔から、みるみる表情が消えていく。パワハラのネタを探そうと俺のデスクに詰め寄ってきた彼は、俺のPCモニターに表示された完璧なグラフと、その下に添えられた一文に目を奪われて固まった。
『課長へ:XXのデータ、前年比の計算式に誤りがあるようです。修正案を添付します』
「な……」
黒川の喉から、カエルが潰れたような声が漏れた。周囲から「すげぇ…」という囁きが聞こえる。俺はUSBメモリをそっと差し出した。カチリ、という小さな音が、勝利のゴングのように感じられた。
顔から血の気が引き、ワナワナと震える黒川を尻目に、俺は席に座る。
してやったりだ。これ以上ないほどの痛快なカタルシスが、全身を駆け巡る。
同僚たちの視線が変わった。これまで俺を無気力な社畜としか見ていなかった彼らが、驚愕と、そして次第に称賛の眼差しを向けてくる。フロアの空気が、俺を中心に変わっていくのが分かった。
勝利の快感に、打ち震える。
しかし、その胸の奥に、ふと微かな違和感がよぎった。この高揚感は、本当に俺自身の力なのだろうか。心のどこかで、『これはズルだ。本当の俺じゃない』と囁く声が聞こえる。俺の表情から、一瞬だけ笑みが薄れた。この万能感は、ループという借り物の力。本当の俺は、今もあのホコリを被ったギターケースの中で、この状況をどう見ているのだろうか。
終業間際。屈辱に顔を歪ませたまま一日を過ごした黒川の姿が、オフィスから消えた。
俺は荷物をまとめ、給湯室に立ち寄る。冷たい水で顔を洗おうとした、その時だった。
背後に、ぬっと現れた影。
「おい、加賀谷」
振り返ると、そこには鬼の形相の黒川が立っていた。誰もいない給湯室。逃げ場はない。
しかし、彼の口から出た言葉は、予想していた罵詈雑言ではなかった。
「お前、『例の件』を忘れたとは言わせんぞ…」
それは、これまでのパワハラとは明らかに質の違う、個人的な恨みを感じさせる低い声だった。粘つくような悪意が、俺の肌を撫でる。
『例の件』?
なんだ、それは。俺の『黒川攻略マニュアル』には、そんな項目は存在しない。
予測不能な脅威。未知の変数。
ループという安全な実験場にいた俺の足元が、ガラガラと崩れていく。
背筋に、初めて冷たいものが走った。




