第二ラウンドは俺のターン
ジリリリリリリリッ!
けたたましい電子音が鼓膜を突き破る。昨日と同じ、安物の目覚まし時計が放つ絶叫だ。
俺はゆっくりと目を開けた。そこにあるのは見慣れたワンルームの天井。そして、昨日と同じ場所に、昨日と同じ形のシミ。
絶望はない。驚きもない。
あるのは、妙に冷え切った確信だけだった。
俺は寸分の狂いなく手を伸ばし、絶叫が最高潮に達する0.1秒前にスイッチを押し込んだ。しんと静まり返った部屋で、俺は囁く。
「…よし、来たな」
口角が歪に吊り上がるのを、俺は止めなかった。テレビをつければ、画面の端にノイズが走り、昨日と寸分違わぬアナウンサーが、昨日と寸分違わぬニュースを読み上げている。
間違いない。俺は、またあの月曜日の朝に戻ってきている。
昨日までの俺なら、ここで頭を抱えていただろう。無限に続く地獄に、心をすり減らしていただろう。だが、今の俺は違う。
これは地獄じゃない。無限の試行錯誤が可能な、俺だけの実験場だ。
「さて、パワハラ課長撲滅作戦、第二ラウンドの開始だ。ルールは俺が作る」
ベッドから起き上がり、俺は大きく伸びをした。
出勤の準備を進めながら、俺の頭はフル回転していた。昨日の記憶――いや、前回のループの記憶を反芻する。黒川課長の行動パターン、パワハラ発言のタイミング、その内容、周囲の同僚たちの反応。すべてが脳内で完璧に再生される。
俺はひびの入ったスマートフォンの画面をタップし、メモアプリを開いた。
『黒川攻略マニュアル ver.0.1』
我ながらコミカルなタイトルに、少しだけ気分が軽くなる。
「9時5分:出社。まず機嫌悪く全体に挨拶」
「9時15分:インスタントコーヒーを要求。淹れ方が薄いと新人にキレる」
「10時30分:俺に『例の件』の進捗を問い詰める。内容は毎回曖昧」
次々と打ち込んでいく。これは復讐計画書であり、同時に俺が『すみませんボット』から脱却するための脚本だ。
部屋の隅に立てかけてある、友人がくれたギターケースが目に入る。その隣には、描きかけのまま放置された巨大なキャンバス。どちらも、ホコリを被って久しい。
「…今はまだ、お前たちの出番じゃない」
俺は呟き、スーツに袖を通した。
「まずは目の前のクソゲーからだ」
業苦商事のオフィスには、始業30分前に到着した。これもまた、昨日とは違う行動だ。フロアにはまだ誰もいない。しんと静まり返った空間に、俺はゆっくりと足を踏み入れた。
目的は一つ。黒川課長のデスクだ。
彼のテリトリーに近づき、俺は観察を開始する。PCのモニターに貼られた付箋。黄色は至急、青は確認依頼。今日は黄色の付箋がいつもより多い。書類の山は左側が昨日より少しだけ崩れている。おそらく、昨日の終業間際に何か苛立つことがあったのだろう。飲み干された栄養ドリンクの空き瓶が3本。睡眠不足か。俺は彼のペン立てから、インクの出が悪いと彼が舌打ちする例のボールペンを抜き取り、一番手前にそっと置いた。
「今日の機嫌は、最悪の一歩手前。そして、焦っている。些細なことでキレる準備は万端、と」
自然と分析している自分に、俺は内心驚いていた。まるでパズルのピースをはめるように、散らかった情報から意味を読み解いていく。これが、俺が昔「面倒くさい」と切り捨てた才能の断片なのかもしれない。
やがて、始業時刻が近づくと、同僚たちがぽつぽつと出社してくる。そして9時5分きっかり、フロアの空気が凍った。
黒川課長の出社だ。
彼は俺の存在に一瞬だけ気づき、いつもと違う時間にいることに眉をひそめた。だが、すぐに興味を失ったように、別の若手社員に「声が小さい!」と怒鳴り散らし始める。
俺は自分のデスクでPCを立ち上げながら、その様子を冷静に観察していた。BGMのように響く怒声を聞き流し、自分のタスクを進める。すべてはシミュレーション通り。パワハラの矛先が俺に向くタイミングは、もうすぐだ。
「おい、加賀谷!」
予測通りの時刻、予測通りの声。
黒川が仁王立ちで俺のデスクの前に立っていた。見下ろす視線には、獲物を見つけた肉食獣のような獰猛さが宿っている。周囲の同僚たちは、キーボードを叩く音を止め、固唾を飲んで成り行きを見守っていた。
黒川が大きく息を吸い込み、理不尽な怒声を浴びせようと口を開く。
その瞬間――
俺は彼が口を開くより0.5秒早く、完璧なタイミングで椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
「申し訳ございません!今朝のタスクの件ですが、課長が懸念されるであろう3つの問題点については、既に対応策の素案をまとめてあります。ご確認いただけますでしょうか!」
言おうとしていた言葉を喉の奥に飲み込み、黒川の動きが完全に停止した。鳩が豆鉄砲を食ったような、とはまさにこの顔だろう。大きく開かれた口が、ぱくぱくと虚しく動いている。
フロアに、数秒間の沈黙が落ちた。聞こえるのは、サーバーの低い唸りと、誰かが必死に笑いを堪える息遣いだけ。
その沈黙が、力関係の逆転を雄弁に物語っていた。
「な…なんだ貴様、その目は…!俺の心が読めるというのか!?」
やっとのことで絞り出した黒川の声は、怒声ではあるが、その目に一瞬だけ宿ったのは純粋な困惑だった。
俺はゆっくりと顔を上げ、冷静に返す。心臓は早鐘を打っているが、無意識に握りしめたペンの芯が、微かに音を立てて折れた。
「いえ、読めるのは課長の行動パターンです。そろそろコーヒーが欲しくなる頃合いかと」
第一ラウンドは、俺の完勝だ。
しかし、黒川は伊達にパワハラを繰り返していない。彼は数秒で動揺から立ち直ると、今度はさらに粘着質に、俺が提出した素案の誤字脱字といった、本質的でない粗探しを始めた。
俺はそれも予測の範囲内として冷静に対応していく。だが、このやり取りを続けながら、ふと気づいてしまった。
これは、ただのイタチごっこだ。いくら先回りしても、彼は別の手で攻撃してくるだろう。この小さな勝利は、溜飲を下げる以上の意味を持たない。復讐の先に待っているのは、ループ脱出という本質的な課題だ。
爽快感の裏側で、新たな疑問と微かな焦りが芽生え始めていた。
昼休み、俺は社員食堂には向かわず、これまで一度も立ち寄ったことのない駅前のカフェに足を踏み入れた。
同じ行動を繰り返すだけでは、このループからは抜け出せない。そう直感したからだ。これが、俺の最初の『能動的な選択』だった。
窓際の席に座り、薄いコーヒーを啜りながら雑踏を眺める。無数の人々がそれぞれの日常を生きている。この中に、俺と同じように無限の月曜日を繰り返している人間はいるのだろうか。いや、いないだろう。この閉塞感は、俺だけのものだ。
ぼんやりとそんなことを考えていると、店内に流れるBGMがふと耳に届いた。
アコースティックギターの、少し物悲しいメロディ。
それは、昔、俺が部屋の隅でホコリを被っているあのギターで、何度も弾いた思い出の曲だった。
その偶然に、心が揺さぶられる。
俺は飲みかけのコーヒーカップを置き、静かに決意した。
「明日は、もっと大胆に変えてやる。このクソみたいな毎日こそが、俺が捨てた『俺』を取り戻すためのステージだ。もっと醜く、もっと狡猾に、演じきってやる」




