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社畜輪廻  作者: おぷっち


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15/16

才能の無駄遣いとデバッグ狂騒曲

翌朝のオフィスは、異様な熱気に包まれていた。

原因は、俺の両脇を固める二人の男だ。



「加賀谷先生!おはようございます!昨夜は一睡もせずに先生のフィロソフィーを反芻しておりました!」

「先生!私もです!あの戦略的アポリアの解決…まさにコペルニクス的転回!感動で涙が枯れるかと!」



田中部長と黒川課長が、潤んだ瞳で俺を『先生』と呼ぶ。昨日、俺が捨てた才能の片鱗を見せた結果、二人は完全に覚醒してしまったらしい。その変貌ぶりに、少し離れた席の佐藤さんと鈴木くんは完全にドン引きしている。小さく「やばいカルト宗教みたい…」と囁き合う声が聞こえたが、今の二人には届かないだろう。



「さあ先生!本日はプロジェクト・フェニックス再生の第二章!どのような神の啓示を我々に…」

「待て田中部長!まずは先生の創造の妨げにならぬよう、我々は聖域を確保せねば!」



…勘弁してくれ。こっちはそれどころじゃないんだ。

俺はポケットの中のスマートフォンをそっと握る。画面に表示されるはずの、たった一人の大切な名前。それが今は、意味をなさない記号の羅列『■■■■』になっている。

この狂った状況も、熱狂する上司たちも、どうでもいい。俺の頭の中は、失われた彼女との繋がりを取り戻すことだけで、いっぱいだった。



(…いや、待てよ)



俺は目の前で「先生の集中力を高めるアロマを!」「いや、まずは無菌室レベルの環境整備を!」と議論する二人を見つめる。

(この異常なまでの協力体制…この『最高の開発環境』…逆手に取るしかない)

会社のプロジェクトじゃない。これは、俺の、俺だけの戦いだ。

美咲の連絡先『■■■■』をデバッグするための、個人的で、あまりにも危険な実験。

俺は、半ば透けている自分の指先を見つめた。この『代償』で俺の存在が消える恐怖と、美咲という唯一無二の存在を失う恐怖。

天秤にかけるまでもない。俺は、とっくに覚悟を決めていた。



「田中部長、黒川課長。お静かにお願いします。…今、降ってきました」

「「なっ…!?」」

俺の静かな一言に、二人は息を呑んで固まる。

「プロジェクトの、革新的なUI/UXデザインと、士気を高めるコンセプトソングの試作に入ります」

意味不明な言葉を並べ、俺は昨夜のうちにこっそり運び込んでおいたギターケースと、壁に立てかけていた巨大なキャンバスをデスクの横に設置した。佐藤さんと鈴木くんが「え?」「は?」という顔をしているのが視界の端に入る。



「ええ、これも新しいプロジェクトマネジメントの一環です。感覚的なアプローチで、チームの潜在能力を引き出す試みでして…」

内心で自分に吐き気がした。(嘘だ。全部嘘だ。ただ美咲の連絡先が知りたいだけなんだ。みんなを騙している罪悪感で吐きそうだ…)



俺は雑念を振り払い、ギターを手に取った。指先に意識を集中し、弦を弾く。ポロロン、と鳴った不協和音。

その不協和音に世界のバグが共鳴したのか、オフィスの蛍光灯が一斉に明滅を始めた。チカ、チカ、と不規則なリズムでオフィスがディスコ状態になる。

「うおっ、なんだ!?」

鈴木くんが叫ぶ。彼のPCモニターは、いつの間にかインターネットで拾ってきたであろう大量の猫の画像で埋め尽くされていた。

「にゃ、にゃんだこれぇぇ!?」



次に俺は、キャンバスに向き合い、絵筆を握って黒い線を一本、サッと引いた。

すると、背後のホワイトボードに書かれていた『今週の目標:経費削減!』の文字が、ミミズのように蠢き出し、みるみるうちに『今週の狂気:経費爆誕!』へと書き換わった。

俺の才能がトリガーとなり、世界のバグが物理的に可視化されていく。オフィスは、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。



だが、二人だけが違った。田中部長が感涙にむせびながら「聞こえるか黒川くん…!これが創造の産声だ! 我々凡人は、加賀谷先生の邪魔にならぬよう、この奇跡の瞬間をただ見守ることしかできんのだ!」と必死にメモを取っている。隣で黒川課長も「おお…おお…!なんと荘厳なカオス…!」と恍惚の表情で頷いていた。正気なのは、残された二人だけだ。「か、加賀谷さん…このギターとキャンバス、経費で落ちますかね…?」佐藤さんが真顔で尋ねてくる。経理としての魂が、この異常事態でも職務を全うしようとしていた。

「知るかぁ!それよりこのプリンター!なんで勝手に『ドラ息子商事様』って印刷し続けてんだよォォ!」

鈴木くんの絶叫が響き渡る。彼が床に叩きつけた紙束の中から、一枚だけ、砂時計を模した奇妙なマークが描かれた紙がひらりと舞った。黒川課長がその単語にビクッと体を震わせ、顔面蒼白になっている。

さらにカオスは加速した。オフィスのドアが勢いよく開き、デリバリーの配達員が巨大な袋を抱えて入ってきた。

「『福利厚生品:鶏肉の最適化サンプル』をお届けに上がりましたー!」

その声と共に、オフィスに充満する香ばしい醤油の匂い。タカシの店の唐揚げだ。社員たちがゾンビのように群がっていく。



そんな狂騒のさなか、ポケットの中で、スマホが一度だけ静かに震えた。

画面には、クロノスからのメッセージが表示されていた。

『君の才能の無駄遣い、実に滑稽だ。だがその行為が、世界の修正を望む彼女の無意識をどれだけ傷つけているか、考えたことはあるかね?』

心臓が氷水で満たされる。

目の前の『■■■■』という文字が、ぐにゃりと歪んだ。

一瞬だけ、それが『忘れて』という二文字に見えた。

「…っ!」

息が詰まる。俺のワガママが、美咲を苦しめている…? 俺が彼女を繋ぎ止めようとすればするほど、彼女の精神に負荷がかかるというのか?

激しい恐怖と罪悪感が、津波となって俺に押し寄せてきた。



(違う、これはプロジェクトじゃない…ただの、俺のワガママだ…! でも、これをやらなきゃ、俺は本当に消える…!)



震える指が、ギターを、絵筆を取り落としそうになる。もう、やめるべきなのか…?

いや、ダメだ。ここで諦めたら、全てが終わる。

俺は目を閉じ、必死に一つの記憶だけを思い浮かべた。初めて美咲と会った、あのカフェの情景。彼女の笑顔。他愛もない会話。

それだけを、念じる。

最後の力を振り絞り、俺は再びギターを構えた。奏でるのは、あのカフェで流れていた、二人のお気に入りの曲。そしてキャンバスには、窓から差し込む午後の光に照らされた、彼女の横顔を描き始めた。



才能を、思い出だけを込めて解き放つ。

指先が透けていた感覚が、ほんの一瞬だけ完全に収まり、確かな実体を取り戻した。だが、その代償か、脳を直接揺さぶられるような激しい目眩と疲労感が襲う。それでも、その確かな指が、弦を正確に捉え、絵筆を滑らせる。



その瞬間。

手の中のスマホの画面が、ノイズの奔流の中から、たった二文字を浮かび上がらせた。



『美咲』



そして、その名前の下に、今まで灰色だった通話ボタンが、希望を示すかのように青く点灯した。

これが最後のチャンスだ。

俺は周囲の喧騒が遠のいていくのを感じながら、息を殺して耳にスマホを当てる。震える親指で、青い光を、押した。

呼び出し音は、鳴らない。

数秒間の、完全な無音。

世界から音が消えたかのような静寂の後、電話の向こうから、声が聞こえた。



それは、美咲の声ではなかった。



『…ようやく繋がったね、加賀谷くん。彼女の『回線』は、今はこちらで預からせてもらっているよ』



低く、冷たいクロノスの声だった。

希望が、音を立てて絶望に反転した。

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