俺が捨てた才能(の無駄遣い)について
カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の埃をキラキラと照らしていた。
「俺が俺を取り戻すための戦い」
昨夜、そう強く心に誓った自分はどこへ消えたのか。ベッドから起き上がった俺は、力なく右手を持ち上げた。
人差し指の先端が、透けている。
背景の壁紙の模様が、指の向こうにぼんやりと見えた。輪郭は不安定に揺らめき、陽炎めいている。クロノスの言っていた『代償』。世界が正常になるほど、俺というバグが消去されていく。
…具体的に、何をすればいい?
意気込んだものの、皆目見当もつかない。途方に暮れた視線は、部屋の隅を彷徨った。
そこにあった。
埃を被ったギターケースと、壁に立てかけられた描きかけのキャンバス。
俺がかつて、ゴミ箱よりも深く、心の奥底に叩き込んで捨てたはずの『才能』の墓標だった。
震える手で、ギターケースの冷たい留め金に触れた。その途端、ズキン、と鋭い痛みがこめかみを貫く。
――『そんな暗い曲、誰も聴きたがらないよ』
――『絵なんて描いて、食っていけると思ってんのか?』
理解されなかった記憶。嘲笑された過去。他人に合わせるために、面倒くさい自分を殺すために、自ら蓋をした感情。激しい頭痛と吐き気がこみ上げ、俺は反射的に手を離した。
ダメだ。思い出すだけで頭が割れそうだ。
だが、脳裏に浮かぶのは、カフェで他人行儀に微笑む美咲の顔だ。俺のことなど、全く知らないという表情。
「…だが、これをやらなきゃ美咲は…俺は…!」
消えゆく自分の存在と、彼女の笑顔を天秤にかける。答えは、とっくに出ている。
もう一度、強く留め金を掴んだ。軋む音を立てて、パチン、とロックが外れた。
ケースを開け、何年も触れていなかったギターのネックを握る。指板に積もった埃を払い、錆びかけた弦にゆっくりと指をかけた。
ポーン、とくぐもった音が鳴る。
その振動が指先から伝わった瞬間、俺の脳内に、無数の映像が流れ込んだ。
『――加賀谷くんの説明、なんだかスッと頭に入ってくるな』
『――この資料、すごく分かりやすい!誰が作ったの?』
過去のループで、同僚たちに何気なく言われた言葉の数々。俺のプレゼンがやたらと通り、頼み事が不思議と受け入れられた場面。
あれは、単なる『人間心理の洞察力』や『戦略的思考力』じゃなかった。
そうだ、俺は無意識にやっていたのだ。
言葉の一つ一つにリズムと抑揚をつけ、歌を聞かせるように相手の感情に直接語りかけていた。情報の優先順位を整理し、視線の流れを計算し、一枚の絵画のように最も伝えたい本質を際立たせていた。
俺が捨てたのは、音楽や絵画そのものじゃない。
『言葉を音楽のように響かせ、人の感情を揺さぶる才能』
『情報の構図を最適化し、本質を視覚的に伝える才能』
…これこそが、俺が捨てた才能の正体、その根源だったのか。
翌朝。俺は半信半疑のまま業苦商事に出社した。
オフィスは異様な空気に包まれている。デスクに座る田中部長は、魂が抜けたように虚空を見つめていた。その隣で、黒川課長は彫像のように微動だにしない。懲罰委員会の一件以来、二人は完全に精神的支柱を失っていた。
「加賀谷くん!昨日は助かったよ!」
「マジでヒーローだったぜ、加賀谷さん!」
駆け寄ってきた佐藤さんと鈴木くんのハイテンションな声が、重苦しい空気をわずかに揺らす。彼らの記憶はループの副作用で曖昧なはずだが、俺への信頼感は残っているらしい。
「いえ、まだ終わりじゃありません。プロジェクトは続行します。これが、次の一手です」
俺は二人に、プロジェクトの今後の方針を説明し始めた。
自然と、言葉に心地よいリズムが乗る。ホワイトボードにペンを走らせれば、複雑な相関図が美しい構図で描かれていく。集中力が高まり、脳が熱を帯びていく。これが才能の代償か、微かな疲労感が蓄積していくのを感じた。その時、ペンを握る俺の指先が目に入る――陽炎のように揺らいでいた人差し指の輪郭が、ほんの一瞬、確かに実体を取り戻したように見えた。
すると、だ。
それまで虚無の化身だった田中部長が、ふと俺の描いた図に視線を向けた。
「…そうだ、この配置なら…コストセンターを経理上のハブとして機能させ、各部署の遊休リソースを連結すれば…プロフィットセンターに転換できる…!」
ブツブツと何かを呟き始めたかと思うと、田中部長は憑かれたように立ち上がり、自分のデスクから企画書の束を掴み出した。そして、凄まじい勢いで何かを書き殴り始めた!
「高橋部長…あの石炭頭には分からなかったんだ…!フェニックスは…まだ死んでいなかった…!」
一方、彫像と化していた黒川課長は、俺の言葉にじっと耳を傾けていたが、やがてその目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「…なるほど。完璧な布陣だ。非の打ち所のない戦略…!美しい…!」
佐藤さんと鈴木くんは、口をあんぐり開けてそのシュールな光景を見つめていた。
(俺のプレゼンがやたら通るのも、俺の頼み事をみんなが聞いてくれるのも…全部、俺が捨てたはずのこの力のせいだったってのか?そんな才能の無駄遣いあるかよ!)
内心で盛大にツッコミを入れた俺の背筋を、ぞくりと何かが駆け上がった。愕然としながらも、鳥肌が立っていた。これが、俺の力。
その時、脳内にあの忌々しい声が響いた。
『思い出したかね?君がゴミ箱に捨てた、君自身を。だが、今更それに気づいたところで、消えゆく運命は変わらない。その輝きは消えかけのロウソクの最後の灯火に過ぎんよ』
クロノスの嘲笑。しかし、その声にはいつもの余裕がない。ほんのわずかに、焦りの色が混じっている。
こいつ、恐れているのか?俺が、この力の本当の使い方を思い出すことを。
俺は、心の中で静かに、しかしはっきりと返答した。
「…ああ、思い出した。最高の武器を、俺はずっと持ってたんだ。お前を『詰ませる』ための、な」
自席に戻り、俺はスマートフォンを取り出した。
画面に表示された、文字化けした連絡先。『■■■■』。
才能を取り戻したことで、閉ざされていた記憶の扉が開く。この無機質な記号の羅列の意味が脳内に流れ込んでくる。…そうだ、これは美咲の連絡先だ。彼女との繋がり。俺という存在が、この世界に確かにいたという、最後の証。
俺が最初にデバッグするのは、お前が奪った俺と美咲の繋がりだ。
再発見した才能と、ループで培ったスキル。全てを融合させ、このバグを修正する。
俺は『■■■■』の文字列を睨みつける。
待ってろ、クロノス。
俺の指が、画面の上で確かな意志を持って動き始めた。




