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社畜輪廻  作者: おぷっち


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13/16

ノイズとサイレンス

懲罰委員会での逆転劇から数時間が経った。オフィスにはまだ、嵐が過ぎ去った後の奇妙な静けさと、微かな高揚感が混じり合って漂っている。

「いやー、加賀谷さん! まじで神っすよ!」「田中部長のあの顔、傑作だったわねぇ!」



隣の席では、佐藤さんと鈴木くんがまだ興奮冷めやらぬといった様子で声を弾ませていた。その声が、どういうわけかやけに遠い。それは分厚いガラスを一枚隔てた音のようで、俺の耳にはくぐもったノイズとしてしか届かなかった。



俺は、誰にも気づかれないようにそっと右手を机の下に隠し、指先を見つめる。

さっきから、何度も。

蛍光灯の光が、人差し指の先端を淡く透過している。輪郭が曖昧で、その向こうにある床の木目がぼんやりと見える。クロノスが言っていた『代償』。その現実が、じわりと全身を蝕んでいくような、静かな恐怖。



「大丈夫です。これも想定内ですよ」



仲間たちにそう嘯いた自分の声が、頭の中で虚しく反響した。

何が想定内だ。何もかもが、俺の理解を超えて進んでいる。

ポケットからスマートフォンを取り出し、連絡先を開く。そこにあるはずの、たった一つの安らぎ。



『■■■■』



ノイズが走り文字化けしたままの名前を、俺はただ凝視した。胸の奥が、氷で満たされていくのを感じた。



気づけば、俺はオフィスを飛び出していた。

佐藤さんたちの呼び止める声が背後で聞こえたが、振り返る余裕はなかった。ざわつく心を鎮めたくて、安寧を求めて、俺の足は無意識にいつもの場所へと向かっていた。



カラン、とドアベルが軽やかな音を立てる。

香ばしいコーヒーの匂いが、俺のささくれ立った神経をわずかに和らげてくれた。カウンターの中に、彼女はいた。美咲だ。俺にとって、この狂ったループの中で唯一無二の、光。



「いらっしゃいませ」



向けられたのは、いつもの親しげな笑顔ではなかった。完璧にマニュアル化された、初対面の客に向けるための営業スマイル。心臓が、嫌な音を立てて軋んだ。

…いや、疲れているだけだ。俺が勝手に思い詰めているだけ。



「いつもの…」と言いかけて、言葉に詰まる。彼女の瞳に浮かんでいるのは、再会の喜びではなく、純粋な戸惑いだった。



「ご注文は、お決まりですか?」



美咲は、不思議そうに小首を傾げた。その仕草が、俺の胸を鋭く抉る。冗談だろ? 俺は乾いた唇を無理やり動かし、笑顔を作ろうとした。



「ひどいな、美咲さん。常連の顔を忘れるなんて」

「え…?」



彼女の眉が、困惑に寄せられる。その表情に、冗談やからかいの色は微塵もなかった。ただ、見知らぬ客に馴れ馴れしく話しかけられた店員、そのものだ。



「あの…お客様。以前、どこかでお会いしましたっけ…?」



必死だった。俺は支離滅裂に、共通の思い出のはずの言葉を並べ立てた。この前話した映画のこと、彼女がこっそり教えてくれた新作ケーキのこと、雨の日に傘を貸したこと。俺たちの間だけに通じるはずだった、ささやかな記憶の欠片を。



しかし、彼女はただ、申し訳なさそうに眉を八の字にするだけだった。その表情の奥で、一瞬、遠い昔を懐かしむかのように目を細め、すぐにこめかみを軽く押さえる仕草を見せたが、それもすぐに消える。その瞳は、得体の知れないものでも見るように俺を映している。



「すみません、お客様…人違いではないでしょうか?」



その言葉を聞いた瞬間、俺のすぐ隣でコーヒーミルが豆を挽くけたたましい音が聞こえた。他の客の笑い声も。食器が触れ合う甲高い音も。それらが一斉に、ぷつりと途絶えた。



世界から、一切の音が消えた。



目の前で、美咲の唇が動いている。何かを言っている。でも、聞こえない。ただ、彼女の唇の動きだけが、残酷なほどゆっくりと、スローモーションで俺の網膜に焼き付いていく。



「…あの、すみません。どちら様でしたっけ?」



ああ、そうか。

俺は、この世界から消え始めているのか。

一番、失いたくなかった場所から。



どうやってカフェを飛び出したのか、覚えていない。

気づけば、俺は夕暮れの雑踏の真ん中で立ち尽くしていた。人々が俺を避けるように流れていく。車のクラクションも、街の喧騒も、何も聞こえない。ただ、自分の荒い呼吸と、ドクドクと警鐘を鳴らす心臓の音だけが、頭蓋の内側でうるさく響いていた。

何も考えられなかった。数秒間、ただ、茜色に染まる空を見上げていた。



その、静寂を切り裂くように。

頭の中に、あの愉悦に満ちた声が直接響き渡った。



『見事なデバッグだったが、代償は気に入ったかね?』



クロノス…!



『世界が正常になるほど、君というイレギュラーな存在は消去される。彼女の記憶は、その最初の犠牲者だ』



怒りよりも先に、どうしようもない無力感が全身を支配した。抗えない。これは、俺が世界を修正したことへの、正当な対価なのだと。その言葉は、俺の傷口に熱い鉄を押し当て、思考を焼き切っていく。



自室に戻り、電気もつけずにベッドへ倒れ込む。抜け殻だった。

懲罰委員会での勝利も、仲間からの称賛も、全てが色褪せて、意味のないものに思えた。美咲に忘れられた世界で、俺が何かを成し遂げて、一体何になるというんだ?



どれくらいそうしていただろう。

虚ろな視線の隅に、部屋の隅で静かに佇む二つの物体が映った。



ホコリを被った、ギターケース。

そして、その隣に立てかけられた、描きかけのまま放置された巨大なキャンバス。



昔、俺は音楽が好きだった。絵を描くのが好きだった。

他人と違うことが怖くて、「面倒くさい」と蓋をして、鍵をかけて、自分自身で捨てたものたち。

クロノスが言っていた。『捨てた才能』。

それは、ループの中で再覚醒した『人間心理の洞察力』や『戦略的思考力』だけじゃなかった。もっと根源的な、ただ好きだという気持ちで繋がっていた、ありのままの俺自身。



このまま、消えてたまるか。

美咲に忘れられたまま、世界からノイズのように消去されて、たまるか。



俺は、抜け殻の身体に最後の力を振り絞り、静かに立ち上がった。



復讐じゃない。デバッグでもない。



俺は、ホコリを被ったギターケースの前に立った。

静かに呟く。



「…これは、俺が俺を取り戻すための戦いだ」



クロノス…お前が望んだんだろう? 俺が『俺』と向き合うことを。なら、見せてやるよ。お前が喰らってる自己否定ってやつを、根こそぎ奪い返してやる。



震える手で、ギターケースの冷たい留め金に、指をかけた。

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