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社畜輪廻  作者: おぷっち


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12/16

逆転のデバッグ、消失のプロローグ

重苦しい沈黙が、第四会議室の空気を支配していた。

安物の長机を挟んで向かい合った佐藤さんと鈴木くんは、とっくに顔面蒼白を通り越して、土気色になっている。無理もない。これから始まるのは、俺たちの未来を決定づける『懲罰委員会』なのだから。



胃の奥が、ギリッと締め付けられるような痛みを訴える。だが、俺はそれを無視して、口の端に不敵な笑みを浮かべていた。

…大丈夫だ。この盤面、詰んではいない。俺の頭の中にある『攻略本』が、逆転の一手――旧共有サーバーに眠る、あのファイルを示している。

むしろ、ここからが俺のターンだ。



「加賀谷くん…本当に大丈夫なの…?」

震える声で佐藤さんが呟く。隣の鈴木くんは、もはや言葉を発する気力もないのか、ただ俯いて自分の指先を見つめているだけだ。

「大丈夫ですよ。これも想定内ですから」

俺の異常なまでの落ち着きが、逆に二人の不安を掻き立てているのが分かる。正気か? その視線が痛い。だが、それでいい。期待も信頼もない、この絶望の底からでなければ、最高の逆転劇は始まらないのだから。



やがて、重厚な扉が軋みながら開いた。

勝ち誇った表情の田中部長が、システム部の人間を従えて入室する。その手には、数枚の紙の束が握られていた。俺たちがシステムを不正に改竄したという、動かぬ証拠のアクセスログだ。

「さて、言い訳を聞こうか」

田中部長は書類を机に叩きつけ、冷徹な視線で俺たちを射抜く。その矛先は、隣に引きずられてきた魂の抜けた人形のような男に向けられた。

黒川課長だ。

「黒川! 貴様、この加賀谷とかいう契約社員に唆されて、会社のシステムに何をした!? 答えろ! またあの時の二の舞はごめんだぞ!」

怒声が飛ぶ。しかし、意思を失った黒川課長は虚空を見つめるばかりで、何も答えない。部長の策略は明白だった。全ての責任を現場監督者である黒川課長に押し付け、俺たちを共犯者としてまとめて処分する。佐藤さんと鈴木くんの顔から、最後の血の気が引いていくのが見えた。



キャリアの終わり。二人の脳裏に、その四文字が浮かんでいることだろう。

俺はゆっくりと立ち上がった。

全員の注目が集まる中、はっきりと告げた。



「認めますよ、僕がやりました」



一瞬の静寂。佐藤さんが「え?」と小さな悲鳴を上げた。田中部長の口元が、醜く歪む。

だが、俺は間髪入れずに言葉を続けた。

「ただし、これは田中部長、あなたがかつて理想に燃えて立ち上げ、自らの手で葬った『プロジェクト・フェニックス』の再起動に他なりません」



俺はポケットから取り出したUSBメモリをノートPCに差し込み、プロジェクターの電源を入れる。壁一面に、古びたドキュメントの表紙が映し出される。タイトルにはこうあった。『プロジェクト・フェニックス頓挫報告書』

その下には、インクが滲んだ、情熱的な筆跡の署名があった。『田中』と。



「なっ…!?」

田中部長の顔色が変わる。

「なんだそれは! どこからそんな過去の遺物を…!」

「旧共有サーバーに眠っていましたよ。会社の未来を本気で憂い、部署間の壁を越えた連携を訴える、素晴らしい計画書でした」

俺は報告書をスクロールさせながら、その内容を淡々と読み上げていく。全社的な業務フローの抜本的改革案、ペーパーレス化の推進、さらに社員の創造性を最大限に引き出すための大胆な人事制度改革案。どれもこれも、今の業苦商事からは想像もつかない、理想に満ちた言葉が並んでいた。

「…ですが、この一節は少し気になりましたね。『ああ、我が理想の翼よ、何故この鉄の檻に囚われるのか。答えよ、空よ、星よ!』…とか」

「や、やめろ!」

「『高橋部長(当時の上司)の頭は石炭でできているのか?』という手書きのメモもありました」

会議室が、なんとも言えない微妙な空気に包まれる。システム部の若手社員が必死に笑いを堪えている。田中部長の顔は、青から赤、そして紫色へと変化していた。

佐藤さんが、呆然とスクリーンを見つめながら呟いた。

「…本当に、昔は熱い人だったんですね、部長…」

その声には、失望と、ほんの少しの同情が混じっているように聞こえた。



「くだらん! そんなものはただの若気の至りだ! 過去の遺物に何の意味がある!」

田中部長が声を荒らげた、その瞬間。

「では、当時の担当者に直接お話を聞きましょう」

俺はスマートフォンのスピーカーをオンにした。一瞬、キーンというハウリングが鳴り響く。

「そんなもの証拠になるか!」

部長が勝ち誇ったように叫ぶ。だが、すぐにスピーカーから気の抜けた男の声が聞こえてきた。

『――もしもし? 加賀谷さん?』

「どうも。突然すみません。少しだけお時間をいただけますか」

『えー、まあいいけど…。てか、加賀-谷さん、なんで俺の今の会社の自販機で、コーンポタージュがすぐ売り切れるって知ってんの? あれマジで謎なんだよな…』

「その謎はいずれ解きます。それより、単刀直入に伺います。『プロジェクト・フェニックス』のこと、覚えてますか?」



スピーカーの向こうで、元システム担当者は一瞬黙り込んだ。

『(スピーカー越しに)あー、はいはい、フェニックスね…。懐かしいな。部長、覚えてます? あの時サーバー室でカップ麺こぼして、重要書類の束をダメにしたのが頓挫の一因ですよね?』



空気が凍った。

田中部長がわなわなと震え始める。

『あと、当時の高橋部長にプレゼンする直前に緊張でトイレに籠城して、結局すっぽかしたとか…。「またあの時の二の舞は…」って、まさかあれのことですか?』

「き、貴様ぁっ…! で、でたらめを…言うな…っ!」

支離滅裂な反論。もはや権威も何もない、ただの醜態だ。若き日の理想、それを自ら葬った過去の失敗、現在の保身。その全てが白日の下に晒され、板挟みになった男の精神は、もう限界だった。

俺は、静かに最後の一撃を放つ。



「あなたは、自分の理想に負けたんですよ、田中部長」



「う、ああ……」

獣のような呻き声。

田中部長は、糸が切れた操り人形のように、椅子に崩れ落ちた。



会議室に、数秒間の完全な沈黙が訪れる。

誰も何も言えず、ただプロジェクターに映し出された若き日の理想だけが、静かに今の彼を見下ろしていた。





懲罰委員会は混乱の末、無期限の中断となった。事実上の、俺たちの勝利だ。

オフィスに戻る道すがら、佐藤さんと鈴木くんは手放しで俺を称賛してくれた。

「加賀谷くん、すごすぎるよ! まるで魔法みたいだった!」

「ああ、まさかあんな方法があったなんて…! 俺、一生ついていくぜ!」

二人の満面の笑みが、少しだけ眩しい。仲間との絆。孤独な復讐劇では決して得られなかった温かい感情が、胸に広がる。



だが、その高揚感の裏側で、俺は見てしまった。

エレベーターの扉に映った自分の右手の指先が、ほんの一瞬、向こうの景色が透けるほど希薄になったのを。

――ああ、そうか。

大きなバグを修正すればするほど、俺というデバッガーの存在意義は薄れていく。

仲間との絆が深まるほど、俺は、この世界から消えていく。

孤独な恐怖が、歓喜の余韻を急速に塗りつぶしていった。



自席に戻り、一人でPCの画面を眺めていると、頭の中に直接、あの忌々しい声が響いた。

『おめでとう、加賀谷くん。見事なデバッグだった』

クロノスだ。

『だがバグを修正すればするほど、君というデバッガーの存在意義は薄れていく。次は、誰の記憶から君が消えるかな?』



その言葉に突き動かされるように、俺はスマートフォンの連絡先を開いた。

スクロールしていく指が、ある名前の上で止まる。

俺にとって、唯一無二の存在。



『美咲』



その二文字が、一瞬、ノイズ混じりに意味不明な記号へと文字化けしたのを、俺は見逃さなかった。

息を、呑んだ。

心臓が、万力で締め上げられたかのような衝撃。

代償は、もうすぐそこまで迫っている。

俺の、最も大切な場所を、侵食しようとしていた。

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