デバッガーの代償、承認印の罪
オフィスの空気は、まるで文化祭の前日のように浮ついていた。
「加賀谷さん! 見ました!? 総務の鈴木さん、あの資料のおかげで備品申請の処理時間が半分になったって、お菓子持ってきましたよ!」
「俺の方も営業二課の田中さんが、これで提案書作るのに集中できるって泣いてました! マジで神です、加賀谷さん!」
佐藤さんと鈴木くんが、子供が遊園地ではしゃぐように報告してくる。前回の奇策、『既存リソースの最適化と業務提携によるコスト創出』が、面白いように効果を上げ始めていた。その熱気に満ちた空間で、俺は一人、自席のディスプレイの光を浴びながら、冷水を浴びせられた気分だった。
手元のスマートフォンには、大手転職サイトのマイページが表示されている。そこに並ぶ、無慈悲な文字列。
『該当する職務経歴はありません』
クロノスに告げられた『代償』。俺の存在が、この世界から少しずつ削り取られていく。履歴書から『業苦商事』の職歴が消えたのは、その始まりに過ぎない。俺の身体から、何かが剥がれ落ちていく。まるで存在そのものが、砂のように指の隙間から零れ落ちていくような、冷たい恐怖が押し寄せた。隣で笑う仲間たちとの間に、見えないガラスの壁があるようだ。俺だけが、この世界のバグと、その修正にかかるコストを知っている。この孤独感こそが、ループする者の呪いなのかもしれない。
その時だった。オフィスの入り口が騒がしくなり、経理部の女性社員が青い顔で駆け込んできた。
「さ、佐藤さん! 大変です! システム部が、サーバーのアクセスログに不審な記録を見つけたって…!」
その言葉に、俺の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
来たか。タカシの店を救うためにシステムを改竄した、あの日埋め込んだ時限爆弾が、ついに火を噴いたのだ。俺はログを『外部からの不正アクセス』としてではなく、『権限者(黒川課長)による仕様変更』と偽装した。プロの目をごまかしきれるほど甘くないことは承知の上だったが、このタイミングで発覚するとは。偽装したログが、いよいよ本格的なトラブルを引き起こした。
噂はあっという間に社内を駆け巡った。システム部からの報告を受けた田中部長が、鬼の形相を浮かべ、黒川課長を部長室に呼びつけたらしい。
「どういうことだ黒川! 貴様、会社のシステムに何をした!?」
田中部長の怒声が、薄い壁を隔てて微かに聞こえてくる。だが、返ってくるのは沈黙だけ。今の黒川課長は、意思を失ったただの承認印だ。その反応のなさが、逆に田中部長の邪悪な想像力を掻き立てたのだろう。
(なるほど…無能な黒川が、あの小僧、加賀谷に唆されて独断でシステムをいじった、か。これは使える!)
田中部長がほくそ笑む顔が目に浮かぶ。奴にとって、これは予算ゼロのプロジェクトを妨害し、プロジェクトそのものを白紙に戻し、俺たちをまとめて処分する絶好の口実だ。
予感は最悪の形で的中した。
数時間後、オフィスに張り出された一枚の紙が、俺たちの築き上げた小さな勝利を木っ端微塵に粉砕した。
【懲罰委員会の開催について】
紙切れ一枚で、オフィスは凍りついた。さっきまで高揚していた佐藤さんと鈴木くんの顔から、血の気が引いていく。
「懲罰…委員会…? なんで…」
「俺たちも…呼ばれるのか…?」
その通りだ。プロジェクトの責任者は黒川課長。だが、実質的に動いていたのは俺たち三人。共犯として断罪されるのは火を見るより明らかだった。佐藤さんは積み上げてきたキャリアを、鈴木くんは営業としての未来を、全て失うかもしれない。
俺が、巻き込んだんだ。
胃が焼け付くように熱い。目の前が暗くなる。
……ループ、するか?
今ならまだ間に合う。この最悪の事態が起きる前に戻れば、全てをリセットできる。仲間を救える。だが、それはこの世界で戦うことを放棄する、ただの逃亡だ。俺が埋め込んだバグから目を背ける行為に他ならない。
俺はよろめくように席を立ち、トイレの個室に駆け込んだ。冷たい便座に座り、頭を抱える。どうすればいい。どうするのが正解なんだ。
その時、頭の中に直接、あの忌々しい声が響いた。
『逃げるのかい、デバッガーくん? そのバグは君自身が埋め込んだものだ。責任を取らずにリセットかね?』
「うるさい…!」
クロノスの嘲笑が、脳をかき乱す。
『そもそも、君の存在が消えかかっているのはなぜだと思う?』
声は楽しげに続ける。
「君が自分の過去を『なかったこと』にしたいと願うから、世界が親切に消してくれているだけさ。自己否定の究極、それが自己消滅だ」
自己否定の、究極…。
そうだ。俺はずっと、才能を切り捨てた過去の自分を否定し続けてきた。こんなはずじゃなかったと後悔し、違う自分になろうともがいてきた。その強い願いが、俺自身の存在をこの世界から消し去ろうとしているというのか。
ループを抜けるには、自己受容が必要不可欠。
つまり、過去の俺も、今の俺も、全てを受け入れること。
逃げちゃ、ダメだ。このループで、この世界で、戦い抜いて、証明しなきゃならない。自己消滅の恐怖に、このまま身を委ねるわけにはいかない。
俺は個室のドアを蹴るように開け、オフィスへと戻った。
そこには、絶望に打ちひしがれる二人の仲間がいた。佐藤さんはデスクに突っ伏し、鈴木くんは窓の外を力なく眺めている。
その光景が、俺の中の最後の迷いを吹き飛ばした。
自己消滅? 上等だ。だが、それは全てを守り抜いた後の話だ。この恐怖を押し殺し、俺は仲間を守り抜く。
俺は息を吸い込み、恐怖で震えそうになる足を叱咤する。そして二人の前に立ち、あえて、不敵な笑みを口元に浮かべた。
「大丈夫です。これも想定内ですよ」
二人が、信じられないものを見る眼差しで俺を見上げた。
「か、加賀谷くん…? 何を…」
「ループはしない。俺が埋め込んだバグだ。この手でデバッグしてやる…仲間も、俺自身の存在も、全部守った上でな!」
最後の言葉は、俺自身に言い聞かせるための誓いだった。俺は続ける。
「田中部長を完全に『詰ませる』ための、次の一手を打ちますよ」
力強く言い切った俺の言葉に、二人の目に、驚きと、そしてほんのわずかな希望の光が宿ったのが見えた。これで、田中部長への反撃の幕が上がる。
自席に戻った俺は、脳内の『攻略本』のページを猛烈な勢いでめくっていく。田中部長、奴の弱点、過去の失態、金の流れ、人間関係…全ての情報を洗い出す。奴は用心深く、尻尾を出さないタイプだ。だが、どんな人間にもアキレス腱はある。
その時、俺は旧共有サーバーの奥深くに眠っていた、一つのファイル名を見つけた。『プロジェクト・フェニックス頓挫報告書』。詳細は思い出せないが、この名前に強烈な違和感を覚えた記憶がある。これだ。
懲罰委員会という敵の土俵。ならば、その土俵ごとひっくり返してやる。
俺はスマートフォンを取り出し、アドレス帳のある名前をタップした。過去のループで一度だけ話したことがある、業苦商事の元システム担当者。今は別の会社にいるはずだ。
コール音が数回響いた後、無機質な電子音の向こうで、懐かしい声がした。
「――はい、もしもし」
逆転劇の幕が、今上がる。




