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社畜輪廻  作者: おぷっち


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10/16

終わらない初日のデバッグ作業

タカシの一件に一区切りつけたものの、業苦商事のオフィスにいる俺の心は、鉛のように重かった。親友を救えた安堵と、彼をこの狂ったループに巻き込んでしまった罪悪感が、胃の中で混ざり合って不快な後味を残している。

オフィスに足を踏み入れると、その重苦しい空気は一瞬で吹き飛ばされた。

「加賀谷さん、お疲れ様です!」「見たか、田中部長のあの顔!」

佐藤さんと鈴木くんが、まだ勝利の余韻に浸って興奮気味に出迎えてくれる。彼らにとっては、理不尽な上司に一矢報いた、痛快な一日。その熱量が、今の俺にはひどく眩しくて、少しだけ息苦しかった。俺だけが知っている。この勝利の裏で、親友の夢が「備品」として処理されかけたことを。この温度差が、俺とこの世界の間に引かれた、決して越えられない境界線だと痛感した。



その高揚した空気を切り裂いたのは、音もなく現れた一つの人影だった。



黒川課長。



虚無。その言葉を体現した表情で、彼は一枚の紙を手に、俺たちの前に立っていた。その瞳には何の光も宿っていない。

オフィスが一瞬で静まり返る。

黒川課長は、他人の言葉を再生する機械じみた、抑揚のない声で告げた。

「……田中部長より、通達。当プロジェクトのリーダーは、引き続き、私が務める」

一瞬の沈黙の後、安堵の息が漏れる。だが、黒川課長の言葉は終わらなかった。

「……当プロジェクトの予算は、ゼロ。人員補充も、なし。以上」



シン……と、オフィスの空気が凍りついた。勝利の熱は一瞬で消え去り、絶対零度の絶望が支配する。

「ぜ、ゼロって……」「どういうことですか!?」佐藤さんと鈴木くんの顔から血の気が引いていく。そりゃそうだ。エンジンも燃料もなしで、宇宙に行けと言われているに等しい。田中部長の、陰湿で、しかし完璧な一手。プロジェクトを潰すのではなく、責任者を黒川課長にしたまま、実行不可能な条件を突きつけて生殺しにする。これ以上ない、意趣返しだった。



だが、俺の思考は、絶望とは違う方向へ回転を始めていた。……なるほどな。予算ゼロか。

普通に考えれば詰みだ。しかし、ここはループの中。俺には、この会社の隅々まで知り尽くした、過去のループという名の「攻略本」がある。

「加賀谷さん……どうしましょう……」

青ざめた顔で俺を見る佐藤さんに、俺は不敵に笑いかけてみせた。

「佐藤さん、鈴木くん。チャンスですよ、これは」

「「は……?」」

「予算ゼロを、逆手に取りましょう」

俺は二人に、この絶望的な状況をひっくり返すための奇策を囁いた。

『既存リソースの最適化と業務提携によるコスト創出』。

聞こえはいいが、要はこうだ。経理の佐藤さんには、各部署の予算の無駄を徹底的に洗い出してもらう。俺のループ知識があれば、どこに埋蔵金が眠っているかは明確にわかる。営業の鈴木くんには、その削減したコストをチラつかせ、他部署のキーマンたちに「業務提携」という名の協力を取り付けてもらう。

このプロジェクトは、俺たちの部署だけのものではない。全社的な悲願なのだと、既成事実を作ってしまえばいい。そうなれば、田中部長一人では、もう止められない。



俺の計画を聞いた二人の目に、再び光が宿った。

「や、やります!やってやりますよ!」

「面白そうじゃないっすか!」

こうして、俺たち三人の、予算ゼロからの逆襲が始まった。佐藤さんは鬼の形相で電卓を叩き、鈴木くんは生き生きと社内を駆け回る。



一方、黒川課長は――。

「課長、この稟議書にハンコをお願いします」

「……」

俺が差し出した書類に、彼は虚ろな目で視線を落とし、ただ黙って承認印を押す。彼はもはや、意思を持たない『承認印を押すだけの装置』と化していた。田中部長は彼を責任転嫁の生贄にしたつもりだろうが、俺にとってはプロジェクトを動かすための『部長権限の代行印』だ。この攻防、すでに俺が二手先を読んでいる。

途中、他部署の古株社員から「リーダーは黒川課長のはずだ。なぜ契約社員のお前が仕切っている?」と正論で詰められる場面もあったが、鈴木くんが「これは部長直轄の特命でして!黒川課長はその全権を委任されているんですよ!」という見事なハッタリで切り抜けた。

ドタバタ劇の末、俺たちの計画は驚くべき速度で進行し、オフィスには再び歓声が響き渡った。チームで逆境を乗り越える。それは、孤独な復讐劇とは全く違う、確かな手応えと温かさがあった。



その、まさに歓喜の頂点で。

俺のスマホが、けたたましく震えた。表示された名前は『タカシ』。胸騒ぎがする。電話に出ると、耳をつんざくような悲鳴が聞こえてきた。

「加賀谷!助けてくれ!店が、店がぁっ!」

言葉にならない叫び。何が起きている!?

俺はオフィスを飛び出し、タクシーに乗り込んだ。タカシの店に着くと、信じられない光景が広がっていた。

店の前には、業苦商事の社員証を首から下げたサラリーマンたちが、長蛇の列を作っている。その誰もが、スマホの画面を店員に見せ、何かを受け取っていく。

俺は人波をかき分けて店の中に飛び込んだ。油の匂いと熱気が渦巻く中で、タカシは一人、汗だくでフライヤーの前に立っていた。その横には、山積みの唐揚げパック。

俺のシステム改変が、また新たなバグを生んだのだ。システムの奥深くで何かが連鎖し、『秘伝の唐揚げ』は『福利厚生ポイントで交換可能な現物支給品』として、全社員に告知されてしまったのだ。



「……タカシ」

声をかけると、疲れ切った顔がゆっくりとこちらを向いた。その顔には、怒りも、悲しみもなかった。ただ、全てを諦めた、乾いた笑みが張り付いていただけだった。

タカシは、油が跳ねるジュウジュウという音の中で、力なく言った。

「もうお前のせいじゃないって分かってるけどさ…なんかもう、笑えてきたよ。俺の唐揚げ、福利厚生なんだってさ」

その言葉が、俺の胸に突き刺さった。

胸を締め付けられるような痛み。俺の力は、正義なんかじゃない。仲間を救う力でもない。ただ、この世界にバグを撒き散らし、大切な人間を歪みに巻き込むだけの、呪いじゃないのか。

深い無力感と自己嫌悪が、俺の全身を支配した。



オフィスに戻るタクシーの中、俺は何も言えず、ただ窓の外を流れる景色を無表情で見つめ続けていた。



自席に戻り、一人静かにPCの電源を入れる。

もう、復讐のためじゃない。自己満足のためでもない。

この狂ったループは、バグだらけのクソゲーだ。俺こそが、そのバグを発生させている元凶であり、唯一修正できるプレイヤーなのだ。

ならば、やることは一つだ。

「復讐じゃない。これはデバッグだ。このクソみたいな世界のバグを、俺が修正する」

俺は、自分自身にそう宣言した。それは第1話で絶望の底にいた『すみませんボット』だった俺からの、明確な決別だった。俺が『俺』を取り戻すための、本当の戦いが今、始まる。脳裏に、部屋の隅で埃を被ったあの巨大なキャンバスが浮かんだ。クロノスが指し示した、何かを創造する俺の姿。復讐じゃない。破壊でもない。俺がやるべきは、このクソみたいな世界をデバッグし、その先に俺自身の会社という名の新しい絵を描くことだ。



決意を固めた、その瞬間。

ポケットのスマホが、静かに振動した。非通知着信。

指が、勝手に通話ボタンをタップしていた。

『――素晴らしい。君はついに『デバッガー』としての自覚を得たようだね』

クロノスの、愉悦に満ちた声が耳に流れ込む。

『では早速、次のバグを報告しよう。今回の君の活躍で、君の履歴書から『業苦商事』の職歴が一つ、綺麗に消去された』

「……何?」

『おめでとう、加賀谷くん』

クロノスの声は、どこまでも楽しそうだった。

『君はまた一つ、この世界から存在を失った』



全身の血が凍りつくのを感じた。履歴書から、職歴が消える?

それはつまり、俺がこの世界にいたという証が、一つ、消えたということか?

ループの代償。それは、単なる世界の歪みではなかった。

俺自身の存在そのものを、この世界から削り取っていく行為だったのだ。

俺は、声も出せずに、ただ受話器を握りしめることしかできなかった。

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