社畜輪廻
ジリリリリリリリッ!
けたたましい電子音が鼓膜を突き破り、強制的に意識を覚醒させる。…まさか、またこれなのか? 思考が追いつく前に、俺、加賀谷の身体は染み付いた絶望を再認識していた。
安物の目覚まし時計が刻むのは、人生の残り時間ではなく、社畜としての刑期の開始時刻だ。手を伸ばして乱暴にスイッチを叩き潰すと、部屋に重たい静寂が戻ってきた。
天井のシミが、人生の航路図のように歪んで見える。ここが俺の現在地。転職を繰り返した果てに流れ着いたブラック企業『業苦商事』という名の無人島だ。
部屋の隅には、二つの亡霊が鎮座している。
一つは、ホコリを被ったギターケース。昔、友人が「お前の才能ならプロになれる」と贈ってくれたもの。もう一つは、描きかけのまま放置された巨大なキャンバス。どちらも、俺がかつて持っていたはずの何かを、無言で告発し続けていた。面倒くさい、人と違う。そうやって自分で封印してきた過去の残骸が、俺を責め立てる。
それらから目を逸らし、俺は今日もまた、死んだ魚のような目でベッドから這い出した。
現代の奴隷船こと満員電車は、今日も定員オーバーの悲鳴を上げていた。窓ガラスに押し付けられた俺の顔は、社会の圧力を体現した現代アートのようだった。
ようやく会社のフロアにたどり着いたのは、始業の十分前。だが、それで許されるほど、この会社は甘くない。
「加賀谷ぃ!」
デスクに着くか着かないかのタイミングで、背後から地雷が爆発した。黒川課長だ。
振り向いた俺の顔を見るなり、課長の眉間のシワがさらに深くなる。
「声が小さい! お前の脳みそはスライムか? 弾力があるだけで中身がねえんだよ!」
まだ何も発声していないのだが。
「はい! 申し訳ありません!」
「返事だけは一人前だな! そのスカスカの頭で、今日のタスクは把握してんだろうな! ああ!?」
周囲の同僚たちは、キーボードを叩く音をわずかに強めるだけだ。誰も助け舟など出さない。ここはそういう場所。俺はただの「すみませんボット」と化し、嵐が過ぎ去るのを待つ。ここに、俺の居場所なんてものは、最初から存在しないのだ。
昼休み。唯一の聖域であるトイレの個室に駆け込み、スマホの画面を開く。受信トレイに並ぶのは、色とりどりのお祈りメールだった。
『慎重に選考を重ねました結果、誠に残念ながら今回はご期待に沿えない結果となりました』
丁寧な言葉で綴られた、社会からの拒絶証明書だ。追い打ちをかけるように、登録している転職エージェントからメッセージが届く。『誠に恐縮ですが、現状、加賀谷様にご紹介できる案件はございません』。
もう、どこにも俺を必要としてくれる場所はないのだろうか。
画面を睨みつけながら、胸の奥で燻っていた後悔が黒い煙を上げる。昔はもっと…人の顔色を読んで、的確な一手を打てたはずだった。戦略を立て、相手を誘導するような、そんな面倒くさい才能。いつから俺は、ただ謝罪を繰り返すだけの機械に成り下がってしまったんだ。
定時を過ぎ、フロアの明かりが半分ほど消えた頃。悪夢は再びやってきた。
「加賀谷、ちょっと来い」
黒川課長に呼び出され、差し出されたのは一枚の伝票。そこに記載された発注数は、俺が見た記憶の、ゼロが一つ多かった。
「おい、これどういうことか説明しろ」
「え…? これは、私が昨日処理した分は確かにこの桁では…」
「俺の指示を疑うのか? ああ!? お前がミスったんだろうが!」
課長の机の隅にある付箋。そこには、走り書きされた正しい数字が微かに見えた。課長のミスだ。それは明白だった。しかし、オフィスのプリンターがけたたましく紙詰まりエラーを告げた瞬間、課長のイライラは頂点に達したようだった。
「てめえのせいでどれだけ迷惑がかかると思ってんだ! この損害、どうしてくれるんだよ!」
反論の言葉は、喉の奥で圧殺される。周囲の視線が突き刺さる。憐憫、嘲笑、そして安堵。今日のスケープゴートは俺で良かった、と。
その冷たい視線の集中砲火を浴びて、俺の中で何かがぷつりと切れる音がした。
会社をどうやって飛び出したのか、記憶が曖昧だ。
気づけば、冷たい雨が全身を叩きつけていた。街灯の頼りない光が、濡れたアスファルトを照らしている。もう、歩けない。膝から力が抜け、俺はその場に崩れ落ちた。
水たまりが、俺の絶望しきった顔を映し出す。
「もう…終わりだ…」
呟いた瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。激しい目眩が脳を揺さぶり、視界が真っ白に染まっていく。ああ、これが限界か。俺の意識は、深い闇の中へと沈んでいった。
ジリリリリリリリッ!
…そのけたたましい電子音で、俺は叩き起こされた。
聞き慣れた、憎らしいほどの目覚まし時計の音だ。ゆっくりと目を開けると、そこには見慣れた天井のシミが広がっていた。
「…夢か」
最悪の悪夢だった。あまりのリアルさに、まだ心臓が嫌な音を立てている。のろのろと身体を起こし、枕元のスマホに手を伸ばす。時間を確認しようとして、俺は息を呑んだ。
画面に表示された日付は、昨日と同じ。あの地獄の一日が始まるはずの、月曜日の朝。
「…は?」
嫌な汗が背中を伝う。震える指でテレビのスイッチを入れる。女性キャスターが、昨日と寸分違わぬ笑顔で、同じニュースを読み上げていた。
「まさか…そんなはずが…」
血の気が引いていくのが分かった。これは一体、どういうことなのか。
半信半疑のまま、俺は再びあの奴隷船に乗り込み、会社へと向かった。途中、昨日と同じタイミングで人身事故のアナウンスが流れ、電車が停止する。偶然か? いや、偶然にしては出来すぎている。
そして、フロアに足を踏み入れた時、運命の鐘が鳴った。
「加賀谷ぃ!」
昨日と全く同じタイミング。全く同じ声色。
俺が振り向くと、黒川課長が昨日と全く同じ表情で仁王立ちしていた。
「声が小さい! お前の脳みそはスライムか? 弾力があるだけで中身がねえんだよ!」
デジャヴ、ではない。これは、再現だ。
全身に鳥肌が立った。絶望的な状況が、寸分の狂いもなく繰り返される恐怖。
これは…ループだ。
神様がいるなら、とんだクソゲーを押し付けやがった。なぜ、俺がこんな目に?
だが…。
俺は、昨日と同じように萎縮して謝罪する代わりに、ただ黙って、無表情で黒川課長の目をじっと見つめた。
俺の予期せぬ反応に、課長の言葉が一瞬、詰まる。その目に、ほんの僅かな動揺がよぎったのを、俺は見逃さなかった。
その瞬間、俺は悟った。
このクソゲー…やり直せるだけじゃない。未来を、変えられるのか。
自嘲と、そして不敵さが入り混じった笑みが、俺の口元に浮かんだ。
黒川課長の罵倒が、まだ耳元でわめき続けている。しかし、それはもう俺の心には届いていなかった。
(さて、二度目の初日。どうやってアンタを詰ませてやろうか、課長)
絶望に満ちていた俺の目に、初めて冷徹な光が宿った。




