私、泣くと宝石が出るらしいです。婚約破棄の日に初めて知りました ~初めて婚約破棄の破棄をされました~
ルティアーナ・フォーゲルは、その場で声を上げることすらできなかった。
王宮の大広間。数百の視線が自分に集まっている。
燭台の炎が揺れ、壁に掛けられた王家の紋章が金色に輝き、本来ならば、今宵は彼女の婚約披露宴となるはずだった。
「よって、ルティアーナ・フォーゲルとの婚約は本日をもって破棄とする」
王太子アルヴィン・レグルスの声は、広間の隅々まで響き渡った。冷たく、揺るぎなく、まるで予め用意された布告文を読み上げるかのように。
ルティアーナは唇を噛んだ。
何か言わなければ。反論しなければ。
けれど喉は凍りついたように動かず、ただ立ち尽くすことしかできない。
「理由は明白だ」
アルヴィンは続けた。
「フォーゲル家の財政は既に破綻寸前。この婚姻が我が国にもたらす利益は皆無と判断した」
ざわめきが広がる。
貴族たちの視線が、憐れみから好奇へ、そして嘲笑へと変わっていくのが分かった。
ルティアーナの父は三年前に亡くなった。母は病床に伏している。
領地経営は苦しく、この婚約だけが唯一の希望だった。
いや、希望というより、縋るしかない細い糸だった。
それを今、目の前で断ち切られた。
「殿下」
やっとの思いで声を絞り出す。
震えている。惨めなほどに。
「私は……何か、至らぬことでも」
「至らぬこと?」アルヴィンは薄く笑った。
「そもそも、君には何も期待していなかった。
君の家名に価値があっただけだ。だが今や、その家名すら負債でしかない」
広間のあちこちで笑い声が上がる。
ルティアーナは俯いた。視界が歪む。泣いてはいけない。ここで泣けば、もっと惨めになる。
いつもそうしてきた。感情を押し殺し、表情を消し、誰にも弱みを見せないように。
けれど。
今日だけは、どうしても。
「……っ」
熱い雫が頬を伝った。一粒、二粒。止まらない。
十年以上、人前で泣いたことなどなかった。
父の葬儀でさえ、必死に堪えた。なのに今、堰を切ったように涙が溢れ出す。
その時だった。
カラン、と何かが床に落ちた音がした。
石が床に落ちたような、硬い、澄んだ音。
ルティアーナは自分の足元を見た。
そこに、小指の先ほどの透明な結晶が転がっていた。
「……え?」
また音がした。今度は二つ、三つ。
涙が流れるたびに、結晶が次々と床に落ちていく。
広間が静まり返った。
これは感情結晶、この世界では、強い感情が昂った際に魔力結晶が体外に物質化することがある。
だが通常、それは曇った低価値の魔石であり、一生に一度、指先ほど出れば奇跡と言われている。
床に散らばる結晶は、違った。
透き通った、完璧な透明度。
燭台の光を受けて虹色に輝いている。
「あれは……最高純度の……」
誰かが小声で呟く。
ルティアーナ自身も理解できなかった。
確かに以前、悲しい時に小さな結晶が出たことはある。
だが、すぐに隠していた。誰かに見られる前に。異常だと思われたくなかった。
今、止められない。
感情が制御を離れ、涙と共に結晶が零れ落ち続ける。
「待て」
アルヴィンの声が変わった。鋭く、貪欲に。
「拾え。全て拾い集めろ」
近衛兵たちが慌てて動き出す。
床に這いつくばり、輝く結晶を掻き集める。
ルティアーナは震える手で自分の頬に触れた。
涙の跡、そこから生まれる宝石。これが、自分の体質だったのか。
「ルティアーナ」
アルヴィンが近づいてきた。
先ほどまでの冷淡さは消え、その瞳には剥き出しの欲望が宿っている。
「先ほどの話は撤回する…婚約破棄の破棄だ」
広間が大きくざわめく。
だがルティアーナは、その言葉の意味を正確に理解していた。
彼が見ているのは自分ではない。足元に散らばる、私から生まれた宝石だ。
婚約破棄の破棄から三日が経った。
ルティアーナは王宮の一室に軟禁されていた。
表向きは「保護」だったが、扉の外には常に衛兵が立ち、窓には格子が嵌められている。
「もう一度、泣いてみてはいかがですか」
来訪者——中年の宮廷魔術師が、にこやかに言った。
「殿下がお待ちです。先日の結晶は素晴らしいものでしたが、量が足りません。
もっと多くの涙を流していただければ」
ルティアーナは答えなかった。
この三日間、何人もの貴族や役人が訪れた。
誰もが皆同じことを言う。泣け、もっと泣け。感情を昂らせろ…と。
あの夜以来、彼女はほとんど涙を流すことがなかった。
感情が麻痺したのかもしれない。あるいは、本能的に自分を守っているのか。
「困りましたね…」
魔術師は溜息をついた。
「悲しい知らせでもお伝えしましょうか。
ご実家の領地が差し押さえられたとか、お母様のご病状が悪化したとか」
「……出て行ってください」
「おや、怒りましたか?怒りでも結晶は出るかもしれませんね!さあ、もっと感情を——」
「出て行けと言っています」
ルティアーナは立ち上がった。
声は震えていたが、視線だけは真っ直ぐに魔術師を見据えた。
魔術師は肩を竦め、部屋を出ていった。
一人になると、ルティアーナは窓辺に歩み寄った。
格子越しに見える空は曇っている。
自分が人として見られていないことは、もう分かっていた。
彼らにとって自分は、涙を流す装置でしかない。
感情を持つ人間ではなく、宝石を生み出す資源。それ以上でも以下でもない。
翌日、ルティアーナは馬車に乗せられた。
「魔力結晶検査施設へお連れします。公的な査定が必要とのことです」
衛兵が無機質に告げた。
施設は王都の外れにあった。
灰色の石造りの建物で、窓は小さく、まるで牢獄のようだった。
中に入ると、白い服を着た検査官たちが待ち構えていた。
その目は、先日の魔術師と同じだった。貪欲で、冷たい。
「フォーゲル嬢ですね」
年配の検査官が近づいてきた。
「まず基本検査を行います。腕をお出しください」
言われるままに腕を差し出す。
検査官が何かの器具を当て、数値を読み上げる。
「魔力含有量、異常値……いや、これは計測限界を超えている」
周囲がざわめく。
「素晴らしい」
検査官の目が輝いた。
「では実地試験です。結晶を生成していただきます」
「……どうすれば」
「簡単なことです。泣いてください」
ルティアーナは唇を噛んだ。
「それは」
「難しいですか?では、こちらで手配しましょう」
検査官が合図すると、奥の扉が開いた。
白い服を着た男が二人、何かを運んでくる。
それは一通の手紙だった。
「お母様からの手紙です。
正確に申し上げますと、お母様の訃報を知らせる手紙、という『設定』ですが」
ルティアーナの血の気が引いた。
「お読みになりますか?読めば、きっと泣けるでしょう。
いえ、実際にお母様がどうなっているかは関係ありません。
悲しい『気持ち』になっていただければ、それで——」
「やめてください」
「困りますね。殿下のご命令なのです。
もっと効率的に結晶を採取する方法を確立しろ、と。
ご協力いただけないのであれば、多少手荒な手段も——」
その時、施設の扉が大きく開いた。
冷たい風が吹き込む。
逆光の中に、一人の男が立っていた。
長身で、漆黒の髪。深い青の瞳。
纏っているのは、この国のものではない意匠の外套だった。
「何事ですか!ここは許可なく立ち入りしていい場所では…」
検査官が声を荒げた。
「許可なら取ってある」
男の声は低く、静かだった。
「……失礼ですが、どちら様で」
「隣国ヴェルシード王国の国王、レオナルド・ヴェルシードだ」
その一言で、検査官たちは凍りついた。
検査官たちの顔から血の気が引いていく。
レオナルド——隣国の王。
若くして即位し、わずか数年で国力を倍増させたと言われる名君。
この国とは同盟関係にあるが、その関係は必ずしも対等ではない。
「視察の途中でな」
レオナルドは施設内を見回した。
「この施設の存在を聞いた。感情結晶の研究施設だと」
検査官が引きつった笑みを浮かべる。
「は、はい。我が国の重要な研究施設でございます。どうぞご覧くだ——」
「彼女は誰だ」
レオナルドの視線が、ルティアーナに向けられた。
その瞬間、彼女は不思議な感覚を覚えた。
今日まで何人もの人間に見られた。
だが誰もが、彼女の「利用価値」を見ていた。
宝石を生み出す能力、利用できる資源としての価値。
この男の視線は、違った。
ただ、彼女自身を見ていた。
「フ、フォーゲル家の令嬢でございます、特殊な体質の持ち主でして、感情結晶の生成能力が…」
検査官が張り付けたような笑顔で早口に説明する。
「貴様には聞いていない、彼女に聞いている」
レオナルドはルティアーナに歩み寄った。
検査官たちが慌てて道を開ける。
「名前は」
「……ルティアーナ・フォーゲルと申します」
「泣いていたのか」
ルティアーナは目を伏せた。泣いてはいない。
だが、目元が赤くなっているのは自分でも分かった。
「…いいえ」
「嘘だな」
レオナルドは断言した。
「目が赤い。声が震えている。そして——」
彼は検査官たちを見た。
「この連中の態度を見れば、何があったか想像がつく」
検査官が慌てて弁明しようとする。
「王、これは正式な検査でして——」
「泣かせようとしていたのだろう」
沈黙が落ちた。
レオナルドの声には怒気が滲んでいた。
だが、それは爆発するような怒りではない。もっと深く、静かな憤り。
「人を泣かせて宝石を取る。そういった検査か?」
「そ、それは……」
「答えろ」
検査官は何も言えなかった。
レオナルドはルティアーナに向き直った。
彼女の顔を——正確には、彼女の目を見つめる。
「なぜ泣いた?」
「……え?」
「婚約破棄されたと聞いている。それが理由か」
ルティアーナは戸惑った。誰も、そんなことを聞かなかった。
泣いた「結果」には興味を示しても、泣いた「理由」を問う者はいなかった。
「……はい」
「悲しかったのか」
「…何故か分かりません」
正直に答えた。
「悲しかったのか、悔しかったのか、それとも……ただ、疲れただけなのか」
「疲れた?」
「ずっと、感情を抑えていましたから」
言葉が、自然と溢れ出した。
誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
この三日間、誰も聞いてくれなかった。
「父が亡くなった時も、母が病に倒れた時も、領地が傾いた時も。
私は泣けませんでした。泣いたら、終わりだと思っていました」
「終わり?」
「私が崩れたら、支える人がいませんでしたから。だから、ずっと——」
声が詰まった。
「ずっと、我慢していました」
レオナルドは黙って聞いていた。
その視線は彼女の顔に向いたままで一度も、彼女の足元に落ちなかった。
床に、小さな結晶が一つ、二つと転がり始めていたのに。
検査官たちがざわめく。
「おお、出始めた——」
「黙れ」
レオナルドの一言で、全員が口を閉じた。
「彼女はまだ話している」
ルティアーナは瞬きをした。
涙が一筋、頬を伝う。結晶が一つ、床に落ちた。
だが、先日のように次々と溢れ出すことはなかった。
なぜだろう。悲しいはずなのに。辛いはずなのに。
「陛下」
検査官の一人が恐る恐る口を開いた。
「その、結晶を——」
「触るな」
レオナルドは振り返りもせずに言った。
「一つたりとも、触れるな」
「し、しかし——」
「これは彼女のものだ。彼女の感情から生まれたものだ。
お前たちに、それを奪う権利はない」
検査官達はレオナルドの覇気に圧され、動けなくなっていた。
レオナルドは再びルティアーナを見た。
その目には、憐れみはなかった。同情もなかった。
ただ、真っ直ぐな、敬意のようなものがあった。
「君は、よく耐えた」
たったその一言で、ルティアーナの目から涙が溢れた。
驚くことに、零れ落ちるのは結晶ではなく、涙がそのまま流れるのみだった。
結晶はほとんど出ず、涙と混じって小さな結晶がほんの数粒だけ。
先日の大広間で零れ落ちた量とは比べものにならない。
レオナルドはそれを見て、小さく頷いた。
「安心できる時は、出ないのだな」
「……え?」
「今、君は安心しているのだろう。泣いているのに、宝石がほとんど出ない。
つまり、この結晶は苦しみの象徴だ。君が楽になれば、出なくなる」
ルティアーナは自分の頬に触れた。
濡れている。でも、結晶は出ていない。
「私は……」
「…利益より尊厳を取る」
レオナルドは静かに言った。
「それが私の国の方針だ。
君を泣かせて宝石を取るような真似は、我が国では許さない」
施設の入口が騒がしくなった。
足音が近づいてくる。
「何をしている!」
アルヴィンの声だった。彼が衛兵を引き連れて施設に入ってくる。
「レオナルド陛下、これはどういうことですか。我が国の施設に無断で——」
「無断ではない。視察の許可は得ている」
「それにしても、検査の最中に——」
「検査?」
レオナルドの声が冷えた。
「人を泣かせて宝石を絞り取る行為を、検査と呼ぶのか」
アルヴィンは一瞬たじろいだ。
だがすぐに体勢を立て直し、傲慢な笑みを浮かべる。
「彼女は我が国の民です。どう扱おうと、我が国の自由でしょう」
「ならば聞こう」
レオナルドはルティアーナを見た。
「君は、この国に残りたいか?」
「何を——」
アルヴィンの顔が強張る。
「彼女に聞いている」
レオナルドは遮った。
「私の国に来る気はあるか。そこでは誰も、君を泣かせようとはしない。
君の感情は君のものだ。結晶が出ようと出まいと、君の価値は変わらない」
ルティアーナは息を呑んだ。
選択肢が、与えられた。
これまでの人生で、誰も選ばせてくれなかった。
父が決めた婚約、母が望んだ振る舞い、周囲が求める役割。
全てを受け入れて、自分を殺してきた。
今、この男は「選べ」と言っている。
「馬鹿なことを言うな!」
アルヴィンが割って入る。
「彼女は我が国の宝だ。渡すわけには——」
「宝?」レオナルドは冷笑した。
「三日前まで婚約を破棄しようとしていた相手を、宝と呼ぶのか?」
「あ、あれは、事情が変わったのだ!」
「変わったのは、彼女の価値だけだろう?」
レオナルドはルティアーナに手を差し出した。
「答えはすぐでなくていい。だが、覚えておけ。
私の国では、君は泣く道具ではない。一人の人間だ」
その手を、見つめた。
宝石を欲しがる手ではなかった。利益を求める手でもなかった。
ただ、彼女自身を、ルティアーナという一人の人間を、迎え入れようとしている手だった。
「……はい」
声が震えた。
でも今度は、恐怖ではない。
「私は、レオナルド陛下の国へ参ります」
それは、嬉しさと自由への期待からだった。
それから一ヶ月が経った。
ルティアーナはヴェルシード王国の王宮にいた。
与えられた部屋は広く、窓からは美しい庭園が見渡せる。
もちろん、格子はない。扉に衛兵もいない。
彼女は自由だった。
「本日のご予定は、午後に王との茶会がございます」
侍女のエマが、穏やかに告げる。
この一ヶ月、彼女は一度もルティアーナに「泣け」とは言わなかった。
彼女の周りの人間は彼女の出す結晶の話に一切触れず、ただ優しく接してくれるだけだった。
「分かりました」
「あとは特に。ご自由にお過ごしください」
自由。
その言葉の意味を、ルティアーナは噛み締めていた。
前の国では、常に誰かに見張られていた。
感情を管理され、結晶を待たれ、価値を測られていた。
でもここでは違う。誰も彼女の涙を欲しがらない。
午後、庭園の東屋でレオナルドと向かい合った。
テーブルには紅茶と菓子。穏やかな午後の日差し。
それはどこにでもある茶会の風景だった。
だがルティアーナにとって、これは特別な時間だった。
「慣れたか」
「はい。皆様、親切にしてくださいます」
「そうか」
レオナルドはそれ以上、何も聞かなかった。
結晶のことも、体質のことも。彼は一度も、それについて触れなかった。
「陛下」
「何だ」
「なぜ、私を助けてくださったのですか」
それは、ずっと聞きたかったことだった。
レオナルドは紅茶のカップを置いた。
「理由が必要か」
「必要です」
ルティアーナは言った。
「私には、宝石以外の価値がありません。陛下にとって、私を助ける利益は…」
「ない」
即答だった。
「正確に言えば、経済的な利益はない。
君の結晶を利用するつもりがないのだから」
「では、なぜ」
「君が人だったからだ」
ルティアーナは瞬きをした。
「あの検査施設で、君は泣いていた。
泣かされていた。それは間違っていた…ただそれだけだ」
「それだけ……」
「利益がなければ助けない、という考え方もある。
だが私はそうは思わない。人の尊厳を踏みにじって得た富など、いずれ崩れる」
レオナルドは窓の外を見た。
「君の元婚約者は、今頃必死に代わりを探しているだろう。
泣かせれば富が出る体質の人間を」
「……見つかるでしょうか」
「見つからないだろう」レオナルドは断言した。
「君のような体質は、おそらく世界に一人だ。
だが仮に見つかったとしても、同じ結果になる」
「同じ結果?」
「人を泣かせて富を得ようとする国は、いずれ滅びる。
民は疑心暗鬼になり、誰もが誰かを泣かせようとする。そんな国に未来はない」
ルティアーナは黙って聞いていた。
この一月で、いくつかの報告が届いていた。
元いた国で、貴族たちが「感情結晶体質」の人間を探し回っていること。
見つからず、互いに疑い合い、混乱が広がっていること。
「私のせいでしょうか」
「違う、君のせいではない。君はただ感情のままに泣いただけだ。
それを利用しようとした連中の愚かさが、彼らを滅ぼすのだ」
ルティアーナは俯いた。
「私は……まだ、自分の価値が分かりません」
「価値?」
「宝石が出なくなったら、私には何も残らないのではないかと」
レオナルドは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「こちらへ来い」
言われるままに、ルティアーナは彼の隣に立った。
窓の外には、広大な庭園が広がっている。
「何が見える」
「綺麗な花壇と、噴水と……人々が」
「そうだ。人々だ」レオナルドは言った。
「あの庭師、あの侍女、あの衛兵。
彼らの中で、宝石を生み出せる者はいない。では彼らに価値はないのか?」
「……いいえ」
「では君も同じだ」
ルティアーナはレオナルドの横顔を見た。
「君の価値は、宝石とは関係ない。
君が何を感じ、何を考え、どう生きるか。それが君の価値だ」
「私が何を感じるか……」
「そうだ。そして私は、君の感情を奪うつもりはない。
君が泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑えばいい。それだけだ」
ルティアーナの目から、涙が一筋流れた。
だが、一粒も結晶は出なかった。
レオナルドはそれを見て、小さく微笑んだ。
「ほら。安心している時は、出ないのだ」
「はい」
ルティアーナも微笑んだ。生まれて初めて、心から泣きながら、心から笑った。
それから三年が経った。
ルティアーナはヴェルシード王国の王妃となっていた。
政略でも、宝石のためでもない。
レオナルドが彼女を一人の人間として見続けた結果、二人の間に自然と芽生えた感情だった。
「陛下」
「その呼び方はやめろ」
「では、レオナルド様」
「まだ硬い」
「……レオナルド」
「よし」
彼は変わらなかった。最初に出会った時から、今日まで。
彼女の宝石を欲しがることは一度もなく、彼女の感情を操ろうとすることも一度もなかった。
ルティアーナはもう、ほとんど泣かなくなっていた。
泣く必要がなかったのだ。
もちろん感情はある。
嬉しい時、悲しい時、腹立たしい時…。
だが、それを抑え込む必要がなくなった。
表現しても、誰も彼女を利用しようとしない。
だから感情は自然に流れ、結晶として固まることはほとんどなかった。
時折、小さな結晶が出ることはある。
それは感動した時、深く悲しんだ時。
だがそれは以前のように大量ではなく、ほんの数粒だけだった。
「調査の報告書が届いたぞ」
レオナルドが書類を手に、執務室に入ってきた。
「どこからですか」
「君の故国から」
ルティアーナはそれを聞くと眉をひそめた。
三年前に去った国。婚約破棄と、屈辱と、そして発見の場所。
「読むか」
「……はい」
報告書には、衰退の記録が綴られていた。
アルヴィンはあの後も「感情結晶体質」の人間を探し続けていた。
結果としては見つからず、焦った彼は、国民に「感情検査」を義務付けた。
その検査では国民達を泣かせ、怒らせ、悲しませて、結晶が出るかどうかを調べるものだった。
結果、国民は感情を隠すようになり、誰もが誰かに利用されることを恐れ、感情を表に出さなくなった。
そして活気は失われ、経済は停滞し、人々は疑心暗鬼に陥り、今は以前のような国ではなく、統制がなく荒れ狂った国になっている。
「泣かせれば富が出る」
その誤った信念が、国を内側から蝕んでいった。
「愚かな」
レオナルドは溜息をついた。
「結局、君一人の結晶に頼ろうとした代償だ」
「私のせいでしょうか」
「何度も言ったが、君のせいではない」
「ありがとうございます、分かっています」
ルティアーナは微笑んだ。
「でも、時々思うのです。
私があの場で泣かなければ、何も変わらなかったのではないかと」
「変わらなかっただろうな」
レオナルドは認めた。
「だが、君が泣いたことは間違いではない。
君の感情は君のものだ。それを恥じる必要はない」
ルティアーナはふと窓の外を見た。
ヴェルシードの空は青く、雲は白かった。
三年前、灰色の空の下で泣いていた自分が、嘘のようだ。
「レオナルド様」
「何だ」
「私は今、とっても幸せです」
「そうか」
「もう、誰かに泣かされることはありません」
「ああ」
「涙も、結晶も、出ていません」
レオナルドは彼女の隣に立った。
「それでいい」
「はい、これはレオナルド様のおかげです」
ルティアーナは彼の手を取った。
窓から差し込む光の中で、二人は静かに立っていた。
宝石はなかった。涙もなかった。
ただ、穏やかな幸福だけがあった。
それは、どんな最高純度の結晶よりも、価値のあるものだった。
【完】




