第7章 ラ・ビブリオテーク・デュ・ヴァン
クリスマスの日、彼からメッセージが届いた。
約束を果たしてくれたのだ。
「今年読んだ中で、もっとも深く心を揺さぶられたのは、折口信夫の『死者の書』でした」
魂が震えるとは、こういうことを言うのだろう。
私は、少し前に、當麻寺の境内で開催された、映画の上映会に参加していた。
「死者の書」を川本喜八郎さんが人形劇の手法で映画化したものを、鑑賞していたのだ。私の好きな万葉集の時代の世界観が、この上もなく美しく表現されていた。
中将姫の痛々しいまでの純粋さ、無垢さ、大津皇子への愛しい想いに、言葉にならない共鳴を感じたのだった。
そして私は、早期退職を決意した。
背中を押してくれる、この風に乗って、夢を叶えることにしたのだ。
きっと私は大丈夫だ。
頭の片隅で、ずっと考えていた夢、それは、小さなブックカフェを開くこと。
本のもつ力に、心を寄せる場所に。
本を通して人と人が優しく繋がる場所に。
本が風のように、誰かの背中を、優しく後押しする場所に。
この決意をこめて、私は彼にメッセージを送った。
「私の今年一番良かった本は、児島青さんの『本なら売るほど』です」
今年のベストセラー漫画、本と人生をめぐる物語。きっと彼も知っているだろう。
本が好きな主人公に、彼の姿が少し重なった。
半年がかりで、誰も住まなくなった実家の一部を改装した。
カフェの名前は、「ラ・ビブリオテーク・デュ・ヴァン」
フランス語で風の図書室だ。
オープンの日の朝、千佳が多肉植物を抱えてやってきてくれた。
「これ、この店に似合うと思って」と言いながら、窓辺にその鉢を置いた。
「こういう夢の実現って、普通なかなかみられないじゃん。これは感動せずにはいられないでしょ」
千佳はそういって、手提げかばんからエプロンを取り出した。
そこへ花屋の青年がやってきた。
「開店のお祝いです」
上品な淡い色合いのセンスのいいアレンジメント。
送り主は彼だった。
「なぜ?」と驚いていると、
肩越しに覗き込んだ千佳が尋ねてきた。
「もしかして、この店のオープンのこと、彼に伝えてないの?」
私は小さく頷く。
「やっぱりね。そうだと思った」
「だから私が伝えたの。開店祝いのお花をよろしくって。きっと遠慮して自分では伝えないだろうと思って」
それほど宣伝をしなかったけれど、千佳があちこちに声をかけてくれていたようで、入れ替わり、お客さんがやってきてくれた。
誰もが、とても好意的で、ゆっくりコーヒーを飲みながら、静かに本を読める空間を楽しんでくれた。
日が暮れて、お客さんは千佳だけになった。結局、朝からずっと、手伝ってくれた。
閉店の片づけをし始めたところに、郵便局のレターパックが届いた。
受け取ると、少し重さのあるそれは、本のようだった。
「あっ、届いたんだね」
千佳は中身が何かを知っているようだった。私が怪訝な顔をしていると、
「きっと、彼の新しい歌集だよ。もうすぐ上がるって言ってたから。今頃、きっと彼の部屋、段ボール箱だらけだよ」
「歌集って、彼、歌人だったの?」
「何、知らなかったの? 彼、大学時代から、ずっとサラリーマンやりながら短歌もやって、何冊か歌集も出してるよ」
「…知らなかった。そうだったんだ」
「お互いに肝心なことは伝えないんだから。まぁ、あなたたちらしいけど」
呆れたような千佳の声を聞きながら、本を取り出す。
春を思わせるやわらかな萌黄色の装丁に「虹待日和」の文字が。
「彼も最近退職して、歌人一本でやっていくことにしたんだって。この新作の歌集は、新しい歌人としての決意のこもった一冊だって言ってた」
千佳の言葉が耳に入ってこなかった。
『虹を待つ』──これは、あの夏の日に、私が、初めて自分の心の奥を言葉にした、あの短歌だ。
オープン初日を何とか乗り切った夜、私は、そっと彼の歌集を開いた。
文庫本読む君の頬光さすただただ見ていた春の教室
あの人と同じ言葉に浸りたく好きな作家をそっと伺う
新刊を並んで手に取る偶然を装う胸のビートが弾けた
春の風図書室の窓舞うサクラ頁にふわりハートの栞
あの頃の私たちの風景が、鮮やかに蘇る。あたたかな思いとともに。
40年の時を超えて。私たちの道が奇跡のように交わって。まるで40年ぶりの答え合わせのように。
あとかぎのページにも、2首の短歌があった。
あの同窓会の授業で再会した彼の歌
蝉の声図書室の窓風光る消しゴム拾う君の横顔
そしてもう一首。この歌集のタイトルとなる歌だ。
放課後の昇降口の雨あがる君と見る虹吹き抜ける風
この2首の歌について、彼が短い解説を寄せていた。
「この2首は、僕が高校生の時に詠んだものです。生まれて初めての短歌といえるもの。この2首が、僕を短歌の道へと誘ってくれました。この2首を読むきっかけを与えてくれた出会いに感謝を込めて」
図書室で消しゴムを拾ったのは私だったのだ。
彼も、夏休みの宿題の雨宿りの短歌が、私のものだと気付いていたのだ。
彼の歌人としての活躍に、ほんの一片でも触れることができた。
それだけで、胸がじんわりと温かくなった。
彼との同窓会での再会は、私のブックカフェのオープンの後押をしてくれた。
人生を変える瞬間の風。その風を運んできてくれる本。
私は、この歌集の感想を、メッセージではなく、彼に会って直接伝えようと心に決めた。
この交わった道のその先が、どこへ繋がっているのかを確かめるために。
そして、その先に、架かる虹をみるために。