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第4章 風の再会

高校を卒業後、大学入学直後に参加した短歌のサークルで、僕は年上の女性と出会った。

僕の短歌を褒めてくれたのがきっかけで、すぐに仲良くなって、付き合うようになった。


お互いの短歌を講評しあったり、感想を伝えあったり、一緒に短歌会に参加したり、短歌の雑誌の新人賞に応募したり。


いつも、自信に満ちていて、自分の意見をはっきりと述べる女性で、少し押し切られるような形で、卒業と同時に結婚をした。


僕は、コンピュータ会社に就職をして、システムエンジニアとして働き始めた。


妻は、カルチャーセンターの短歌の講師をしたり、短歌会を主宰したり、短歌の世界と関わり続けていた。


僕の方はというと、当時、黎明期のシステム業界は人手不足で、いつも納期に追われていた。

残業して深夜に帰宅し、最後は徹夜をして、何とか納品まで漕ぎつけると、お祝いと称して飲み会へ繰り出していた。

毎日がお祭り騒ぎのような高揚感の中で、仕事と飲み会に明け暮れていた。短歌のことはすっかり忘れて。


各種手当や何やかやで、収入は良かったから、妻の望み通り郊外に一軒家を買い、僕は、何不自由なく生活をしていると思い込んでいた。


高校卒業から10年目の同窓会の日、家を出る玄関先で、僕は妻に告げた。


「今日は高校の同窓会だから、遅くなるよ」


「今日も遅くなるのね。私は実家に行ってきます」


妻がそう言ったとき、僕は物分かりのいい夫を演じた。


「ゆっくりしてくるといいよ。こちらのことは気にせず、久しぶりに1泊してきたら?」


あれが、妻との最後の会話だった。

それきり、妻は戻ってこなかった。貯金通帳とともに、僕のもとから去っていった。


その後、元妻は年上の歌人と再婚をしたと風の便りで聞いた。


当時、ローンで購入した自宅を売却しても、手元には何も残らなかった。

僕はすべての財産を失い、余計に仕事にのめりこんだ。残業と納期と飲み会と、そこに接待ゴルフが加わった。


そして、あっという間に20年目の同窓会がめぐってきたけれど、参加することはできなかった。


僕は入院していたのだ。


飲み会の帰り、駅のホームで転倒し、腰を骨折したのだ。

救急車で病院に運ばれ、即入院を告げられた。

それまでの不摂生もあり、結局2か月入院することになった。


翌朝、会社へと急な休職の謝罪と、何かあればすぐにメールをしてくれるようにと、連絡をした。


点滴につながれたまま、ベッドの中で悶々とした時間を過ごした。

仕事のことが気になり、やりかけのプロジェクトのこと、ちょっと癖のあるクライアントとの交渉のこと、提出期限の迫っている企画のこと…思いついてはメールを送り続けた。


最初は、「ご連絡ありがとうございます。わかりました。こちらで対応しますので、どうぞ心配せず、療養に専念なさってください」と丁寧な返信が届いていたが、2通目、3通目と、返信はだんだん短くなり、「承知しました」「対応済です」の一言になって、最後はスタンプだけになった。


そして「何かあればこちらから連絡します」という返信に、ようやく僕がいなくても会社は何も困っていないのだということに気付いた。


誰にも必要とされていない──この強烈な虚無感と孤独感に、僕は打ちのめされた。


そして、僕は気付いてしまった。

虚無感と孤独感は、ずっと胸の奥にあったのだということに。


これまで、激務とアルコールで誤魔化して、見ないふりをしてきたのだということに。


気が付けば、僕は泣いていた。

もう長い間、泣いたことがなかった。

そして、もう長い間、心から笑うこともなかった。


何のために仕事をしてきたのか? 


何のために生きてきたのか?


いくら考えても、答えが出なかった。

この答えの無い問いと向き合うことから逃げるように、スイッチを入れた早朝のテレビ。


それが、一つの天啓だったのかもしれない。


ちょうどその時、放送されていた番組が短歌教室だった。



放課後の渡り廊下に吹く風よ篤と届けよ未来の君に


読み上げられる短歌の、五七五七七の日本語の響きとリズムに、鳥肌が立ち、胸が震えた。


探していたものはこれだった。


その番組のテキストを取り寄せ、何度も繰り返し、むさぼるように読んだ。

そして、一首ずつ、再び短歌を詠み始めた。



胸の奥さび付いた音こだまする僕は僕の影をうしなう


一首、詠むたびに、探していたものを見つけたような気がした。



駆り立てる高く高くと歯車のぎしりぎしりと鳴き声をあげ

  

一首、詠むたびに、これまでの人生を、癒すことができるような気がした。



折れたネジたたいてのばしてひっぱってもう戻せないあの日の僕に


探し物を見つけるたびに、すこし前に進めた。

癒すことで、傷ついていたことに気付けた。


2か月が経ち、退院して、職場に復帰をすることができた。


それを機に、打診された異動に同意した。

納期に追われることもなく、残業や休日出勤のない部署へ。


そして、短歌は僕の生活の一部となった。

短歌教室や短歌会に参加し、サラリーマンとしての日常の中で感じたことを歌にする。


短歌に再び出会ってから10年。

投稿した短歌が入選したり、賞をもらったりするようになり、サラリーマンの傍らで、小さな短歌会や、短歌教室を開くようになった。



取り替えたネジがこぼれてころがってどこまでもゆけ君に幸あれ


30年目の同窓会に参加しようと思ったのは、押し入れを整理していた時に、懐かしい学生時代の短歌ノートを見つけたからだ。

最初のページに書かれた、僕が生まれて初めて詠んだ歌。



蝉の声図書室の窓風光る消しゴム拾う君の横顔


彼女はどうしているのだろう?元気にしているのだろうか?


彼女に会えるかもしれない。

だから、僕は30年目の同窓会に参加することにしたのだ。


その日、結局、彼女は来なかった。がっかりしたような、それでよかったような、中途半端な気持ちを持て余して、ぼーっとしていたせいだろう。


気が付けば、40年目の同窓会の幹事に任命されていた。10年間、連絡を取り合いながら、準備を進めるらしい。

この時、僕の40年目の同窓会への参加が確定したのだった。


卒業から39年目の秋風の吹くころ、始まった同窓会の準備。

年末には、幹事が集まって、案内状の発送作業を行った。印刷された案内状を宛名の印刷された封筒に封入する。


有志による寄付のおかげで、今回も案内状を印刷発送することができるという。

おそらく10年後は無いだろう。費用の問題もあるけれど、そもそも郵便という制度の存続が怪しい。


そして、沢山の封筒の中に、彼女の名前を見つけた。旧姓だったから、すぐに分かった。


誰にも動揺を気づかれないように、でも彼女の幸せを祈りながら案内状を入れ、封をした。



あまた降る星に届けよ我が願いいま一度だけ君にまたなむ


同窓会当日の朝、幹事は早めに集合して、準備作業にあたる。

幹事ではないけれど、手伝いを申し出てくれる出席者のおかげで、スムーズに準備が進んだ。


手持無沙汰になって、そっと持ち場を離れた。後片付けや食事会場への誘導もあるから、チャンスは今しかない。


どうしても、もう一度行きたい場所があったのだ。

あの歌に詠んだ図書室だ。幸い扉の鍵は開いていた。

風が光るのを見たあの窓から、校門の坂道を眺める。


ちょうど彼女が、坂道を上ってくるのが見えた。

そこだけに当たるスポットライトのような光の中を、近づいてくる彼女の姿に、懐かしさと、嬉しさと、そしてほんの少しの緊張とが、胸をざわめかせる。


僕の耳に、あの夏の日の、蝉の声がよみがえる。  



同窓会花びらの舞う坂道の制服の君幻をみた


短歌と出会い直してから、ずっと、心に決めてきたことがある。

次に彼女にあったときに、背筋を伸ばしていられるように、短歌と誠実に向き合い、丁寧に人生を歌にしようと。



地下鉄の人波の中かの人の面影をみて背筋を伸ばす


あの頃、いつもこの図書室で、僕が彼女の横顔を見ていたことを、彼女はきっと知らない。


彼女の前に立ったとき、僕は背筋を伸ばしていられるだろうか?

そんなことを考えていた時、彼女が、ふと顔を上げて、こちらを見たような気がした。



冬の窓あけの明星白々と宇宙の孤独君は抱きしめ


人生の中で、彼女は、言葉や孤独と、どのように向き合ってきたのだろうか?


同窓会の模擬授業は、幹事だから参加できなかったけれど、大いに盛り上がったようだった。


次は、食事会場のホテルへの誘導だ。皆と一緒に正面玄関から校門へ、坂道を下る。


そのときふと視線を感じて、図書室の窓を見上げた。あの人影は彼女に違いない。今度は目があったような気がした。


食事会場へ到着して、先生方の車を誘導したり、控室に案内したり、担当業務をこなして、決められていた席に向かう。


なんと彼女の隣だった。準備の段階では、僕は幹事席のはずだったけれど。なぜか席が変更されていた。

急いで彼女の隣に、さりげなさを装って座った。

うつむいている彼女に声をかける。「久しぶり」

驚いた様子の彼女と目が合う。

その驚きように、なぜかいたずらが成功したような気分になって、思わず笑みがこぼれた。


「受付の時、図書室にいたよね?」彼女の声に、心臓が跳ねる。


「君もさっきいたよね?」


彼女が微笑む。

確かに、今度こそ、僕たちの視線は交わったのだ。


それから僕たちは、ポツリポツリと、本について言葉を交わした。

お互いに近況や自分のことは何も話題にせず、ただ本についてだけを語る。

でも、それだけで全てが通じ合うような気がした。


「これまでの人生で、一番良かった本ってある?」

ふいに彼女が聞いてきた。


彼女らしいこの問いに、思わず頬が緩む。


一番良かった一冊の本。

僕はしばらく考えた。そして告げた。


「村田エフェンディ滞土録」


「私も、梨木香歩さん好き」


彼女のその言葉に、僕は知らずに入っていた肩の力を抜いた。


一番良かった一冊の本を差し出すことは、これまでの自分の生き方を提示しているようだった。

彼女の一言で、自分の生き方をそっと肯定されたような気がして、知らずに背筋がまっすぐ伸びた。

今日、再び出会えてよかった。

  


くらくらとあふれる言葉星降る夜夢見る君と歩く坂道


胸に広がる再会の温かな余韻の中で、同窓会は静かに幕を閉じた。

そして、もう会うことはないと思っていた。

否、僕はそう思い込もうとしていた


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