第3章 風の記憶
同窓会の第二部の食事会は、駅前のホテルが会場だった。
第一部の模擬授業が終わり、みんなが連れ立ってホテルへ向かう中、私はその人波から離れて、一人そっと校舎へと戻った。
来年には老朽化で取り壊されると聞いて、どうしても、もう一度、あの図書室の窓辺から、坂道の景色を見たかったのだ。
人気のない廊下をゆっくりと歩き、あの懐かしい図書室へと向かった。
窓際の「私の指定席」に座って、あの頃と同じように坂道を見下ろす。
その坂道を下るスーツ姿の同級生たちの中に、私は彼の背中を見つけた。
あの頃、見慣れていたはずの彼の背中が、少し遠く感じられた。
ふと彼が立ち止まって、振り返り、こちらを見上げた。
目が合った──そんな気がして、胸の奥がふっと熱くなった。
食事会場へ到着すると、席次表を渡された。円形のテーブルに、着席するスタイルだ。
指定された席に座った途端、40年前の記憶が一気に思い出されて、しばらくぼーっとしていた。
その時、隣の席に誰かが座った。
彼だった。まさかと思った。40年前の記憶の波に飲み込まれたかのように、私はうまく言葉が出なかった。
目が合った彼にぎこちなく会釈をする。
彼は静かに「久しぶり」と微笑みかけてくれた。
私は大きく息を吐いて、
「受付の時、図書室にいたよね?」と何でもないことのように問いかけた。
「うん。君が来るのが見えた...君もさっきいたよね?」
「うん。あなたが帰っていくのを見てた...風が光ってた」
彼は驚いたように一瞬とまった。そして、ふっと目を細めた。
「気付いてたんだ。僕が生まれて始めて詠んだ短歌」
少し照れくさそうに、彼が笑った。
心に温かな風が吹いたようだった。
ふと思いついて、私は彼に聞いてみた。
「これまでの人生で、一番良かった本ってある?」
彼は少し考えてから
「一番良かった本を1冊かぁ…それは難しいなぁ」と、ポケットからスマホを取り出した。
しばらく黙ってスマホを操作したのち、「これかな」とこちらに画面を差し出してくれた。
「村田エフェンディ滞土録」
「いい本だよね。私も梨木香歩さん好き」
「いいよね。梨木香歩」
たったそれだけのやりとりだった。
でも私は、その本のタイトルひとつで、彼がどんな時間を過ごしてきたのか、なぜだか分かる気がした。
彼は、きっといい人生を歩んできたのだと思った。
そんな彼を素直に尊敬し、喜べている自分が、ちょっと嬉しかった。
たったそれだけの言葉のやりとりで、私のこれまでの人生の時間が、全て報われたような気がした。