終.
翌朝、わたしは大学からの呼び出しがあり、論文も八割方できあがったので帰るということにした。
「寂しくなるわねえ。京子ちゃんも天狗にさらわれるし」春代さんが言った。結婚生活を天狗によって断絶された女性。彼女の様子を見ていると、すぐそばに秋次さんがいるように思えてくる。
三郎くんは固くわたしの手を握り、ぜひ、また来てほしいと言った。この青年の両肩に樫原家がのしかかると思うと、切なくなった。わたしは二度とこの町には来ることができないだろう。
わたしはふたりが大森の叔父さんと呼ぶ人物に最寄りの鉄道駅まで送ってもらうことになった。荷物の入ったカバンをトランクに積んでもらい、自動車が走り出すと、わたしは手を振るふたりの姿を樹木の連なりで見えなくなるまで見守った。
峠道に入ると、大森の叔父さんは噂が好きな人だったので、少し話に水を向けた。すると、天狗が人を連れていく頻度がここ最近多かったことや〈鼓屋〉に泊っていた観光客が早朝に、焼け跡の枯れ水路に倒れてなくなっていたことなどを他愛のない噂話として口にした。
「この娘の望むことは分かるか?」天狗が言った。天狗の体は濡れたような羽根に包まれていて、黒い海のなかから浮かび上がるようにわたしとうり二つの顔があった。「永遠だ」
わたしは彼女を見た。風邪にかかったような熱っぽい、顔をしていた。
「それがあなたの望みですか?」
樫原京子はうなずいた。
姉夫妻がいて、弟がいて。
この世界で生きるには彼女は賢すぎた。純粋過ぎた。
だから、姉を裏切る義兄とその愛人を許せなかった。
彼女の永遠への侵犯と見なされた。
「わたしは異物だ」
「そんなことはありません。わたしはあなたを見て、ひと目で分かりました。あなたは永遠を司る人だと」
「それが具体的にどういうことか分かっているんですか?」
「はい」
天狗が彼女を下ろした。わたしは指で彼女の顎を少し上向かせた。瞳の潤みのなかに白いわたしの顔があった。まるで、夢のようだった。口づけると、わたしはあの針を全て、彼女の首へ刺しこんだ。重ねた唇の小さな震えを感じ、息の透き通るのを感じた。
これがわたしが彼女になせる永遠、たったこれだけの永遠だった。
了