七.
わたしはその晩も悪夢を見た。
ここしばらく毎日見ているが、ついにそのときが来た。
ひたすら逃げたわたしの肩を、女がつかむ。
だが、目覚める気配はなかった。肩に爪が食い込むくらい強く握られたわたしは後ろへ引っぱられ、女の顔にぶつかるぐらいの近さで対面した。
女の顔はわたしの顔だった。
そこで目覚めた。
これまでで一番最悪の夢感が体に残っていた。肩がひりつき、寒気を伴うような汗だくで、目には笑みで歪んでいくわたしの顔の影が残っている。
井戸で水を浴びることにした。これまでも何度か浴びている。ハルヨさんやカシハラ・キョウコは何か病原菌がいるかもしれないと心配していたが、わたしはすこぶる元気だ。
草深いのは相変わらずで、井戸も板で塞がれている。水を汲むための水桶が見つからない。わたしは使った後はすぐ見つかるように井戸の脇に置いている。
草の深いなかに転がったのかもしれないと思って、ほっそりとした葉肉をかき分けると、何かが小さく輝いた。
爪だった。マニキュアを塗った艶のある爪が人の指についているときの姿で転がっていた。爪のもとには黒ずんだ血がこびりついていた。
井戸を見た。板で封じられているが、釘やネジで止められているわけではない。だが、わたしにはそれを覗き込む気にはなれなかった。
シャツとズボンに着替えて、早朝を歩くことにした。行きたいのは焼けた町だった。鉛色の雲に閉じられた空はひどく暗い。その暗さにもかかわらず、爪を見つけてしまったところに、わたしは自分の命運が極まりつつあるのを感じた。井戸の底から空を眺めると、もうひとりのわたしがいて、彼(彼女?)が蓋を閉じていく。いや、逆かもしれない。わたしがわたしを閉じ込めるのかもしれない。
海風に強い潮を感じる。この調子だと、雲の蓋はちらかされ、午後には陽を見るかもしれなかった。ただ、それを話す相手がいなかった。午前五時は漁師がうろつくには遅すぎて、それ以外の住民がうろつくには早すぎた。
青銅の丸屋根がお椀のように傾いた廃墟のそばを歩くと、ひとり、宿屋の号を染め抜いた浴衣の男がふらふらと歩いているのが見えた。戦時中は運がよかったのか、焼け跡を初めて見るように珍し気に見物をしていた。わたしは軽く会釈した。
「ここの住民ですか?」浴衣の男がたずねた。
「いえ。遠縁で少しのあいだ、身を寄せているだけです」
「ここは不思議な町ですねえ」
「焼け跡がですか?」
「昼は大勢が出歩いていて、賑わいすら感じてしまうのに、朝の早くに来ると、ちゃんと廃墟らしく静かになっています」
「夜に出歩く気にはなれませんね」
「同感です」
男の浴衣の懐が少し崩れ、屋号が歪んでいた。
いまのわたしは自分に期待されている自分になれていないのは分かっていた。
「あなたはどちらへ?」わたしはたずねた。
「旅館に戻ります。あなたは?」
「公園のほうへ行ってみようかと」
「そうですか。では」
すれ違い、一歩足を踏み出したところで、振り返りざまに砂と煤の混じったものを相手の顔へ蹴り上げた。
男が、ウ、とうめき、消音器付きの拳銃を握った手が顔の前に上がった。
わたしはがら空きになった腹に頭から突っ込んだ。男の胸から息が全部吹き出たようなえづきがきこえ、温い肺気を背中に感じた。
わたしと男はそのままもつれあって、水の枯れた通路に落ちた。男が下でわたしが上だった。左腕で男の頭をしっかり抱え、右手はベルトの金具から針を引き抜いていた。男の、日焼けした黒い肌と襟に隠れた白い肌の、境界に刺した。男は一瞬、震えた。さらに一寸刺した。男の目が返って、白目を剥き、開いた口から弱い笛のような音がきこえた。その音が弱まっていき、完全に絶えたとき、わたしは針を抜いた。
針には血の一滴もついていなかった。それをベルトの金具裏にしまうと、立ち上がり、男の浴衣を調べた。何も持っていなかった。拳銃は道のほうに落ちていた。ハンカチをかぶせてから、それを拾い、焼け跡の、出口を塞ぐ瓦礫の隙間から地下室へ銃を投げた。
屋敷に戻ると、渡り廊下でカシハラ・キョウコと出会った。いろいろなことを話したが、あまり記憶にない。天狗のこと。アキツグさんのこと。また天狗のこと。上の人間がわたしの死を望むいま、この少女を殺す理由が、職業殺人者としてのプライドしかないことに気がついた。
わたしは彼女に、アキツグさんが天狗にさらわれた直後、体調が悪いようだったが、もう大丈夫なのかたずねた。彼女は一瞬言葉に詰まったが、もう平気だといわれた。井戸の近くで見つけた爪のことは言わないでおいた。
離れに戻り、自分のプライドについて考えてみた。以前はあった気がしたが、いまではもう、そんなものがあったというのは錯覚だった気がした。そして、はっきりと分かった。わたしとカシハラ・キョウコを繋げていたものが、殺し殺される事実だということを。そして、わたしはいま、カシハラ・キョウコがわたしと同じ側にいることを悟った。殺す側の人間たち。それに気づくと、樫原京子が愛おしくてならなくなった。突然湧いた好意というよりは、今まで、ずっとそこにあったのに気づかず、たったいま気づいた、感情だった。
離れを出た。煮炊きの甘いにおいがした。渡り廊下を走って、いま、屋敷が自分を導こうとしていると信じて、足を速め、そして、あの木のドアの前についた。ドアは開いていた。
「失礼します」
それだけ言って、ノックをせずに部屋に入った。
日光を嫌うらしい洋間、先代から譲り受けた革表紙の本たち。
シンプルな、病院風のベッドの横に、樫原京子を抱いて立つ天狗がいた。