六.
針がなくなった。
就寝前、確かにベルトの金具の裏に差してあった。
それが翌朝、調べたらなくなっていた。
誰かがこの離れに入ってきて、わたししか知らないであろう隠し場所から針を抜いた。
わたしはそれを知らずに眠っていた。
いや、追いかけられていた。
最近、あの夢を見る頻度が増えた。
それだけではない。少しずつ、目覚めるのが遅れている。
女に肩をつかまれて、すぐに目覚めていたのが、わたしを振り向かせようと腕を引くところまで続くようになった。
だが、それよりも針を誰が盗んだかだ。あれが人を殺すための用途と知っているのだろうか。
そもそも、今回の任務内容が漏れた可能性は?
誰がやったのか、誰が知っているのか、誰が知らないのか。
消えた連絡役との関連は? そもそも本当に天狗にさらわれたのか? そう見せかけて、わたしの任務遂行を邪魔している可能性は? 彼女なら、それもあり得る。
とにかく、面倒なことになった。
疑心暗鬼に陥らず、いまの自分に期待されている姿をすることだ。それでも朝食の席では全員が犯人に見えた。アキツグさん、ハルヨさん、サブロウくん、そして、カシハラ・キョウコ——。
だが、謎も疑心暗鬼も、そこまで深くならなかった。
離れに戻ると、書置きがあった。
『当方、貴方の針を所有す。返却を望むなら、今日の夕刻、五月雨町の四丁目二番地、〈占い所 天狗の手の目〉へこれたし』
夕方、自転車は借りずに徒歩で〈天狗の手の目〉に向かった。染物屋や骨董を飾る店の集まったところに問題の家があった。洋風の花を多く植えた小さな前庭がある平屋で、わたしが戸を引こうとすると、向こうから勝手に開いた。
「来ると思っていました。こちらへ」
女はカンバラ・アキエと名乗り、占い師だと言った。
「天狗さまのお告げを人に教えて暮らしています」
女はマニキュアをした艶のある爪でわたしの針をつまんで、紫の天鵞絨を敷いたテーブルに置いた。
針を二本の指で挟んだ。
「こんなことをすれば、僕に殺される可能性は分かっているんだろうな?」
カンバラ・アキエは首をふった。
「天狗さまはそのようにはならないと言っています。それに確かにわたしは針をいま持っていましたが、とってこられたのは天狗さまご自身です。それにしても、本当に天狗さまとよく似ておられますね」
わたしはベルトの隠し場所に針を戻した。
「あなたの針を天狗さまに取っていただいたのは理由があります。あなただからこそできることです。樫原春代を殺してください」
そういうことか。考えていたよりもずっとはやく、相手が知れた。
「春代さんに恨みはありませんが、でも、こうしないと、秋次さんを独り占めにできないのです」
下劣だ。くだらない。人殺しの理由を知らないことの利点は、こうした低能な事情に触れなくて済むことだというのに。
「天狗さまは何と言っているんだ?」
皮肉のつもりでたずねた。
「特に何も。ただ、京子さんもひとりで黄泉路につくのは寂しいでしょう?」
とっとと殺してしまいたかったが、何をどこまで知っているのかを知る必要がある。正直な話、天狗さまのご託宣なんて信じていない。わたしの推測は上の人びと、わたしに人殺しをさせる人びとのなかで何かが起きているのではないかということだ。カンバラ・アキエがそこに関与している可能性がある。ハルヨの殺害をわたしに命じたときの冷酷さは、こんなことをすることが初めてではないのでは?と思わせた。
ただ、少女をひとり殺すだけの任務が嫌な脹らみ方をした。上のことなんて、これまで考えたこともなかった。必要がなかったから。
カンバラ・アキエを油断させるなら、ハルヨさんは殺してしまえばいい。ただ、肝心のカシハラ・キョウコが狙いにくくなる。姉妹が相次いで心不全で死ねば、怪しまれる。
ふと、ここに来る前に電気店のテレビジョンが映していたニュースを思い出した。恰幅のいい政治家がガラガラした声で演説をしていて、そこに学生服の男が突っ込んだ。わたしの目には男が腰でためて構えた短刀がハバキまで突き刺さったのが見えた。わたしは暗殺者をバカにした。神風のような、たった一度のための人殺し。いまはその単純さがうらやましい。
ハルヨさんを対象として考えて、話しかけてみた。アキツグさんがどこまで知っているかは知らないが、彼女を裏切ったことに変わりはない。この平和なカシハラ家は実際は薄い氷の上に転がっていて、その氷水のなかにはわたしがいる。氷が割れたとき、アキツグさんに救いの手を差し伸べるのがカンバラ・アキエだ。
薄汚い。わたしのこれまでの殺人にも同じような薄汚い打算があったのかと考えるだけでひどく嫌な気分になった。もう、ギリシャ語を見る気もなくなり、暑い風が鳴らす風鈴をききながら、畳に転がった。殺すべきはカシハラ・キョウコとカンバラ・アキエだ。ひとりは任務のために、ひとりは嫌悪のために。わたしはハルヨさんに好意を持っていることに気がついた。異性の好悪ではなく、観劇の判官贔屓に近いものがあるが、彼女の快活さに心地よさを感じているのは事実なのだ。
カンバラ・アキエと会ってから、わたしは特に何もしなかった。わたしはいまの自分に期待されている行動をとった。相変わらず悪夢は見るし、目を覚ますタイミングが遅くなっている。
日曜の三時ごろ、台所でいいにおいがしていたので、顔を出すと、アキツグさんが煮物をしていた。
「鯛皮の山椒昆布を煮てるんだ」
鍋は山椒の実が入っていて、あとは汁がなくなるまで煮詰めるだけだった。
「鯛と昆布というと締めるものだと思ってました」
あはは、とアキツグさんは笑い、
「これを食べたら、もうただの山椒昆布では満足できなくなるよ。旬を外れた夏の鯛を一番うまく食べるのがこの方法だからね」
サブロウくんが調理場の戸口に顔を出した。
「アキツグさん、鯛皮煮てる?」
「鼻が利くね。煮てるとも」
「やった! 敬さん、運がいいですよ。アキツグさんの鯛皮昆布は本当にうまいですから」
確かにうまかった。鯛皮にこんな利用法があるとはと驚かされた。アキツグさんの不実も忘れかけた。いや、こんなにうまい鯛皮山椒をつくれるなら、許されてもいいかもしれない。そう思った。
だから、夕食のとき、カシハラ・キョウコとハルヨさん、サブロウくんだけがやってきたとき、あのカンバラ・アキエが何か仕掛けてきたかと思った。
だが、違った。
アキツグさんは天狗にさらわれたのだ。
「あんなにおいしい鯛皮昆布を作れる人はそういないんだけどなあ」と、サブロウくんが言うと、ハルヨさんが、山椒昆布くらいわたしが作ってあげますと請け負った。
「アキツグさんはどこでさらわれたんですか?」
「つい今、さっき。京ちゃんが見てたのよ。ねえ、京ちゃん?」
カシハラ・キョウコはうなずいた。
「ちょっと、気分がよくないの。先に部屋に戻ってますね」
「ほんと? うん。分かった」
サブロウくんは育ち盛りの学生らしく、カシハラ・キョウコが残した分の煮つけをあっという間に平らげた。
「それにしても、ここも寂しくなるなあ」
「別に死んだりしたわけじゃないんだから」
「まあ、そうだけど」
前もってきいていたように、天狗に家族をさらわれたものたちには、この突発的な消失を深刻に受け取らない。実際にそれを目の当たりにすると、空恐ろしいものを感じる。人間が別の人間の消滅に対し、これほどまでに淡白になれるとは。
ふと、わたしはカンバラ・アキエのことが気になった。アキツグさんが消えたいま、彼女に命じられてハルヨさんを殺す必要はない。もし、上の人間が彼女の背後にいるのならば、状況変化に対する何らかの変化があるはずだ。
食事が終わった後、わたしはカンバラ・アキエの占い家を訪れた。
家のなかには誰もいなかった。