五.
食事と湯あみ以外は離れにて、参考書と希和辞典を開いた座机の前に座っていたので、翌日は夕暮れにまた自転車を借りた。
わたしは北の焼け跡のほうへペダルをこいだ。
焼け跡に行って意外だったのは、人をよく見かけたことだ。火に食われてがらんどうになった建物や炎熱で歪んだレールに傾く黒焦げの市電、柳の炭が沈んだ掘割の近くに物見遊山の客のように、南の町の人びとがぶらついていた。そして、指をさして、あそこには××があったとそれほど古くない昔を懐かしんでいたが、まるで価値のあるものは全て灰となり、自分たちの住む町には滓しか残っていないと不満でも言うようだった。
焼けた町の東の外れに公園の跡があった。樹木が焼けた跡に好き放題に草が生え、高い建物はないのに、緑に食われた道は薄暗かった。見上げると、天狗のいない夕空。真鯛の鱗雲が泳いでいて、東の山の向こうのどこともしれない土地へ細かい影を飛ばしていた。
一番草深い道を進むと、丈の高い雑草に四方を遮られたひし形の土地に物を煮る煙とひとり用のテントが見えた。連絡役はキャンバス地のシートに座って、スープを煮る火の面倒を見ていた。
「どうして、あなたがここにいるんですか?」
連絡役はまるでわたしの言葉よりもスープのほうが重要だと見せるために返事を出し渋った。
「時間がかかりすぎる」
「また、その話ですか?」
「何をためらっている?」
「ためらっている? 僕が? では、こちらもききますが、何をそんなにせっかちでいるんですか? 僕が仕留め損ねたことが一度でもありましたが? これは僕の仕事です。そちらの手は離れているんですから、口出しはしないでほしいですね」
「あの秋次という男、女がいるぞ」
「それが?」
「利用しろ」
わたしはうんざりした。これはわたしの流儀に対する冒涜だった。
「ピストルやナイフを使う連中なら、その情報は有用でしょう。ですが、僕は小さな針で仕留める。ぬぐったら永遠に消えてしまう、点みたいな血が出るだけです。痴情のもつれなんて、そんなものは僕には必要ありません」
「なら、はやくやれ。これからは毎日、ここに報告を入れに来い」
「そんな頻度の焼け跡への外出はいまの自分に期待されている行動じゃありません」
連絡役はそれにはこたえず、ブリキの皿にスープを注いだ。ニンジンと鶏を赤ワインと香辛料でこさえたスープがうまそうだったことは認めよう。連絡役としてはまったく役に立たないが、スープはいいものをつくる。そして、彼女は少し味見しろとは言わない。
くたばっちまえばいいのに、と気分がくさくさして、屋敷に戻った。
それでも、カシハラ家の面々と食事をするとき、わたしはアキツグさんをこれまでとは違う目で見ていることに気づいた。相変わらず快活な彼に秘密があり、それは現状を全てお釈迦にしかねない。
もっと突っ込んで調べるなら、この屋敷には女中がいるのだし、噂話の盗み聞きすることもできる。ただ、それをすると、まるで連絡役のやり方を自分に取り込んだみたいで腹に据えかねた。結局、アキツグさんが愛人を囲おうが囲むまいが、わたしの任務には何も関係ないのだと再確認した。
それよりも面倒なのは連絡役への毎日の報告だ。あの女は本当に毎日、わたしに要求するだろう。それを欠かせば、どんな嫌がらせがあるか分からない。それにわたしは結局、任務に関することでは上の人間に言うことに逆らえない性格をしている。わたしは明日も、あの公園に行くだろう。
翌日、朝から勉強に精を出し、昼に少し寝てしまった。そして、あの夢を見た。肩をつかまれて、振り返ったところで終わるのもいつも通りだ。わたしは夕方の自転車での遠出をうまく日常の習いにすることにした。報告するほどの内容がないことを考え、公園の跡地に入った。人はいなかった。ただ、天狗が杏子色の光を浴びて飛んでいるのが見えた。カシハラ・キョウコはあれがわたしにそっくりだと言っていた。彼女の話しぶりでは、あの天狗の顔をまじまじと見たものはいないらしい。
草をかき分けて、たったひとりのキャンプ地へと足を踏み込んだ。
連絡役はいなかった。火は熾きを少しだけ残していて、細い煙が蚊取り線香みたいに昇っていた。テントのなかを覗いてみたが、寝袋とランプ、大きなマッチ箱、それに岩波文庫版のマキャベリの『君主論』(マキャベリに悪気があったかどうかは知らないが、『君主論』は何もなしえないくせに己を悪で飾る、下らない人間を大量に生み出した)。
外を調べてみると、湯気が立っている皿が置いてあって、かじられたロールキャベツがひとつある。それにちぎってあるパンがあるが、スープにひたすつもりだったようだ。
まるでメアリー・セレスト号だ。
空には天狗が飛んでいた。