四.
これまで殺した人数は十三人だ。
彼らがわたしのような人間をどれだけ抱えているのかは知らないが、殺した数は多いほうだと思う。
最初の人殺しをしたとき、連絡役がうっかり口をすべらせたのだが(今思えば、あれはわざとだったと思う)、暗殺者たちは三人目を殺してからおかしくなるらしい。
理由は悪夢だった。
わたしも三人目を殺してから、その悪夢を見るようになった。
暗い森のなか、花崗岩の、どこか洋風の細かい石畳がどこまでも続いていて、わたしは走って逃げている。
ひとりの女がわたしを追いかけてくるのだ。わたしはその女を途方もないほど恐れている。だが、わたしがいくら走っても、女を振り切ることができない。少しずつ、距離が詰まってくる。そして、女の手が肩にかかったそのとき、わたしは目を覚ますのだ。
一週間に二夜はその夢を見る。もう、何百と同じ夢を見ている。だが、夢のなかのわたしにとって、あの女との追いかけっこはいつも初めての出来事なのだ。
ある朝、わたしはその夢を見た。ひどく嫌な汗をかいた。
夏の四時の陽は、じんわりと東の山の尾根を縁取っている。水浴びをしたかったが、みなが寝ているなかで浴室を使うのが気が引けた。いまの自分に期待される行動ではない。
少し探すと、植木屋のハサミが入っていない裏庭のようなものが見つかった。そこには蓋をされた井戸があり、板をどけると、わたしの影をたたえた黒い水面が小石のひとつでも投げて乱してみろと挑発していた。水に映るわたしはわたしを見下ろしている。ロープのついた桶を落とすと、わたしはバラバラになった。
水浴びをし、シャツとズボンに着替えた。かすかに塩が混じった風に濡れた髪を好きになぶらせ、離れに戻る道をとっていた。視線を感じて、気づいていないふりをして歩き、一度だけ、少し視線を放った。目の端に映ったのはカシハラ・キョウコだった。こんな早朝なのにブラウスと紺のスカート姿だ。
殺してしまうか。
アキツグさんとハルヨさん夫婦、サブロウくん、それに女中と下男たちはまだ眠っているはずだ。それに針を仕込んだベルトをしめている。
わたしはベルトの金具に触れて、針があることを確認すると、カシハラ・キョウコへ振り向いて、いま気づいたふりをした。
「ああ、驚いた。おはようございます」
カシハラ・キョウコは小さくお辞儀をした。密度の違う二種類の液体をつかって、そんなふうに動くガラスづくりのおもちゃがあった気がする。
そのことを口にしてみた。カシハラ・キョウコは笑った。お辞儀と同じくらい小さく。
「わたくしも敬さんをどこかで見たことがあるような気がしていました」
これまでの人殺しでも見られていたのか知ら。
「天狗ですわ」
「僕がですか?」
「ええ。瓜二つです」
「天狗の顔を見たことがあるということですね」
「わたしたちの両親が天狗にさらわれたことはご存じですか?」
「町でききました」
「父と母はわたしの目の前でさらわれました」
「そうとは知らずに……無作法をしました」
カシハラ・キョウコはまた小さく笑った。
「いえ、この町では天狗にさらわれることは凶事ではありません。気に病まないでください。それで、天狗の顔ですけど、本当に敬さんにそっくりなのです。天狗って、わたしたちが考えている天狗とは全然違う顔をしていますの。顔は赤くなくて色が白くて、鼻は長くなくて小づくりで整っていて。初めて敬さんをお見かけしたときは驚きました。秋次さんと相撲をなさっていたでしょう? てっきりわたしは秋次さんをさらいに来たんだと思っていました」
「他のご家族は天狗の顔を?」
「知らないはずです。そもそもわたしが天狗の顔を見たことを教えていません」
「それはなぜです?」
「吝嗇でしょうか。なぜか、わたしだけの秘密にしたい気がしたのです。ああ、こんなに一度にたくさん、誰かとお話ししたのは久しぶりです。敬さんが天狗にそっくりだからかもしれません。天狗のことは内緒にしてくださいね」
「はい」
殺そう。
わたしはベルトの金具をなでて、針を人差し指と中指のあいだに滑り込ませた。
ふたりきりで、殺せる間合いで見たカシハラ・キョウコは儚く、殺される前からすでに死んでいるような、幽霊を見ているような。
結局、わたしはそのとき、殺せなかった。
あともう少しのところまで来たとき、急に恐ろしくなったのだ。
わたしはこの少女が夢のなかでわたしを追いかけてくる女に思えたのだ。
そのわずかな迷いで機を逃した。
「あら、京ちゃん」
ハルヨさんだった。
姉を見ると、カシハラ・キョウコは大人しくなった。
わたしは針を金具にしまい、こんな時間に水浴びをしたことを会話の主題にして、カシハラ・キョウコの天狗の話を隠した。
ハルヨさんが井戸について、大丈夫だったかときいてきた。
「特に何も」
「保健所からあの水に気をつけるように言われたことがあるんです。まさかコレラはないと思いますけど」
「ああ、ハルヨさん。脅かさないでくださいよ」
玉が転がるように笑って、ハルヨさんは言った。
「ごめんなさいね。でも、なんだか妬けてきちゃって」
気づくと、カシハラ・キョウコはいなくなっていた。
「京ちゃんが自分から話に行くなんで、敬さん、あなた、とても気に入られたんですよ。とてもきれいな顔をしてて、紳士ですもの。大学ではおもてになられるのでしょう?」
「あだ名は青びょうたんですよ。それに紳士は朝に井戸で水浴びをしたりしないのでは?」
「そのくらいのことはどうってことありませんよ。朝に水浴びができるくらいの甲斐性がなくっちゃ」
わたしはいまの自分に期待されている笑みをクスクスと返した。
「水浴びは甲斐性なんですか?」
「かもしれません」
対称的な姉妹だった。ハルヨさんは底抜けに明るい。アキツグさんとお似合いの夫婦だと思った。仕事を邪魔されたにも拘わらず、もう少し彼女と話したい気持ちになった。こんな気持ちになることは滅多にないのだが。