二.
H市は西に入り江の口を開けた小さな町だ。
活気のない町だった。三年前の大火で町の三分の二が焼けてしまった。焼け出された住民たちは町に戻ってこなかった。
三年間風雨にさらされても、炭化した塔や焦げた塀、古城跡の石垣は朽ちずに残っていて、アキツグさんのダルマ・クラウンで迎えに来てもらったとき、峠道から見ると、その炭と煤の町は戦時で時が止まったように見えた。
わたしの任務のために用意されたわたしは、カシハラ家の遠縁で、ヤザキ教授のもとで卒業論文を書いている学生であった。
本家の方々に迎えられたが、カシハラ・キョウコだけはやってこなかった。
「ひどく恥ずかしがり屋なんですの」ハルヨさんが教えてくれた。「悪くとらないでくださいね」
「悪くだなんて、そんな」わたしは言った。「こちらこそ、お邪魔してしまって」
わたしは離れを借りることができた。離れは母屋から焼け跡側に離れていて、北から風が吹くと、音が届いてきた。炭の軋む音や煤まみれの鈴虫の鳴き声、崩れた桟橋を洗う音が混ざって、町そのものの亡霊が呻くようにきこえてきた。
初日、眠れなかったわたしは蚊帳から這い出て、三尺幅の座机で浴衣の襟を正した。夜はもう降り切っているのに蒸し暑かった。わたしはベルトを手に取った。金具の裏側に刺してある、小さな針を月の光だけはふんだんに落ちてくる机に置いた。
わたしが標的を殺すときにはピストルや刃物は使わず、この針を使った。これが延髄に刺されば、人はたちまち息を断たれ死んでしまう。だが、月の光に占められた机の中央に置くと、針は凶器というよりはこの世で一枚しかない素晴らしい絹を縫うために生まれたもののように見える。
――できるだけはやく始末して。
H市に旅立つ前日、連絡役に言われたことを思い出した。
――任務の遂行については僕は自分のペースでやります。
――それでは間に合わないかもしれない。
――事情は僕が知るようなことではないでしょう?
――とにかくはやく終わらせなさい。
そこは渋谷のカフェーで、駅舎の上をロープウェイがデパートへ昇っていくのが見える席だった。
――到着したその日にやれとは言わない。ただ、急いでほしいの。
――分かりました。
まったく分からなかった。彼女とは気持ちよく事前の話し合いをできた試しがなかった。
幾夜から寝つけない夜が続いた。視線を感じる夜が続いた。そして、毎夜、死んだ町が軋んでいた。
ある日曜日、アキツグさんが本家の息子のサブロウくんと相撲の真似事をしているのを見たことがあった。サブロウくんは市外の高等学校に通っていて、家にはほとんど帰っていなかった。がっしりとして浅黒い彼は背は高いが痩せたアキツグさんを軽く負かしそうになるのだが、勝つのはいつもアキツグさんだった。
わたしが庭に出ると、ふたりがわたしを誘ってきた。
「僕の仇を取ってください」と、サブロウくんが笑いながら言った。
わたしはいまの自分に期待されている返事をした。
アキツグさんは体の重心を巧みに移すやり方を知っていた。二度、アキツグさんに投げられたのだが、そのとき、廊下の奥から視線を感じた。
白くぼんやりとした顔が暗闇のなかに浮かんで見えた。
わたしが立ち上がるころには消えていた。
「京子姉ちゃんだ。珍しいな」サブロウくんが言った。
「ちょっと推理すれば分かることだよ、ワトソンくん」アキツグさんはシャツの土をはたいてから、煙草をつけた。「僕らふたりで相撲をとっていて、京子ちゃんが見に来たことはない。ところが、敬くんがいると、京子ちゃんが相撲を見に来た」
「それはつまり?」と、わたしはきいた。
「そのまんまだよ、ワトソンくん」
「ワトソンはおれじゃないの?」サブロウくんがたずねた。
「僕にはたくさんのワトソンくんがいるんだ」
そして、このときだった。わたしが天狗を初めて見たのは。
鷹の鳴くような声がきこえて、見上げると、焼けた町の上を渦巻く風に乗った天狗がゆっくりと、大きな円を描いて飛んでいた。
「また、誰かさらうのかな?」
「このあいだ、さらったばかりだから、ただ飛んでいるだけだろうね」
わたしは空を飛ぶ人型にしばらく絶句していた。
本家の門から町へつながる道は塗屋造りの家と塀があって、幅の狭い水路がまっすぐ海へと続いていた。鮫を見たいなら、この水路に沿って歩けばよかったが、アキツグさんは門前通りに出ようと言った。禅寺の門から海岸まで、町のなかでは一番店屋のある道が走っていて、わたしの散歩道を増やそうとしてくれているのが、なんとなく分かった。
店屋があって栄えているとはいっても、ひなびた乾物屋や年寄りの集まる呉服屋がある程度で、過去の大火に引きずられて、滅びつつあるように思えた。
小さな魚市場に隣接した桟橋で鮫は逆さ吊りにされていた。非常に大きな鮫で、起重機の高さが間に合わず、その鼻面がコンクリートの土台に押しつけられて歪に曲がっていた。銛を何本も刺され、おそらく船に引き上げるときにしたたかに打ち据えられた鮫からは刺激臭のする血が滴っていた。
「いやあ、大きいなあ」アキツグさんが言った。「ムソリーニの最期を思い出させるね」
わたしには任務に失敗したときのわたしに見えた。
「嫌なにおいねえ」
「鮫の血にはアンモニアが混ざってるんだ」
わたしはいまの自分がすべきことをした。
「京子さん。大丈夫ですか?」
「はい」
いまにもかすれて消えてしまいそうな返事だった。カシハラ・キョウコはとても顔立ちが整った、美しい少女だった。もし、ハルヨさんのように少し口が大きいといった短所がひとつでもあれば、この少女がいまと異なる性格を獲得していたことは容易に想像できた。同級の男子学生たちはカシハラ・キョウコの前でうろたえ、立ち去り、内向的な性格はどんどん拍車がかかっていっただろう。
そして、女たちはこの見た目に瑕疵が見当たらない少女が、部屋に閉じこもって出てこないことに愉悦を感じる。ハルヨさんとて例外ではないと思う。本人が気づいているかは別だが。
サブロウくんが友人たちと一緒に自転車でやってきた。
「なるほど、これはでかい」
「たぶん、人を食ってるぞ」
少年たちはこの鮫に引導を渡した漁師のまわりをちょこちょこ走り、躍動感にあふれる死闘の詳細をねだっていた。漁師は背が高く、酒灼けの赤ら顔も長い、人体全体を上下で挟んで、目いっぱい伸ばしたような姿をしていた。銛打ちに向いた大きな手をしていて、皮膚が固くなった掌と手の甲では肌の色や固まった皺の走り具合が違った。
「鮫なんぞ獲ってもカネになりゃあせん」漁師はそう言ったが、明らかに自分の戦果を誇っていた。
魚市場の職員はカマボコ業者が引き取りに来るまで、鮫を吊るしていた。
そのあいだ、わたしにも刺すだけならできる機会が何度かあった。だが、確実に見られずにやれるという好機は訪れなかった。針を首の後ろに刺すには、手をさりげなく後ろへ、まるで少女の髪に触れようとしているみたいに運ぶことが必要だったが、自分がカシハラ・キョウコと衆人のいる場所でそんなことができる間柄ではないことが決行を遅らせた。
ただ、アキツグさんが考えているように、カシハラ・キョウコがわたしに興味を持ってくれているなら、暗殺を成功裏に運べる日もそう遠くはない。