一.
わたしはいつだって、いまの自分に期待されている返事をした。
わたしはひとりの少女を殺すことになっていた。
理由は知らない。殺せと命令されたから殺すのだ。
「おーい、敬くん」
アキツグさんの声がした。
離れから出ると、日除け傘を差したハルヨさんもいた。
「波止場にずいぶん大きな鮫があがったらしいんだ。これが本当に大きくて、たぶん生涯で見かける一番の鮫になるはずだよ。もし、勉強にひと段落ついていたら、一緒に見に行かないか?」
「はい。ちょうど、気分転換したかったんです」
わたしはいまの自分に期待されている返事をした。
アキツグさんはキョウコちゃんも誘ってみようと言った。ハルヨさんは少し難しそうな顔をして言った。
「あの子、来るかしら」それはたぶん来ないと言っているような調子だった。
「でも、すごい大きな鮫なんだ。太さはそこの門と同じくらいらしいぜ」
「やあねえ。そんなに大きかったら、漁船が呑み込まれてるわよ」
「それを確かめるのにぜひとも見に行くべきだよ。キョウコちゃんも誘ってさ」
「あの子、来るかしら?」
「声だけでもかけてみようよ。敬くん、一緒に来てくれるかな?」
「僕がですか?」
「うん、うん」
本家の屋敷はかなり広く、廊下や四辻、日陰になった小さな庭がいくつも、設計図面の寸法のなかに吞み込まれていて、まるで戦時中の、敵に占領されるのを恐れているかのように入り組んだ構造になっていた。先に立って歩くアキツグさんは婿養子になって五年経ったが、いまだに迷うと笑っていた。
「なに、そんなに根を詰めなくても大丈夫さ」
「何のことですか?」
「矢崎教授。卒業論文だよ。いざとなったら、サントリーの角瓶を進呈すれば、一発だよ。僕はそうやって卒論をかたづけたんだ」
「本当ですか?」
アキツグさんは快活に笑った。「本当だとも。――あれ? こっちも違うか。おかしいな。確かにあってるはずなのに。いまだに僕はこの屋敷に慣れない」
「とても広いですからね」
「それに生きている」
「え?」
「この屋敷は入るたんびに構造がシャッフルされるんだ。まるで僕らが道に迷って死んでしまえばいいと思っているみたいに」
「まさか」
「きみも天狗を見ただろう?」
「はい。遠くからですが」
アキツグさんは顔だけ後ろに振り向けて、微笑した。
「僕はここの生まれじゃないから面食らうけどさ。天狗にさらわれることを、この町の人たちはちっとも怖いことだと考えないんだ。いや、怖くないのとは違うな。なんていうか、機械仕掛けの神さまみたいなもんで、仕方がないものだと思って、受け入れている。それも相当に肯定的にね」
「人をさらうのを見たことがあるんですか?」
「それはないけど、知っている顔がひとりさらわれている。タバコ屋の坊だよ。将来有望な悪ガキだったが、天狗にひっかけられて、さらわれてしまったらしい」
「さらわれてしまった人はどうなるんですか?」
「さっぱり分からない。さらわれた人の家族は捜査願いすら出さないんだ。警察だって、何もしない――ああ、ここだ」
キョウコさんの部屋は洋間で青銅のノッカーこそついていないが、古く頑丈そうなドアがついてあった。
「京子ちゃん。鮫がとれたそうだ。とても大きな鮫だよ。これから春代と一緒に見に行くんだ。それに敬くんも一緒だよ。来ないかい?」
アキツグさんはこっそりとわたしに耳打ちした。
「作戦の成否にはきみの協力がかかってくるのさ」
細い声がドアの向こうからした。
「支度をします。もうちょっとお待ちしてもらっても?」
「もちろんだよ。ねえ、敬くん?」
わたしはいまの自分に期待されている返事をした。
「はい。どうぞ、急がずゆっくり支度してください。待っていますから」
ドアが内側に開いた。
ブラウスを着た少女が少しうつむき加減に立っている。
カシハラ・キョウコ。
わたしが殺すことになっている少女だ。