たかがチョコ、されどチョコ
今年も、チョコをもらった。
義理でお情けの一個を。
こんなものをあげたり貰ったりする輩は、皆菓子店のセールスに乗せられている馬鹿者だけだ。
そう思っている。思ってはいるけれども、気になってしまう2月14日。僕はいつもの様に何気ない風を装い仕事を始め、そして終わろうとしていた。
「あのぅ…」
新人女性社員が、気まずそうに声をかけてきた。後ろ手に何かを隠し、周囲を気にする様に視線を彷徨わせている。
きたきた。僕はそう思いながらも、何も知らない体で応える。
「どうしたの?何か困りごと?」
「いえ!その、これを…」
そう言い、おずおずと小さな箱を差し出した。ダークブラウンでシックな包み紙でラッピングされたそれを、僕は大袈裟に受け取る。
「もしかして、本命チョコ!?ありがたいなぁ!」
「あのっ、総務部から、です」
彼女は尻すぼみに、そう言った。
その言わなければならない一言が気まずいものだということは、誰にだって分かる。
要は女性陣全員で折半して、哀れな男どもへにお恵みをやろう、ということだ。そして一番嫌な立場となるチョコの配布役は、毎年新人に割り当てられる。
もう何年もこの会社で仕事をしているんだ。そんな恒例行事に慣れっこな僕は、彼女を安心させるために、毎度軽くおどけてみせる。
「おっと、早とちりだったか!ごめんごめん。美味しくいただくよ」
終始和やかな雰囲気で喋る僕の様子を見て、新入社員は申し訳なさそうにはにかみ「では」と頭をぺこりと下げて背を向けた。僕から遠ざかる足取りは、チョコ配布の重責が一つなくなったことで、少し軽やかな様にも思えた。
そんな彼女とは反対に、僕は誰にも見られないように重いため息を漏らす。
これで、今年も1つ。
そう、会社からのお情け義理チョコ、1つだけだ。
帰宅途中、近所の公園に見知った少年がいた。名前を悠太と言い、運動大好きな明るい少年だ。
彼とは僕が昼間散歩中に公園の横を通った際、悠太が蹴ったサッカーボールを頭にぶつけられて以来の仲だ。もちろんその時僕は悠太を叱ったが、何故だか懐かれてしまい、近所で顔を合わせるたび「にいちゃん」と呼ばれる様になった。
いつもこの時間帯、悠太は塾に行っているはずだが、どうやらサボっているらしい。かといって遊ぶ訳でもなくベンチに座り、ぼんやりとしている。
「おい、悠太!こんなところで何してんだ」
僕は公園に入りながら声をかけた。いつもなら僕に気づいた瞬間飛んできてジュースをせがんでくるのに、今日はこちらに顔を向け力なく「あぁ、にいちゃん」と言うだけだった。
「やけに元気ないな、どうした?」
塾に行かず、遅い時間公園に一人でいることを咎めるべきなのだろうが、それよりも心配が先行した。
「ちょっと、考え事してて」
悠太は力なくボソリと呟いた。
「考え事?僕でよければ、話聞くぞ?」
そう言い悠太の横に座る。悠太はもぞもぞと体を動かしながら、小さな声で話し始めた。
「今日、その、バレンタインデーでしょ?なのに僕、1つも貰えなくて」
話す度声が沈んでいく。
お前もか、友よ。
僕は思わず目頭が熱くなった。ほんの少しだけ。
「去年までいた学校では何個かもらってたんだけど、転校して周りの女の子とはまだそんなに仲良くなくて」
おい、俺のちょっと熱くなった気持ちを返せ。
俺は瞬時に目頭が冷え切った。
「このまま帰ったら、女の子たちと上手く行ってないんじゃないかって、母さんに心配されるんじゃないかと思って…」
悠太は子供らしからぬため息を吐いた。
僕は悠太に負けていたのか。子供のそれと比べるのは何とも大人気ないが、それでも考えずにはいれない。
いっそ、僕なんか毎年義理1個だぞ!と叫んでやりたかったが、流石に大人げなさすぎる。僕は込み上げる思いをどうにか喉の奥に押し込んだ。
そして、改めて、悠太の様子を見る。顔からは普段の快活さは無く、苦悩がどんよりと垂れ込めていた。
たかがチョコ。僕や数多くの成人男性はきっと、バレンタインチョコなんて大したものじゃないと、思っている。
されどチョコ。悠太にとっては、チョコを貰うことこそが学校生活が上手くいっていることの証明だと、思っている。
僕は躊躇った。それもたっぷりと。悠太の顔と自分の鞄の間を、何度も目線が行き来する。
そして、諦めた。
「ほら」僕は少しぞんざいにチョコの箱を鞄から取り出し、差し出した「これ、持って帰れよ」
「えっ!でも、にいちゃんが貰ったものだろ?貰えないよ、そんなの…」
悠太は両手でチョコを僕の方に押し返そうとした。
「いいんだよ、他にもいっぱい貰ったから」
こんな虚しい嘘を吐かなければならないことに、内心泣きたくてしょうがない。
「でも、今持ってないじゃん」
悠太は僕の四角く薄い鞄をチラリと見ながら言った。よく見てるな、ちくしょう。僕は悠太の目敏さに感心と悲しみがない混ぜになった感情を抱いた。
「会社でおやつに食べたんだよ。沢山持って帰るのは大変だしな」
そんなこと、やれるものならやってみたい。僕はまた虚しい嘘を1つ重ねた。
「本当に、いいの…?」
悠太の弱気な上目遣いが心に刺さる。
「いいよ、1個くらい。それを母ちゃんに見せてやれ。そうすれば、母ちゃんも安心するだろ?」
そう言った瞬間、悠太の目が輝きを取り戻した。
「ありがとう!これで母さん、安心してくれるよね!?」
言い終わるのが早いか、悠太は俺の手からさっとチョコを奪い取ると。慣れた手つきでランドセルの中にしまい込んだ。
「あぁ、もちろんさ」
そう言い、僕は悠太と別れた。
出会った時とは真反対の、輝かんばかりの笑顔で悠太は去っていった。
家に帰り、ソファに鞄を放り投げ、ネクタイを緩める。
「あーあ、今年はゼロか」
そう言いながらネクタイをソファの背に掛け、鞄の中をまさぐる。ブラックの缶コーヒーを中から取り出し、それを片手にソファにどかりと腰を下ろした。
冷え切って風味も薄まった黒い液体を口に流し込む。普段は絶対に味わわない苦味が喉を伝い、顔を顰めさせる。
嫌いなコーヒーを飲んだところで、味を楽しめない事くらい分かっていた。せめて甘いものでも一緒に食べれば、この苦味を少しは楽しめるかもしれないという考えが頭をよぎったりもした。
それでも僕はコーヒーを買う手を止めることは出来ず、逆に甘いものを買う気にはなれなかった。