「やめろって言われると逆に」と兎は言った。そう、それがカリギュラ効果だ。
兎の前を狸は黙々と歩く。
兎は狸に殺意を持っている。
それを狸は知っているのか知らないのか。
狸の背中には薪がギッシリと入った竹製の背負子がある。
兎は昨日から入念にこの背負子に細工を施しておいた。
キャンプ用の着火剤が存分にまぶしてあり、ついでに薪の数本にガソリンが染みこませてある。
そして兎の手にはチャッカマンが握られ、彼女が人差し指の第2関節を曲げれば狸の背負子は爆発的に燃焼すること間違いなしだ。制裁の時は来た。
この峠の細道、目撃者は誰もいるまい。
兎はそっとチャッカマンを狸の背中に近づけた。
「なあ、兎。なぜ君が俺に復讐をせねばならないのだ」
狸がいきなり兎に問いかけ、彼女は仰天する。
「な、何を」
兎は動転を悟られまいとしたが、言葉が出てこない。認めたも同然だ。
「俺は君に殺されるのなら仕方ないとも思っている」
狸がボソリと呟く。
「俺が愛した只一人の女性だからな」
兎はそれを知っていたが、だからこそ尚更狸を憎悪の対象とした。
「今さら何」
「そもそも婆さんを殺したのは俺じゃない。『婆さんの煮込み』を作ったのは爺さんだ」
「あなたが大鍋に突き落としたせいでしょう」
兎は自分の数少ない理解者であった優しいお婆さんの面影を思い浮かべ、再び復讐心が燃えさかる。
「確かに俺は婆さんを憎んだ。けれど最初から憎かったわけではないし、理由もなく憎んだのでもない」
狸は回想する。
そうだ。狸は実に良く老夫婦の稼業を手伝った。
お爺さんの畑仕事山仕事、お婆さんの家事…そして二人の裏の稼業、狸は忠実に勤めた。
その過程で兎と出会い、愛し合った。
狸にとっても兎にとっても幸福な日々の記憶が蘇る。
「俺は純粋に世の中の為、そして俺を信頼してくれる爺さんと婆さんのためと思って働いたんだ」
狸の言葉は苦々しい。
世にはびこる悪を始末しているという狸の自尊心はある日突然打ち砕かれた。
「あなたのプライドなんてどうでもいいわ。私たちの恩人であるお婆さんを煮込んでお爺さんに食べさせるなんて野の獣のやることよ」
兎がチャッカマンを点火させようと指を曲げ、カチリと音がしたが火は点かなかった。
狸が苦笑いをする。
「俺はもともと野の獣だよ。志をもって仕事をしていた俺に婆さんはニンゲンの金を渡そうとした。結局只の汚い殺し屋だと。俺は傷ついたのだ」
かすかに匂うガソリンの香りに狸は顔を顰めた。
「他人によって目的をすり替えられることで意欲をなくす。よくあることだ。これを『アンダーマイニング効果』という」
兎がカチカチと点火を焦る。
「大した志なんかなかったくせに。『褒められたかっただけ』って素直に言いなさい」
漸くボッと火がついて、背負子の下から煙があがる。
「おい。カチカチと音がしたな」
狸はそれが自分への殺意の灯火であると知っていながら兎に問いかける。
「それはこの山がカチカチ山という場所だからよ。お爺さんがね、『お前は本当に優しくて可愛い兎だ。そうお婆さんが言っていたよ』と私に話してくれたわ。もうすぐこの山の名前はボーボー山になるわ」
兎の言葉に狸は額の汗もふかず薄ら笑いを浮かべる。
「あいつらの手だよ。第三者から間接的に聞かされた評価は信用されやすいのだ。『ウィンザー効果』だ。そういえば俺の背中でボーボーと音がする」
兎はふと不安に駆られる。騙されているのは誰なのか。騙しているのはどこの獣なのか。
「な、何よ。もっと怒りなさいよ。あ、あなたは殺されるのよ」
「君は自分を奮い立たせなくてはいけないのか。辛いな…」
燃えさかる背中の薪から逃げようとしない狸が意識を失い、そこにうつ伏せに倒れる。
「!」
兎は思わず薪の入った背負子を狸の背中から外した。自らの手に大やけどを負いながら。
気を失って倒れる狸の背中に水筒の水をかけながら兎が慟哭する。
「…許さない!私の心を弄ぶこの狸を…愛している」
「なぜ狸を助けた」
お爺さんが冷たい声で兎に問いかけた。
兎は約束である剥いだ狸の毛皮を持ち帰らなかった。
お爺さんは家の囲炉裏端で煙管をポンと叩く。
正面に正座する兎がビクリと震える。
「…この程度で楽に死なせるわけにはいかないと思ったからです」
兎は眼を合わせないでお爺さんに答えた。
「ここに唐辛子味噌があります。これをあいつの背中にすり込んできました。これから3日3晩は悲鳴をあげ続けることでしょう」
「フン」
お爺さんは兎を睨む。
「変な気を起こすとお前も同じ運命になるぞ。お前や狸の替わりはいくらでもいる。狐でも鼬でも白鼻芯でもな」
お爺さんは長いため息を吐く。
「お婆さんはお前のことを高く評価していた。『けっして義理を仇で返すような恩知らずではない』と。死んだお婆さんの為にも裏切り者を許すな」
「わかっています。お婆さんの仇は必ず私が討ちます」
兎がようやく顔をあげ、長い耳をピクリと動かした。
お爺さんが急に兎撫で声を出す。
「なあ、そんなに惨い殺し方をする必要はないのだ。狸だってもう充分苦しんだだろう」
お爺さんは煙管をくわえて大きく吸い込んでから、ハアッと煙を吐き出した。
「お前はもう狸を楽にしてやれ。辛子味噌などと酷いことをしなくてもよい。惨殺する必要はないから確実にとどめをさしてあげなさい。一度は狸を我が子のように可愛がった婆さんもそんなことは望んでいないだろう」
お爺さんはそう言って目頭をおさえた。
兎はまじまじとお爺さんを見つめる。そうか。お爺さんも本当は辛いのだ。決意を揺らした自分が馬鹿だった。お婆さんのため、お爺さんのため、そして組織のためにきちんと仕事をしよう。
「それでまた君は俺の所に来たのか」
狸が無表情に兎を見る。火傷はしたが事前に氷水でキンキンに背中の厚い毛足を冷やしていた狸は軽傷だった。むしろ兎の手の方が重い火傷だったくらいだ。
狸は兎のただれた手を痛ましい眼で見た。
「君は俺を許すのか殺すのかという二択で悩んでいた筈なのに、爺さんから『惨殺』というワードを与えられたことでいつの間にか『殺さない』『殺す』と『惨たらしく殺す』の三択にすり替えられてしまった。こういうふうに極端な第三局を作り出すことで中間の選択をさせる誘導を『ゴルディロックス効果』という」
「…」
兎は黙っている。
「君はいつもランチコースの中で真ん中の価格のものを選んでいたからな。原宿のランチを思い出すよ」
懐かしそうに閉じていた瞳を再び開いた狸は兎の赤い眼をじっと見つめる。
「どうする。俺の気持ちは変わらない。君が俺を殺す気なら俺は抗わない」
「ならなぜあなたは背中を冷やしていたの」
兎はすでに涙を流していた。
「最後であっても君と少しでも長く話がしたかったんだ」
「…」
「なあ、俺たちは本当にもうやり直しは出来ないのか。本当の俺と君として生き直すことは出来ないのか」
狸の悲痛な呻きに兎は声を絞り出す。
「もう遅いわ。あなたは策略を巡らし恩人のお婆さんを殺した。私は手間をかけてあなたを殺しかけた」
「大きなコストをかけた以上は今さら引き戻せないと考えるのは当然だ。『サンクコスト効果』だ。だが」
狸が強い視線を兎に向けた。
「婆さんは俺たちを騙していた。俺たちがやっていたの世直しでなくただの殺し屋だったんだ。そして君は確かに俺に薪を背負わせた。だが殺しはしていない。助けてくれたじゃないか」
しばらく黙って聞いていた兎がようやく顔をあげた。もう涙は流していない。
「海に出ましょう。魚を捕りに」
それから窓の外を見てポツリと呟く。
「あなたはそこで溺れ死ぬの」
「爺さん」
さすがに狸が驚いた顔をした。
翌日誘い出されて海に来た狸の前に現れたのは兎とお爺さんだった。
「裏切り者で婆さんの仇のお前だが…お前の命で償うのならそれで許すこととした」
お爺さんは狸を冷たい眼で睨んだ。
「しかも…兎はお前の為に運試しまで用意したらしい」
「運試し?」
狸が兎のほうを見る。
兎の表情は変わらない。
「二隻の舟を用意したわ。一隻は大きな泥の舟、もう一隻は小さな木の船よ。あなたが選んでいいわ。あなたが選ばなかった舟で私も海に出る」
「ふむ。それで」
狸が促す。
「片方には船底に穴が開けてあるわ。沖に出る頃に浸水するよう設計してある」
兎は顔をあげて狸を見つめる。
「あなたか私のどちらかは溺死するのよ」
「野の獣は泳げない。それは『昔話の動物は泳げないの法則』だ」
お爺さんがニヤリと笑う。
「確かだ。俺も兎も泳ぐことはできない。沖合で舟が沈んだら確実に溺れて死ぬだろうな」
狸の言葉にお爺さんはほくそ笑む。もちろん何かの拍子に狸が助かったりした場合は次の手を放って確実に殺すことに変わりはない。
そしてお爺さんにはもうひとつの狙いもあったのだ。
一人と二匹が桟橋につけてある舟の前にいる。
「大きな舟の方を選ぶよ。『昔話の悪役、大概大きい方をチョイスして懲らしめられる効果』だ。兎、これを」
狸は大きな泥舟を選ぶと、兎に自分の愛用品である徳利を渡した。
兎は黙って受け取り、木の船にゆっくりと乗船した。
狸の泥舟と兎の小さな木舟が出航すると、お爺さんは隣の桟橋に停泊しておいたクルーザーに乗り込む。
「ふん、恩知らずの最期をしっかり見届けないとな」
沖に出る頃どころか、出船してすぐに泥の舟は溶け始める。
「そりゃあまあ、泥の舟だからな」
狸が呟き、隣の舟で俯く兎を見た。
「なぜ泥の舟を選んだの。見れば誰だってわかるじゃない」
兎がポロリと涙を零した。
「君のその涙があれば充分だ。死ぬのは俺だけでいい。…だが」
狸は兎の舟を顎で指した。
「多分爺さんの狙いは違うだろうな」
兎はハッと自分の足下を見る。いつの間にかゆっくりと船底から水がたまり始めている。
「…はじめから私たち二匹とも始末する予定だったようね」
「君にそのつもりがあれば」
狸はすでに自分の舟の後部半分が海面下にあるのを確認した。
「チャンスだと感じたらその徳利を割るんだ」
泥の舟はもはや姿さえ見えず、狸の身体も上半身が残るだけだ。
「爺さんのクルーザーを見たか。あの豪華なやつ」
兎が狸に手を差し出そうとして引っ込める。
「知っているわ。どうせなら出来るだけ高い奴をって業者に」
「『有閑階級の理論』あるいは『ヴェブレン効果』というものだ。見せびらかすためのものは価格が高いほど需要があるのだ」
狸は頭だけ海面に出して兎に笑いかけた。
「その金は俺や君が人殺しをして稼いだお金だよ」
「狸!捕まって!」
兎がたまらず櫂を差し出すが狸は顔を水面に浮かべたり沈めたりしながら爽やかに笑った。
「爺さんが少し離れたところから見ているだろう。俺に構うな。それから…君の舟ももう半分以上沈んでいることに気づかないか」
「本当に好きだった」
その言葉とともに狸の姿が消えた。
顔を覆って泣き崩れる兎の舟もゆっくりと沈み、あたりには何も見えなくなった。
「ふん。手間をかけおって」
双眼鏡で覗いていたお爺さんは「やれやれ」とクルーザーの船室に戻って豪華なソファに腰をおろした。
しかし彼には何とはなしに違和感が残っていた。
如何に罪悪感のある兎と狸でもちょっと素直すぎないか。
もう一度海を見に行こうと立ち上がった彼の鼻腔に妙な匂いが突き刺さる。
「!」
彼も殺し屋組織の総元締めである。長い人生のここまで危機に関する嗅覚を研ぎ澄ませて生き延びてきた。だが
油断した。『動物は基本火を怖がるの法則』を信じた。
よく考えれば狸の背中に火をつけて殺そうとしたのは兎ではないか。
お爺さんがそれを火薬とガソリンの匂いだと気づいて船を飛び出そうとするその一瞬前に豪華なクルーザー船は大爆発を起こした。
『昔話に大爆発等のスペクタクル要素なし理論』は通用しなかった。
「大丈夫か」
水面を漂う狸が自分の下半身につかまる兎に声をかけた。
八畳敷きの大きなキン○マ袋がパンパンに膨らんで海面に浮いている。
これが今まで組織の誰にも、無論トップのお爺さんやお婆さんにも秘匿してきた狸の最後の奥の手である。いや奥の玉袋である。
兎が溺れてブクブクと海の底に沈みかけた時、彼女はついに徳利を割った。
出来ることなら普通の兎として、野の獣としての幸福を追いかけようと決意して割った。
独特の酒の匂いが兎のもとから周囲へ広がる。
だが彼女としても本当にこれで狸が助けにくるとは半信半疑であったに違いない。
それほど驚愕の秘技であったのだ。
「これから何処へ行くの」
兎は狸の袋につかまりながらバタ足をして進行を助けようとした。
「組織は多分これで壊滅状態だろうが…まあ、それでも用心には用心を重ねて遠くへ向かおう」
狸が眼を薄くして遙か彼方の遠い陸地を望む。
「…お爺さんは今日のことも占いで決めたようよ。『海で殺すが吉。方角は東南東』と」
「あの組織御用達の占い師か。それで君はクルーザーに火薬を仕掛けたのか。大博打を打ったものだな」
「あのインチキ占い師『今お悩みのことがありますね』『苦労人の相が見えます』とか言ってお爺さんに近づいて来たのが最初だったわね」
「『バーナム効果』だ。誰にでも当てはまるような事柄を指摘されて自分のことのように感じてしまうのだ」
狸が無駄話をしながらもプカプカと浮かぶ自分のキン○マを故郷と逆の方角に向けてバタ足を始めた。
兎もそれを助けて二匹はゆっくりとだが、確実に過去の恩讐から遠ざかっていく。
二匹が次の土地に到着するまで丸一日かかった。
その地で兎は地元の亀とのトラブルで通報され、狸は他の狸達と寺でポンポコポンのポンと踊り狂う怪事件を起こすのだがそれはまた別の話。(おわり)
…そんな変な結末があるかって思った読者もいるだろうか。
ならばこちらのエンディングでも構わない。
それから二匹は知らない土地でいつまでもいつまでも幸せにくらしましたとさ。(おわり)
これはこれでリアリティに欠けるテキトーさを感じるのだがどうか。
いわゆる『昔話の結末、結構大雑把で無責任の法則』である。
読んでいただきありがとうございました。
作中に登場する心理学用語は半分が素人の解釈、残り半分はデタラメです。ちなみにあらすじにある『ギャロップギャップ効果』などというものも存在しません。すみません。