八話
学校が終わったあと、どこかで暇をつぶす尾崎についていき、写真を撮る。それは公園だったり、繁華街だったり、何もない住宅地だったりした。彼はたいてい、なにをするでもなく、歩いていた。僕は一眼レフを首から下げて、その後ろをついていく。彼はたまに足を止め、何か気になったものに目をやる。そういったときには、必ずといっていいほど良い写真が撮れた。
被写体になってくれるお礼として、月に二回ファミレスに行って、二人でポテトを食べた。彼はポテト以外のものを頼まなかった。ポテトをつまみながら、それまで撮り続けていた写真を二人で品評した。僕はその時間が好きだった。
彼は写真に対しては正直だった。これは良い、でもこれはダメだ。悪い写真のときは、一瞬で画面をスライドさせた。普段、他人や僕には向けられない好悪の判別を、その時だけは見ることができた。それは自分が被写体だったからできたのかもしれないが、それでも、それが尾崎の心を覗く僅かな手がかりだった。
尾崎の背景が冬の景色になっても、カメラの向こうにいる彼の本質はつかめなかった。
三月の、一年が終わる終了式の放課後。池に沿った道を歩く尾崎の頭や肩に、雪が解けていく様子を、僕は後ろから見ていた。その日は朝から穏やかな雪が降っていて、世界がいつもよりスローモーションで進んでいた。天気のせいか公園には人がおらず、しんとしていた。雪が池の水面に落ちる音さえ聞こえてきそうだった。
尾崎は鎖で閉鎖された階段の前で立ち止まった。その階段は半楕円の形を描いていて、池の水面のぎりぎりまで伸びていた。鎖の前には看板が立てられており、バツ印と「侵入禁止」の文字があった。その横に赤い字で、過去死亡事故アリとあった。尾崎はその前でしばらく立って、池を眺めていた。ファインダー越しに見た彼の姿は、白い景色の中に消えていきそうに見えた。
「入るのか」
立ち止まった尾崎に、僕は言った。
「行かないよ。俺は、優等生だから」
冗談まじりに、彼は薄く笑いながら振り向いた。
その表情は、どうしてか僕には苦しそうに見えた。
しばらく池の周りを歩いて、尾崎は道の脇にあったベンチに座った。歩き疲れた僕もカメラをケースにしまって、尾崎と一緒に雪の降る池を眺めた。音のない白い景色。池の向こうに見える枯れ木の隙間からは白く分厚い雲が覗き、空を反射させた水面にも同じ色が映っている。ちらつく雪は視界を斑にして、池に吸い込まれていく。
「こんな日にも写真とるんだな」
横目で尾崎を見ると、彼は手を膝の上で組み、背中をベンチに預けていた。
「こんな日だからこそ、撮るんだ」
「きっと雪も喜んでるよ。こんなに熱心に撮られることなんてないだろうから」
言葉とともに、白い煙が昇っていく。
「今さらだけど、どうして山田は写真家になりたいと思ったんだ?」
彼の澄んだ瞳が、僕を見る。その目で見られると、どうしてか嘘をついてはいけないような気分にさせられる。
僕は祖父と写真の話をした。祖父に写真を撮ってくるように頼まれたことや、写真で世界と繋がれたことや、祖父が生きていたことが、なかったことになったわけではないと気付かせてくれたこと。
「あと、たぶん写真は自由だから」
彼は首を傾げて、目で「どういうことだ」という合図を送った。
「生きていくためにはさ、ある程度ルールの上で動かなきゃいけないでしょ。法律とか校則とか、クラスの中で決められたキャラとか。法律は破ったら最悪死刑だし、校則も違反したら退学させられるし、クラスで決められたキャラから脱線するといじめられる。僕だって他人がルールを守らないのは嫌だけど、でも、ときどき苦しくなるんだ。ルールに従ったまま生きてると、自分が本当にしたいことが何なのか、分からなくなる」
なんでこんなこと話しているんだろう。そう思いながらも、僕は話し続けた。もしかしたら、こんなにもありきたりで、どうしようもない苦しみを尾崎に聞いて欲しかったのかもしれない。
「でも写真は自由なんだ。何を撮ってもいい、好きな構図で、好きなシャッタースピードで、好きなホワイトバランスで、自由に世界を切り取ることができる。写真を撮ってるときだけは、つまらないルールとか、くだらないことを忘れられるんだ」
柵の上に止まっていたツバメが、そこから身を投げて、池の上を飛んだ。しばらく低空飛行を続けた後、向かい風に乗って、数学でならう方程式のグラフのように、急な角度で空高く舞い上がる。
自由。
ツバメは点のように小さくなって、白い雲の中に消えていった。
「自由か」
その様子を追っていた僕の横で、シャッター音がなった。
「確かにそうだな」
横を見ると、尾崎がスマホで僕を撮っていた。
「山田の鼻の毛が細部まで確認できる」
いたずらっぽく笑ってスマホをこちらに向けてくる。そこには真面目な表情で池を見ている、僕の横顔がある。そしてピントは鼻から出た一本の黒い毛にしっかりとあっている。
「題名は「ある日の友人」だな。次の大会は俺も参加するよ」
「おい、ちょ、止めろ。まじで恥ずかしいから」
鼻毛を出した間抜けな僕の顔。その顔が馬鹿みたいに真剣であるが故に、より滑稽さが増している。
「肖像権の侵害だ。今すぐその写真を消せ」
公園に響き渡る声をあげて、僕は尾崎のスマホを奪い取ろうと手を伸ばす。
「肖像権の侵害は山田が先にしたんだろ。別にいまから大会運営に言って、賞を取り下げてもらうこともできるんだぜ」
言いながら尾崎は軽く手を上にあげて躱す。
僕はどうすることもできなかった。
彼の正論に何も言い返せなかった。
スマホを奪い取ろうにも、高身長の尾崎に僕の手が届くわけがない。
「……そうだ。写真は自由だ」
僕は諦めて、手を引っ込める。
現実逃避のために、池を見て視界を横切る鳥の姿を追った。その様子が落ち込んだように見えたのか、尾崎は声を柔らかくして僕に言った。
「悪かったよ。でもこれだけは断言するけど、山田の夢を笑おうって気はないんだ。ただ、ずっと気になっててな」
拗ねた子どもを諭すような言い方だった。
「分かってるよ」
僕は小さく息を吐いた。
実際、僕は拗ねた子どもだった。
「でも、尾崎、写真撮るのも上手いな。綺麗にピント合ってたよ」
「そうか?」
「ちょっともう一回見せてくれ」
いいけど、と言って尾崎がスマホを操作して僕に画面を見せる。
三十センチの距離に、僕の真剣で間抜けな顔が鮮明に映っている。
ここだ――。
「甘いな」
不意打ちで奪い取ろうとした僕の手は、虚空を掴んでいた。スマホは再び、空高く尾崎の手に握られている。
「表情でバレバレだよ」
そういって尾崎は楽しそうに笑った。そのときの表情は、年相応の高校生に見えた。
その様子に毒気を抜かれてしまった僕は、彼の撮った写真を諦めた。尾崎はそれを人に馬鹿にするために見せたりはしないだろうという信頼もあった。僕は身体を脱力させて、ベンチにもたれかかる。
「本当になんでもできるよな、尾崎は」
出会ったときから、その印象は変わらない。
「さっきの写真も、冗談じゃなくて、本当に上手かった」
ピントだけでなく、構図や撮ったタイミングも、初心者とは思えなかった。
だからこそ気になった。
「尾崎は」
横目で彼を見る。
「尾崎の夢は何?」
夢は叶う。
その言葉を見る度に、綺麗事だと思った。実際はほとんどの人が夢を叶えられず生きているのに、夢を叶えられるのはごく少数の人間しかいないのに、それを分かっているのに、大人は子どもにそう呼びかける。高校生になった今では、もうその言葉の信憑性の低さを理解している。
それでもまだ、自分なら何かできるじゃないかと、そう思う時がある。写真家になれるんじゃないかと、思うときがある。それがどれだけ根拠のない自信なのかも、理解している。それでも簡単には諦めることはしたくなかった。
でも、それでもいつか、夢を諦めないといけないときは来る。ずっと夢を追って生きていくことはできない。決断が遅れれば、写真以外で何の人生経験もない社会不適合者として、生きづらい人生を送ることになるかもしれない。だから僕は、何か基準が欲しかった。夢を諦めることができる、というラインを設けたかった。
尾崎は、才能を持っている。誰の目から見ても明らかな非凡さが、彼にはある。だから、もし尾崎の夢さえも叶わなかったときは、きっと夢は叶わないと割り切ることができる。尾崎以上の人でないと夢を叶えることができないと知れば、僕には到底無理だったんだと思うことができる。夢を手放して、趣味として写真を撮る決意をすることができる。
だから、僕は知りたかった。尾崎の夢が何なのか。
尾崎は、何を望んでいるのか。
雪の向こうの彼は、僕の質問に対して、数秒沈黙していた。
「普通に生きて、普通に死ぬこと」
だから、その答えが冗談で言っているとは思えなかった。
「それが俺の夢」