六話
帰りのホームルームが終わって、鞄に荷物を詰めて神田と教室を出るとき、なんとなく僕は窓側の席を見た。目当ての席は空席で、まだ白い日差しが机の上に落ちていた。
「蒼生って今日来てたっけ」
深い意味はない、というトーンを意識して神田に言うと、
「福原? 来てたよ」と彼はあっさりと答えた。
てっきり蒼生に好意を持っていると疑いをかけられるかと思っていたら、神田は隣の教室を通り過ぎたところで、真面目なトーンで言った。
「恋人が死ぬのって、どんな気分なんだろうな」
それは、僕も知りたかった。
階段を降りて、そのまま自転車置き場まで歩く。
「そういえば、山田は福原と仲良いの?」
「どうして?」
「蒼生って呼び方、馴れ馴れしくないか」
「ああ……それは同じ中学だったから、そのときからの呼び方」
高校に入ってから関わる機会も少なくなったが、呼び方はどうしてか抜けない。
それからどうでもいい話をしながら歩き、校庭の花壇を通り過ぎ、自転車置き場まで来たところで、僕は足を止める。
「ごめん。忘れものした」
「なにを」
「数学の教科書。とりに行くから、先かえってて」
神田と別れのあいさつを取り交わし、僕は来た道を引き返す。
校庭の花壇には、来たときに見た人影はいなかった。僕は小さくため息を吐く。
工業高校の校舎は三階建てで、僕たちの教室はその最上階にある。引き返すのは面倒だが、仕方なかった。
コンクリートの渡り廊下、野球部の掛け声、三階までの長い階段を過ぎ、やっと目的の場所に着く。夏の暑さがまだ残っているせいか、シャツが背中に張り付いていた。
僕は一度、呼吸を整えてから、教室のドアを開ける。
「なに、してんの?」
暗い教室の中、一番後ろの席で蒼生が立ったまま、窓の外を見ていた。遠く焦点のあっていない、"どこか" を眺めている彼女の髪が、風に静かに揺れていた。
ゆっくりと、その顔と、その目が僕の方を向く。目が合っても、彼女は僕のはるか後方を見ているように、僕には思えた。
「野球観戦」
彼女は無感情に、そう言った。
野球に興味があるようには見えなかった。
「今年のチームは甲子園いけそう?」
「いけるよ。たぶん」
話にのったわりには、適当な言い方だった。
僕は内心でため息をついて、蒼生の方へ歩いていく。昨日とは違う花が生けられた尾崎の席の花瓶。通り過ぎて、再び外を眺めている蒼生の隣に立つ。
「花かえてたのって蒼生だったんだな」
神田と花壇を通り過ぎたとき、蒼生に似た女子生徒が花の茎をはさみでカットしていた。そのときと同じ色の花が、花瓶の中に生けられている。
彼女は何も言わなかったが、否定もしなかった。ただ、外を見ていた。つられるように、僕も窓の外に目を移した。確かに眼下には野球部の練習風景が見えた。そこから視線をさらに下に移すと、コンクリートの地面があった。
僕たちは、無言のまま、外の"どこか"をしばらく眺めていた。その間、教室には衣擦れの音さえ響かなかった。
尾崎が死んでから、蒼生とどう接していいのか、僕は分からなくなっていた。でも、このまま放っておくことは、できなかった。電気の消えた教室で一人、窓を開けて、遠くを見つめているクラスメイト。その行動の意味は、僕にはよく分かっていた。
ずっと、不安だった。尾崎が死んだときから、彼女のことが。
「あのさ」
心が、ざわついていた。
「なんていうか、その」
蛆が心臓あたりに群がっているみたいに。
「最近体調とか、大丈夫?」
結局そこから出てきた言葉は、自分でも分かるほど不自然で不恰好なものだった。
でも、それ以外に、言葉が見つからなかった。何を言っても、間違っているような気がした。
僕は顔を見れなかった。だから、蒼生の横で、桟に手をついて野球部の練習をぼんやりと眺めていた。
「ごめんね」
彼女は静かにそう言った。
「翔太くんにまで心配かけちゃって」
「いやその、何か……元気なかったから。大丈夫かなって……」
「……私は大丈夫だよ。ごはんも食べれてるし、ちゃんと寝てるよ」
「そっか」
それなら、よかった。
少しだけほっとして、緊張していた身体から力が抜けていくのが分かった。
僕がこれ以上ここにいる必要は――彼女の言葉を信じるなら――どうやらなさそうだった。
「僕が言うのもなんだけど、尾崎は蒼生といれて幸せだったと思う。尾崎のことは最後まで分からないことばっかだったけど、それだけは分かった」
桟から手を離して、僕は蒼生に目を向ける。それじゃあ、と言って帰るつもりだったけれど、目元に涙の跡が見えて、少しうろたえてしまった。
「ねえ、翔太くん」
蒼生が今日初めて、真っすぐに僕を見た。
潤んだ瞳の奥に、強く暗い光が見えた。
「真宙くんって、本当に事故死だったと思う?」