09
わき目も振らずルミナのそばに駆け寄り、コウキは体を抱き起した。脈拍と呼吸を確認する。
――まだ大丈夫、生きている。
「おい、ルミナ。大丈夫か? しっかりしろ!」
何度も何度も体を揺さぶる。しかし、彼女の頭は力なく前後に振れるだけだった。
右の肩口からの出血が激しい。流れ出た血液が水溜りのように、床をしとどに濡らしている。このままでは、止血が上手くいく前にショック死を起こしかねない。
「コニカ、人工血液のシリンダーをよこせ。あと、止血帯もだ」
ナミのそばで様子を見ていたコニカに、鋭く指示を出す。コニカはすぐに、左の二の腕に内蔵されていた赤黒いシリンダーを取り出し、コウキに放ってよこした。何か起こったときのためにと、念には念を入れて常備しているモノが役に立った。
首筋に浸透圧注射器の針をあて、引き金を引く。通常の五倍の酸素運搬能力を有する人工赤血球を多数含む溶液だ。ルミナの顔に少しだけ、血の気が戻った。何とかなるかもしれない。コニカから受け取った止血帯を巻きながら、コウキは少しだけ安堵のため息をついた。
そのまま、失血による血圧低下を防ぐために生理食塩水を点滴しながら、ルミナは安静に寝かせておく。ヘタに動かすよりも、当分はこうしておいた方がだいぶんマシだろう。できる限りの手は尽くした。意識が戻るかどうかは、ルミナの生命力次第だ。
細く長く息を吐き出し、コウキはナミの方へ向き直った。義眼に装備された暗視装置のおかげで視界を確保できるコウキと違って、今のナミは何も見えてはいないはず。何も見えず、何も聞こえない世界で、しかも頼みの綱のルミナは刻々と死へ近づいてゆく。よくもここまで耐えたものだ。その精神力には感服する。
だがそれでも、何が起こったのか詳しい話を聞かなければならない。年端もいかない少女に、これ以上の無理を強いるのは酷だというのは重々承知している。しかしこの状況を脱却するためにも、何とか現状を把握しておかねばならないのだ。
あえて心を鬼に変え、コウキは重たい口を無理やり開いた。
「ナミ、聞きたいことがある」
「――――っ!」
コウキの声にナミは鋭く反応した。必死で膝をかき抱き、何も見えない闇を見透かそうとするかのように、目を大きく見開いてあたりをうかがっている。
当然と言えば、まさに当然の反応だろう。ただでさえ人見知りの激しかった子である。もはや正気を保つだけでも精一杯に違いない。
そんな彼女を、コニカがやんわりと抱きしめた。
「……ナミちゃん、心配しなくてもいいのよ」
そう優しく、耳元で囁きかける。そっと、まるで壊れ物を扱うかのように。いや、まさに彼女は壊れ物なのだ。丁寧に扱わないと、すぐに砕けてしまうような……。
コニカの声で、ナミはとりあえず落ち着きを取り戻してきたらしい。表情もいくぶん柔らかくなり、強張らせていた体も、適度に力が抜け、リラックスできている。
どうも焦るあまりに、大切なことを忘れてしまっていたらしい。たとえこの状況を乗り越えたとしても、このかよわい少女を救えなければ、それは上手くいったとは決して言えない。そもそも、何のためにルミナはここまでの大けがを負ったのか、それを忘れてはならない。
「すまんかった」
少女を刺激しないよう、コウキは小声で謝った。今度は少女もびくつくことはなく、小さくうなずいてまで見せた。
「ふふふ……、コウキも、一人前に、自分の、悪かったところを、分かるように、なったんだね……」
ふとコウキの背後から、息切れしながらも皮肉る声が聞こえてきた。反射的に振り返ると、顔をしかめつつもルミナが肘で体を支えながら上半身を起こしていた。
先ほどまでは真っ青だった顔色も、少しはマシになってきているようだ。コウキが心配そうな顔で見つめているのに気付くと、バツが悪そうに苦笑いを浮かべた。
「まったく、私も仕方ない女だねぇ。弟子に、死ぬなって言っといて、自分は死にそうに、なってんだから。世話ないね、ほんとにさ」
ひどく傷むのだろうか、右肩を抑えながらルミナは続ける。
「馬鹿、俺はあんたのことは師匠として尊敬してるさ。たかだか一度くらいこんなことがあったって、それが揺らぐことはない。あんたの言ったことが間違ってるとも思わない。だから、もう喋らないでいい」
そっと寝かしつけようとするコウキの手をやんわりと退け、ルミナはなおも続けた。
「へましちまったのさ、私も腕が落ちたもんさね。気づけるポイントは、ゴマンとあった、なのに、気付けなかったんだよ……。あの時、あんたが、ウチのオフィスを出て行ってすぐ、二人組のハンターが、依頼受理に来た。その時に、思ったんだよ……。この二人の顔を、私は見たことがないなってね。それもそのはず、アイディーカードは、偽造されたもの、そして肝心の守衛は、殺されてたんだからね。狙いは、分かってる、ナミだよ……。ま、間一髪で脱出できただけでも、良しとしなくちゃ、たとえ肩をぶち抜かれたとしてもさ……」
普段からおしゃべり好きなルミナではあったが、今は変に饒舌だった。しかも、声にいつものはつらつとした張りがない。言葉が闇に解けていくかのように小さく、語尾が虚空にはかなく消えていく。
言葉を発するのさえ、かなり辛そうだ。だが、それでもなお喋るのを止めようとしない。
「コウちゃん、悪いけどあんたさ、ナミを守って、やってくれないか? あの子はねぇ、まだ何にも知らないんだ。どこにも、行ったことないんだ。びっくりするよ、雨を初めて見たのが、つい二、三日前だなんて。と言うより、青空を知ったのが、太陽を知ったのが、白い雲を知ったのが、ほんの最近なんだ……」
そこまで言って突然、がばりと体を起こし、コウキの胸にむしゃぶりついた。そして、普段なら決して見せないような鬼のような形相で、かすれた声とともに叫んだ。
「お願いだ、あの子に、あの子に世界を教えてやってくれ……!」
「ああ、分かった。何があっても、彼女は必ず守り抜く。だから安心して、おとなしくしておいてくれ」
そっと諭すように言うと、ようやく安心したのかがくりと力なく倒れて、ルミナはそのまま深い眠りについた。
「コニカ。今の音、聞こえたか?」
うとうととまどろんでいたコウキは、ふと何かの音を聞きつけ、隣で待機しているコニカに訪ねた。コニカは手短にうなずいて見せる。
「かすかな物音ではありますが、間違いありません。何者かが、このすぐ近くにまで侵入してきているようです」
さっと、コウキの表情に緊張が走った。今動けるのはコウキとコニカの二人だけ。ナミはこの暗がりで何も見えないし、たとえ見えたところで戦闘要員として期待するわけにもいかない。ルミナに至っては、右肩の負傷により、いまだに眠りについたままだ。彼女も戦力として数えることはできないだろう。
だとすれば、二人で彼女たちを守りながら戦うほかない。消耗戦はじり貧になるだけだ。なら、さっさと脱出の準備をする必要がある。場所が割れてしまった以上、隠れ家といっても安全ではないのだから。
「おい、ルミナ。おい。起きてくれ」
頬を二、三度軽くはたくと、小さくうめき声をあげて目を開けた。まだ本調子ではないのだろう、焦点が定まっていない。
「誰かがこの近くにまで侵入したみたいだ。早く逃げないと、手遅れになる。動けるか?」
「……、ああ。なんとか行けそうだよ」
壁に手をついて体を支えながら、ルミナはふらふらと立ちあがった。だが、言葉とは裏腹に膝は震えているし、とてもじゃないがまともに歩けるとも思えない。一体どうしたものか。考えていると、ルミナが部屋の奥を指差した。
「脱出口は、万一のことを考えて、部屋の奥にもう一つ、作ってある。地上まで、一息で到達できる、エレベーターを通してあるのさ」
確かに、ルミナの言うとおり、部屋の奥にはもう一つ扉があった。あれが彼女の言う、直通エレベーターなのだろう。扉を開けると、電気がまだ生きているらしく、赤々と中の明かりがついた。急に目に飛び込んできた光に目を細めながらも、ひとまずコニカとナミが乗り込んだ。
そして、ルミナを支えたコウキが乗り込もうとした時、今の今までふらふらに違いなかったルミナが、恐るべき力でコウキを突き飛ばした。予想だにしないルミナの行動に、コウキは耐えきれずによろけ、狭いエレベーターの中に倒れこんだ。
「ルミナ! なんのつもりだ!?」
思わずどなり声を上げる。だが、顔を上げたルミナは、晴れやかな笑みを浮かべていた。どこかに消えて、なくなっていってしまいそうな。
ゆっくりとした動作で、彼女はポケットから煙草のケースを取り出し、一本加えて先端に火をつけた。深く煙を吸い込み、そしてゆっくりと、すべてを吐き出す。
「残念ながらね、そのエレベーターは、三人乗りなのさ。というわけで、あんた達で、定員オーバーなわけ。私はここで留守番さ」
「そんな……!」
「…………」
コニカは悲痛な声を上げ、ナミは声を失くした。
「ちょ、待て! そんなことだったら、俺が!」
あわてて飛びだそうとしたコウキだったが、エレベーターのドアは非情にも、二人の間を断ってしまった。
「馬鹿だねぇ、あんたは。私が生き残るより、あんたこそが、生き残るべきなんだよ。覚えてるかい? ナミを守ってくれって頼んだ事さ」
ルミナのその言葉を聞いて、コウキは思わず息をのんだ。もしかすると、あの言葉を言った時にはすでに、こうなることを予想していたのではないのか? ここで自分が死んでいく覚悟を決めて、それであのようなことを自分に頼みこんだのではないか? もしそうだとするなら、自分はなんと鈍い人間なのだろうか。
隠し部屋の向こう側で、大勢の人間がうろつく足音が響いている。この部屋が見つかるのも、もはや時間の問題だ。
ルミナは最後の一服を終え、吸い殻を足元に捨てて足で火をもみ消した。
「コウキ、最後にこれだけは言っておくよ」
鋭いまなざしでコウキを見つめ、ルミナは言う。
「正しい行動かどうか、深く考える必要はない。そんなものは、誰か別の人間が判断するべきことだ。あんたはただ……」
――自分の行動に嘘をつくな。
ルミナがエレベーターの発進ボタンを押したのと、隠し部屋の扉が爆破されたのは、ほぼ同時だった。大勢の兵士が銃を構えて部屋の奥に立っていた、それでも最後まで、ルミナは透き通るようなまなざしでこちらを見つめていた。
上昇してゆく小さな箱の中で、三人は激しい銃声を聞き、そしてすさまじい爆発の振動を感じた。