偽りの愛など必要ありません。さっさと消えてください。
冷たい地下牢の岩壁に背を向けて、ミリアは大きく悲し気なため息をついた。
この地下牢は彼女の身長よりも遥か高い場所に、西向きの窓がある。
一日に一度、夕方になるとそこから柔らかな光が漏れてくる。
ミリアはもう何度それを数えただろうか。
十日か、二十日か。
三週間を超えた辺りから、虚しくなり、数えるの止めてしまった。
地下牢の窓の向こうには広く豊かな男爵家の庭がある。
そこで無邪気に遊ぶ、まだ幼い我が子の声を聞くことが、ミリアにとって何よりの救いだった。
物心つかないままのあの子たちは、新しい母親とうまくやっているのだろう。
そう思い、彼らの幸せを願うことで、元男爵夫人はどうにか心の平穏を保っていた。
◇
「ミリア、この毒婦め! 俺が留守にしがちなのをいいことに、他所の男を連れ込むとはいい度胸だな……。子供たちがまだ幼いというのに、母親の役割を忘れたお前など、もう不要だ!」
「あなた――っ?」
一ヶ月前。
元夫である、オーテス男爵はそう言い叫ぶと、平手でミリアの頬をぶった。
子供たちが寝静まった後であり、家人たちがいない寝室でのできごとだった。
男爵の怒りは一撃では気が済まず、ミリアの釈明を聞く気もない。
「私は子供達の世話でそんな暇はありませんでした!」
「嘘をつくな、お前が隣の伯爵家の息子ジョージと、二人きりで馬車に乗りいかがわしい場所に入っていったことを誰もが知っている。俺が誰からそのことを聞いたと思うんだ!」
「それは……」
「やっぱりそうか、この毒婦め! お前のような女がいるから、子供たちが幸せになれないんだ」
決めつけるようにそう叫ぶと、男爵はベッドの上に倒れ込んだミリアの両肩を掴み、自分の方へと引き寄せた。
がくがくと凄い力で前後に揺さぶれると、ミリアの心に恐怖が走る。
「離して! 離してください……っ」
身をよじりどうにか逃げようとしたが、男爵の指にこもった力は緩むことなく、更に両手首を掴まれてしまった。
逃げようのなさに、ミリアは自分の無力を知る。
結婚してから子供を産み育ててきた中で、初めての夫から受ける暴力に抵抗した。
激しい痛みが両手首に走った。
ミリアが腕を引き上げ、束縛から解放されると、彼は再び肩を掴んできた。
「自分の罪を認めずにまだ抵抗しようとするのか! とんでもない女だ」
「それは全部あなたの勘違いです! 伯爵家のジョージと馬車に乗ったことなんてこれまで一度もない!」
「まだ言うのか、そんなに俺を嘘つきにしたいのか? お前のせいで、陛下の目の前で、周りからさんざん笑われたというのに!」
そう言って男爵はミリアをベッドの袖の部分に叩きつけた。
背中を強く打ちつけられて、ミリアの息が止まる。
頭が地面にぶつけたボールのように、跳ね返った。
「どうして自分だけ正しいと思うの! 私の言うことをなぜ信じてくれないの?」
ミリアは叫ぶ。それは心からの怒りだった。
自分を信じてくれないことへの。ただ一人の愛する人間に裏切られ暴力を振るわれたことに対する、原始的な怒りだった。
だがそれは相手に通じることはなく、男爵はどこか皮肉そうに片頬を上げる。
それから手をふりあげ、拳をかためると、ベッドの上に倒れ込んだ妻の顔面に向かってそれを打ち下ろした。
ミリアの頭の中で金属同士がぶつかったような甲高い音がした。
鼻の奥に熱いものを感じると、それは鉄臭い匂いにすぐにとってかわった。
脳のすべてに浸透するような見えない手に掴まれて、意識がふっと途切れそうになる。
それはまさにミリアの幼い頃の記憶にある、母親を殴る父親と同じものだった。
「逃げたいか? 逃がすものか、俺は笑われたんだ! 陛下の御前で、お前のせいで不貞を問われた! 俺は馬鹿にされたんだぞ! お前のせいでな!」
二度、三度と遠慮のない暴力が振り下ろされる。
頭の中は真っ白となり、ミリアはどうにかもがいて助けを求めた。
手の届く場所にあった、陶製の大きな花瓶が指先に当たり、それをはたき落して床に落とした。
勢いと共にそれは床に叩きつけられて、盛大な音を残してミリアの助けを執事たちに知らせた。
執事と数名の侍女たちが寝室に割り込み、まだ彼女を殴り足りないと叫ぶ男爵を引きはがす。
「この魔女が! お前のような最悪な女は離婚だ! 地下でその罪をあがなうがいい!」
言葉を返す余裕もなかった。
そんなものが耳に入る余地すらなかった。
痛みに悶え苦しむミリアの顔は赤黒く腫れ始めていた。
唇はあらぬ方向に曲がり、鼻からは大量の出血をして、床の上には数本の歯が散っていた。
それほど男爵の拳は固く彼の怒りは激しいものだった。
その夜遅く。
ミリアは男爵邸の地下にある、罪人を閉じ込めるための牢屋に監禁された。
地下牢に押し込められて数日が経過した。
その日の夕焼けはあまりにも美しすぎて見ているだけで感動して心が泣きそうになる。
心が泣き、感情が揺れ、本当の涙が溢れてしまった。
それほど美しい光景だ。
心が洗われるようでぼうっとそれに魅入っていると、招かれざる客がやってくる。
元夫の男爵だ。
そばに若い女性を連れていて、彼女はミリアよりも清楚で可憐な儚さを含む、美しい女性った。
「再婚することにした。お前と離婚できて俺は今、とても最高だ。最高に幸せな気分だ。子供達にも、もっと素晴らしい環境で暖かい家庭を与えてやることができる。俺はお前以上に愛情豊かで優しく家庭を大事にする女性を妻にする」
「……勝手にすればいいではないですか。離婚され、こんな場所に閉じ込められて――今更、私に何ができるというの」
「お前は知らなければならない。俺が味わわされた悔しさと絶望を。あれだけ恥をかいた経験は初めてだ。お前には一生を以て償ってもらう。この地下牢でな」
「あなた。彼はこんな男性だけど、それでも愛することができるの? 元妻の顔を、こんな風に殴りつける男なの」
そう言って腫れ上がった自分の顔を晒してやる。
女は「ひっ」と小さく抜いて彼の後ろに隠れてしまった。
面白い。
心のどこかから悪魔の笑うようなそんな声が溢れてきた。
あなたもいずれ、こうなる。
彼によって弄ばれる。嘘偽りを叩きつけられて暴力を振るわれる。
そして今の自分と同じようになるのだ。いつの日か。
「怯えているじゃないか」
「本当のことを見せたまでの話。……子供達はどうするの」
「俺たちの子供として育てる。お前みたいな母親は二度と関わらせない。この地下で朽ち果てるがいい」
「……哀れで可哀想な人」
人というのは面白いもので、手に入れた幸せを誰かが壊そうとすれば必ず報復する。
それを奪われまいとして必死に抵抗するものだ。
元夫がいまはそうだった。
これ以上自分の悪いところを新しい妻になる女性に見せないようにするために。
「その忌まわしい口を二度と開けなくしてやる!」
「止めて、やめなさい! 止めて――っ!」
ミリアの悲鳴は聞き届けられなかった。
鉄柵の間から、長い棒を突き入れて、さんざんミリアの肉体を殴打した。
強く打ち据えられた左腕が上がらなくなったのはそれからすぐのことだ。
多分、骨が折れたか、ひびが入ったがそのどちらかだろう。
だけど助けてくれる者は誰もいない。
無慈悲な暴力を尽くした後、去っていく彼の後ろ姿に優しさはなかった。
新しく妻になるという女性はこちらを振り返りもしなかった。
「……示し合わせたみたい」
そんなことはないのだろうけれど。
でもそんな邪推が生まれるくらいは、二人の行動は奇妙で、おかしなものだった。
あらかじめこうすると決めて行動した結果のような、そんなものを彼らを共有していて、でも表面には表そうとしない。
ただ隠そうとしても隠しきれず、態度のどこかに不自然となって現れる。
そんなものをミリアは二人の関係に見出していた。
「最悪ね。私が裏切ったと見せかけて、本当は向こうが裏切ったのかも」
子供たちを守らなければ……。
卑劣な元夫と、それに付き従う新しい女から、愛おしい我が子達を守らなければ。
そう思うと、ほんの少しだけ力が湧いて出た。
折れた腕の痛みも我慢することができた。
それから後、数日おきに彼らはやってきて、あの長柄の棒でミリアを打ちのめし、その身になにがしかの怪我を負わせて気分を良くしては、戻っていった。
都合の良い、ストレス発散の道具にされている気分だった。
「このまま、死んでしまいたい」
二週間が過ぎ、三週間が過ぎ、胸の骨が折れ、左手は完全にいうことを効かず、右足の膝をひどく腫らせて、用を足すにも一苦労する、そんな頃。
またあの夕焼けのように美しい、幻想的な光景が目の前に現れた。
夕方にはまだ間があるというのに、牢獄の壁を破るようにして、明るい朱色の光が室内を満たしていく。
「死ぬ……、の?」
己の肉体が限界に近いことは悟っていた。
子供たちが発する無邪気な声に支えられて、どうにか生き長らえてきた。
でも、それもどうやらこれで終わりらしい。
最後の覚悟を決め、目を瞑って光の渦へとその身を投じた。
そして――彼はやってきた。
☆
『面白いものを見つけてね。君だよ、ミリア。あんな壮絶で凄惨な状況に置かれてそれでもなお、子供の事を考えている君に興味が湧いた』
「……誰?」
『ああ、名乗るほどの者じゃない。ただ単に、遥か昔にこの世界を作り旅立ったはいいものの、なんとなく懐かしさを覚えて戻ってみたら君を見つけた。それだけだ』
「つまり――貴方様は、神?」
『エルリオ、と君たちの宗教では呼んでいるようだけど?』
それはミリアが信仰している教えの中で、創造主たる神の御名だった。
『僕は退屈でね。しばらく君と遊ぼうと思う。手伝ってくれるなら――褒美を取らせよう』
「それはどんな……」
世界を統べる神の御名など知らなかった。
知ろうとも思わないし、知りたいとも思わなかった。
それを知ってしまうことで何かの形に利用されるのなら、知らない方がマシだった。
だけどそれは――ミリアの前にやってきた。
彼女の死と引き換えに……神は舞い降りた。
『例えばそう――あの日より少し前に戻って、人生をやり直すことができたら。君には新しい素晴らしい人生をプレゼントすることを約束するよ』
創造神エルリオはそう言い、無邪気な笑顔で、静かに微笑んでみせた。
☆
意識が激しくゆり戻される。
夫に殴られた時よりも激しい痛みを覚えて、ミリアはハッと目を覚ました。
覚醒。
眼前に広がる光景に見覚えがある。
そこはひと月ほど前彼から理不尽な暴力を受けたあの夜を過ごしたはずの寝室。
「まさか――。そんな奇跡みたいなこと……起こるはずが、ない」
壁の掛け時計が小さく、朝六時の鐘を鳴らした。
男爵は朝五時には目覚めて、宮廷に上がる準備に忙しい、そんな毎日を今日もしているはず。
寝起きの頭はぼーっとしていて理解が追いつかない。
牢獄生活で痩せ衰えたはずの自分の指が、左腕が、右膝が何の支障もなく動くことに違和感を覚えた。
それはまさしく健康そのものの、己の肉体だった。
「エルリオ様。どういうことですか……」
ベッドの天蓋に向かい天を仰ぐようにしてミリアは懇願する。
この状況をうまく説明してほしい。
誰か分かるようにちゃんと教えて欲しい。
そう思っても何の返事も返って来なかった。
ただ自分が発した言葉が、天井の木材に吸い込まれていただけだ。
「いま、何日!」
思いがけない出来事に人が呆然となるようにミリアもまた、最初はそうだった。
それから神との会話を思い出しようやく大事なことを忘れそうになっていたと反省する。
そう思ったらまず確認しなければいけないこと思いついた。
今日の日付が何日なのか。
あの問題が起こった日から何日あとなのか。
それとも何年も前に戻っている?
「奥様おはようございます。そのままの姿では、お召し物をお持ちしますのでお待ちください」
「ベッキー……。まだいた、のね」
「はい? 私は五年前から変わらずこの屋敷に奉公させて頂いておりますが」
そう告げると侍女はきょとんとした顔をして、首を傾げる。
まるであの夜のことを何も知らない、そんな雰囲気だ。
いや、もしかすれば何も知らないのかもしれない。
まだ起きてないのだとしたら……その可能性は大きい。
「あーその。そうね、まずは着替えなきゃダメね。子供達はどうしてるの?」
「お二人ともまだお休みになっていらっしゃいます。起きるにはもうしばらく時間がかかるかと。まだ四歳ですし」
「ええ……そう、ね。着替えましょう。用意をして。あの人は?」
「旦那様は今お忙しくなされております。いつものように朝食は別に。そのままお城に向かわれるかと」
男爵のいつものローテーション。
ミリアはそう思った。
あの牢獄で出くわした女の影も形も、ここにはないようだった。
子供たちが四歳?
それはいつの四歳?
彼に会ってすべてを――確かめよう、と思ってハタ、と気付く。
もしもこれが何かの間違いで、出くわしてしまったらまた暴力を振るわれるかもしれない。
今日はいつものように慌ただしく出かけていく彼の馬車を見送るだけにした。
男爵の出発を見送ると、ミリアは即座に行動に移った。
子供たちの部屋を訪れる。
そこにはお腹を痛めて産んだ、年子の我が子がいた。
三歳と四歳。
どちらも男の子で、長男のほうはすでに起き出して、侍女のベッキーをなにやら困らせている。
襟付きの開襟シャツを着るのが嫌でぐずっているのだろう。
喉が締まるからと彼はそれを拒絶する。
毎朝の光景だった。
「レットー、ディーリア」
子供たちにまた会えた感動が、心を埋め尽くした。
泣きだしたい一心を抑えて、そっと長男を抱きしめる。
子供だからか、感受性の強い彼は「お母様?」といつもと様子が違う母親の素振りに、首を斜めにする。
黒く巻き毛のそれが、自分の頬を柔らかく打ち、これがもし幻であっても再会できた喜びを、エルリオに感謝した。
「はい、レットー。お母様はここよ。ベッキーを困らせてはダメ。いいですか」
「……変なお母様。分かったよ……着ます」
「そうね。それでいいわ。賢い子」
ちょっとどこか不満そうな顔をして、しかし、長男は母親に逆らわない。
貴族の子供はみんなこうだ。いや、この国の子供は基本的に親に逆らわない。
そして、親は子供の為に最良の縁を考え、よき人生を送れるように支え見守る責任がある。
――だからこそ、親はそのために尽くさなくてはならない。
どこからか、そんな声が聞こえた気がした。
それはあのエルリオの声にも似ていた。親は子の為に……。
「レットー。ディーリアを起こして、食事をなさい。それから、家庭教師の先生がいらっしゃるまで、お母様と本を読みましょう。いいわね」
「お母様が読んで下さるの?」
普段からそんな過ごし方をしたことがなかった息子は、途端、よろこびに顔を満ち溢れさせる。
常日頃から子供たちに寄り添っていなかったわけではない。
領地に関する公務など、まだ結婚して五年目のミリアには、起きてから寝るまで、多忙な予定が待っている。
それは宮廷で働く男爵に比べてみれば、大した量ではないが彼女にしてみれば、子育てと両立させるのはとても難しい毎日の課題だった。
「お母様も幾つか用事をすませてきます。ゆっくりと食事をしていいわ」
「……一緒に」
長男はどことなく寂しそうにそう言った。
家族揃って朝食の席を囲うことは貴族の習慣でもある。
しかし、その席の主である男爵は既に家を出ていて、ともに食卓を囲む部下や家人たちも今はいない。
残された妻や子供達は各自の部屋でそれぞれに食事を取ることが当たり前だった。
「まずは、着替えを。お兄さんらしく弟起こしてちゃんと面倒見てあげて? それができたら一緒に食べましょう」
「はい!」
再び満円の笑みを作るとレットーは、侍女と共に弟を起こしにかかる。
その間に男爵の書斎でカレンダーを見、今朝の新聞を用意させて、現在がいつなのかをミリアは自分の中で確定させた。
今は、四日前だ。
日時が不明な牢獄の中での四日前ではなく。
生まれて初めて夫に殴られたあの夜の四日前。
それが、今日。
夫に初めて振るわれた暴力の恐怖を思い返しながら、ミリアは窓から外を見上げる。
「九月二十日……夏祭りの前だわ」
燦々と輝く朝日を打ち負かし、ミリアの不安を描き出したように黒く彩られた雲が、重く静かに東の空から視界を埋め尽くしていく。
夏祭り。
会ったことは数回程度の伯爵家令息ジョージ。
身に覚えのないことながら男爵はそう言った。
若い彼と共にいかがわしい場所へ、馬車に乗って入っていた、と。
もしそれが可能なのだとしたら……。
そこまで考えたとき、寝起きの不明さから元気を取り戻した息子達が、書斎の入り口を跨いでいた。
子供たちと手を取り合い、陽が翳ったことで、過ごしやすくなったから、一階のテラスで食事をした。
庭に青々と生い茂る腰の低さ程度のプラタナスの葉が、先の方から黄色に色を変える季節だ。
秋が来ようとしていた。
そして時間は少ない。
子供達をやってきた家庭教師に任せると、ミリアはなぜあんなことが起こるのか、濃いコーヒーを淹れさせて、ゆっくりと考えた。
それは思考することを止めていた牢屋の中ではできないことだった。
もっとも地下のあの部屋の中では、まともな食事は与えられず暴力も続いたために栄養不足で考えることすら辛かったのだが。
健康な今なら、まだどうにかなるような気がした。
「あの女が誰かを突き止めよう。多分それが一番早いわ」
どう考えてもこの半年の間で会ったことのない相手。
伯爵令息ジョージについて考えるのは馬鹿げている行為だった。
しかし誰があの女について知っているだろうか。
地下に閉じ込められた翌日。
食事や水を運んできた家人たちに聞いても、誰も知らないと首を振って答えた。
初めて見る相手だと、ミリアの惨状を嘆きながら、そう教えてくれた。
「……あれは嘘じゃない。家人達はみんな知らなかった。ならどこで出会ったの……」
男爵の書斎に移動し、いつも通り公務という名の奉仕活動を始めた。
まがりなりにも、男爵は貴族だ。
妻ですら知らない女をいきなり後妻に迎えることは、そうそう容易いものではない。
その程度のことは、世情に疎いミリアでも知っていた。
結婚した時に互いに誓約を交わしたし、契約書類も教会と貴族を管理する、貴族院に送付した。
それは今でも効力を持っているはずだ。
前世ならばともかく、離婚にすら至っていない今なら、それは確実にあるはずだった。
「あの女……子供達とあれほど親しく?」
母親がいきなり亡くなった翌日、子供達の嬉しそうにはしゃぐ声が庭から聞こえてくる。
そんなことは普通ありえるのだろうか。
牢屋にいたのでは気づかなかった当たり前の疑問が次々と、脳裏に湧いてくる。
同時に働くことのなかった頭が、清水を湧き出すかように解答を導こうとしていた。
「騙された? いいえ、違う。ベッキーたちは私の事情に気づいて知っていた」
夫婦それぞれの両親たちが、そんな異常な状態を許すだろうか。
それはないだろう……何より伯爵家の仕事はなっていない。
男爵家の上司に当たる伯爵は、部下である男爵を管理しなければならない。
そうなると妻の不貞を理由にいきなり離婚をし、新しい女を家に入れて、安穏と時を過ごすことなんて、出来るはずがない。
誰かが味方をしたのだ。それもとても強力な力を持つ誰か。
それはつまり――。
「親は子供のために最善の方法を尽くさなければならない」
自らの息子であるジョージのために伯爵は男爵家を、切って捨てたのだ。
そこまでは理解が及んだ。
そして見えなかった糸がなんとなく繋がった気がした。
犯人とまではいかないかもしれない。そんな目星はまだ付いてない。
ただ、あの女。
名前すらも教えてくれなかったあの女。
彼女の容姿は……近所だということもあり、教会で幾度か言葉を交わしたあの青年、伯爵令息ジョージによく似ていた。
一日目は取り立てて成果があることもなく、それまで暮らしてきたと同じ普通の日常で幕を閉じた。
公務で疲れ果てたのだろう、男爵は寝所に入ると間もなく健やかな寝息をたてて眠りに入る。
ミリアの頭の中では、夫の書斎から引っ張り出して三代に遡り記憶した、伯爵家の家系図がこびりついて離れない。
何度も確認し、間違いないはずだった。
現在の伯爵に娘はいない。
あの女は自分とそれほど年が離れてないようにも見えた。
そうなると十代後半か、よくて二十代前半。
それより後になれば老化は一気にやってくる。
一回り程年上の夫である男爵には、それくらいの年齢の女でも、若く見えるのかもしれないが今はどうでもいい。
関係のない話だ。
どこからか流れてきたその思考を、頭を振って追い払う。
そうしたら視界にあの花瓶が飛び込んできた。
「……嫌な感じ」
いや飛び込んできたわけじゃない。
まだ割れてないだけだ、あと三日したら割れる。
自分が割ったのだから、それは間違いないことだった。
ふと、つまらない妄想を思いつく。
「これ落としたら――全部終わらないかしら」
気持ち良さそうに寝ている夫の頭の上に。
不慮の事故に見せかけて彼を永遠の眠りに誘えば、友達は悲しむだろうが自分は救われる。
そんなとんでもない妄想にふと、手を花瓶に向かい伸ばす。
掴もうとした、その時だ。
またあの声が、聞こえた。
『罪のない者、まだ罪を犯していない者を、手にかけたら子供が悲しむだろうね』
「――っ! エルリオ様……どこに?」
返事がない。
空耳かと思えば、彼は男爵の枕元に、まるで死神が立つようにして、宙に浮いていた。
非日常的な光景の前に、「ひっ」と思わず悲鳴が口の端に上がる。
エルリオは少し残念そうに笑い、それから言った。
『もう少し後になって彼の罪は決まる。ああ、いまは眠らせてあるから、どんな大声で叫んでも誰も気づかないよ。家の者も寝かしつけてある。子供達も』
「……子供を人質に取ったような言い方をしないでください。あの子達に罪はないいのですから……!」
『そんなつもりはなかったんだけどね。それより家系図に記されない方法もあるんじゃないのかな』
「えっ――。どういうこと?」
『例えば誰かの愛人とか。どこかで、よその女に生ませた子供とか、ね。そういった噂は口さがない、侍女たちの方が詳しいだろう?』
「明日になってみんなに確認しろ、ということですか。そんなことをしたら夫にバレて、また同じように牢獄行きだわ。生き返らせたのなら、その責任を取って欲しいところです」
さらに困ったようにエルリオは口元をほころばせた。
まるでミリアの言い分に賛同しているが、それを認めたくない。そんな感じだった。
『君は愛している男の別の顔を、知りたいと願うのかな? そんなことしなくてももっと賢い方法があるだろう。例えばあの女……伯爵の私生児を遠ざけるとか。息子と会って、協力を求めるとか。上司はそんなためにいるんじゃないのかな』
「それも考えましたけれども、時間が足りません。何より証拠もない。それに夫があの女を迎え入れたことが理解できません」
『言い方が悪いけれど、君よりも相手を愛していたからに他ならないんじゃない?』
「そうではなく――それは可能性が十分にありますが、今、言いたいのはそこではありません。彼が気づいていないということに私は驚いているのです。こんな私ですらも、たった一日で考えつくことなのに」
寝るための肌着の胸元をそっと引き寄せてミリアはエルリオに語った。
神はそれを気にしないのか、視線はずっと上から見下ろしたままに、うん? という顔をする。
彼が隠している、新しい面白いことに、気づいたか。
そんな顔だった。
ミリアは言葉を続ける。
「伯爵様は我が家を乗っ取るつもりではないのですか。娘を使い夫を篭絡し、宮廷で夫を侮辱して、私に罪を擦り付ける。子供達にはうまく言い含めたのでしょう。それにしてもそんな簡単に……」
母親の事を忘れるものか。
そこだけは納得がいかない。
どんなに大人が言い聞かせようとしても、子供は素直なものだ。
今朝だって、ミリアが表に出すまいと必死に隠していた、子供たちに会えた喜びの感情に息子たちは聡く気づいていた。
父親が母親に悪いことをしたら彼の後ろめたさと、新しい妻になったあの女性の心の醜さも、子供に何かを気づかせるはずだ。
けれども、地下に閉じ込められていた一月近くの間、毎日のように子供たちのはしゃぐ声は絶えないでいた。
それもまた不可思議なものの一つに思える。
『それは正しい推測かもしれない。ついでに言うと子供の声というのはよく似ているものがある』
「……」
『彼らの声が君の子供の声とは限らないかもしれない』
残酷な一言だった。
ならばあの子供達の声は誰のものだというのか。
自分のお腹を痛めて産んだ子供の声を母親ならば聞き間違えるはずがなかった。
「それは信じられません」
『伝説の中に子供を食べ、食べた子供の姿形そっくりに真似て親を騙し、その家に潜り込んでしまう妖精の話があってね。そう……こんな古い歴史を持つ屋敷がその舞台だったりする』
「待って!」
『安心していいよ。彼らはまだこの家に入り込んでいない。でも近いうちに来るだろう。魔女とともに』
神の神託は絶対だ。
神、エルリオは楽しそうにそう言った。
一つの家族の危機も、創造主にかかれば単なる娯楽になるらしい。
そこはかとなく漂う、弄ばれる感覚に、怒りを覚える。
エルリオはそのことに気づいたのか手を一振りした。
そこには、燭台に似た何かがあった。
それはチェスの駒にもよく似ている。
王の、キングの駒みたいだった。
「何? 燭台ですか……?」
『剣だよ。そうは見えないかもしれないが、きちんとした剣だ。それで打ち下ろせば、魔は祓える。退治できる。やり方はわかるだろう?』
「夫が私にしたように……?」
『そうその通り。よくわかってるじゃないか。そうすれば妖精は哀れ、焼け焦げた肉片となるだろう。魔女が悲鳴を上げてどこかに消えるだろうね。そして、二度とやってこない』
「なぜそう言い切れるのですか。悪魔のような相手なら執念深いはず」
『それほどの力を残さないからだよ。後はウジ虫のように這いつくばりどこかで悶え死ぬばかり。あの牢獄の中で君がそうされたように――今度は、分かるな、ミリア』
エルリオの言葉にミリアは静かに肯く。
手のひらの中に収まるそれを、そっと手にした。
この大きさなら、ポケットに入れて持ち運ぶのも楽だと思えた。
でもどこで使えばいいのかしら、と眉根を寄せる。
魔女と呼ばれたあの娘。
彼女と初めて顔を合わせたのは、鉄格子の向こう側だ。
何も手出しができない状況に陥っているそんな時。これを振りかざして魔女を打ち祓うのは、随分と難しい気がした。
「どうすれば、いいのですか」
『そこは自分で考えてくれよ、と言いたいのだけれど。まあ時間も短い、特別だよ』
「こんな切羽詰まった状況に陥っていなければ、神に助けを乞うことなどありません」
『それは確かに正論だ。まあ、君の敬虔な信徒ぶりに免じて……知恵を与えるとするか』
「いえそれだけでは」
『うん?』
エルリオはミリアの言葉に得心がいかなかったらしい。
どういうことだ、と問いかけてきた。
「私のことはどうでもいいのです。子供達に祝福を与えていただきたい……。あの子達が迷うことなく人生を全うできるよう、創造主の加護をいただきたいと思います」
『贅沢な望みだな』
「心得ております」
『なぜ自分を大事にしようとしない。それほどまでに子供が大事かい』
「……この命に懸けても。あの子たちを守り抜きたい。母親ならば誰でもそう思うはずです。母ならば」
『不思議な感情だ。世界を作り人間を作って多くのものを見てきたけれど、僕は知らない感情だ』
納得のいかない顔をするエルリオに、今度は逆にミリアが諭すように言った。
この不憫な孤独の神々の王様にも、いつかそんな女性が現れて欲しいと、願う。
それはどんな想いよりもエルリオに届く、愛のささやきだった。
「あの子達を守っていただけるでしょうか」
『子供という意味であれば妖精だって魔女の子供だ』
「え……?」
『同じ胎を痛めて産んだ、そんな存在だよ』
「……」
その後に続くエルリオの神託に耳を傾けながら、ミリアの心には複雑な想いが渦巻いていた。
ミリアは、それから三日を過ごした。
夫とともにする夜は不毛だった。
だが、彼は国王陛下も観覧に訪れる王都の夏祭りの調整で忙しいらしく、連日連夜、早朝に出仕しては深夜の帰宅で、夜の営みを求められることはなかった。
……もっとも、求められたとしても、頑として拒絶しただろうけれど。
彼の忙しさに妻としても応えなければならなかった。
夫より早く起き、彼よりも遅く眠る数日。
昼に少しだけの睡眠をとり、他は公務の代わりを担った。
そうして、夏祭りの前夜が来た。
『さて。大変な日々を過ごしたようだけれど、体調はどうかな?』
二日ぶりだというのに、現れたエルリオと会話を交わすのは、もう何年もやっていなかったように感じられた。
今夜はいつもと違い、不敵な笑みをたたえている彼は、神よりも神らしく、自然の猛威を体現しているかのように神々しい存在だった。
「明日はご期待に沿えると思います。というよりも……以前に経験した日々ですから。次に何が来るのかよくわかっています」
『自分の前世に感謝するべきだね。やっぱり魔女は現れなかっただろ』
大げさに肩をすくませて彼は言った。
ミリアの予測ではこの数日の間にどこかで魔女がやってくるのではないかと、そんな気がしていたのだ。
しかし、それはないよと前回、神は言って去っていった。
「どうして未来がわかるのですか。そんなものがわかるのならばもっと早く……」
『あいにくながら物事には法則というのがあってね。一度作ってしまったら僕にだって止められないものなんだ。逆に言えば君たちの方が、より動きやすい。その法則の中に生まれた存在だからね』
「神はずるいと思います」
『世界を生んで随分と時間が経つけれど。僕にそう言った生意気な口を利いたのは君が初めての女性だよ。君と出会ってから、僕には驚きの連続だよ』
「それは、申し訳ございません。でもあなたもこの現実を楽しんでいらっしゃるでしょう?」
『否定はしない』
言い当てられたような顔をして、エルリオはまた肩を竦めた。
それから明日についての神託が開始された。
「――では、国王陛下に直訴しろ、と?」
『そうだね。君たちの法律だ。君たちの法則で正しい裁きを下した方がいい。神の力を使ったら一瞬は勝てるが、それは永遠ではない。子供たちの死ぬまでの期間は続くかもしれないけれど、子孫は必ず損をする』
「しかしこの三日間、私は私なりに多くのものを探ってきました。侍女たちの噂話に交じったり、伯爵家の家令がやってきた時は、挨拶代わりにあちらの様子を窺う質問もしました。けれど、外に出られないのは大きな問題です」
貴族の女は屋敷から滅多に出ることができない。
それが叶うのは教会で祈りを捧げる時か、明日のような社交界のパーティーにも優る、イベントの時だけだ。
不自由なものだった。
『そうだろうね。だから余計なことをするなと言ったんだ。君は動けない。まともに外に出ることもできない。夫がいなければ何の自由も与えられない。それが貴族の女性だからね』
「ですから! 神のご意志に背くようなことは致しておりません」
『それは知っている。そんなことをしていたらここに僕は来ないよ。焦りと不安を押し殺して、子供のためによく我慢できたと褒めてやりたいくらいだよ』
「それはあの女が消えてから、きちんと、いただきたいと思います」
冷静に返すミリアの言葉を、面白いと感じたらしい。
エルリオは肯くと、ひとつの知恵を授けた。
エルリオの神託に間違いはない。
迅速で的確なアドバイス。
そして、確実に敵を仕留めることのできる、そんな内容を授かった。
『明日の朝起きたら、男爵が宮廷に向かう前にこう訊くんだ。「伯爵家のリリス様が最近、噂に名高いと評判だけれど、ご存知でしょうか」とね』
「リリス……?」
ミリアは眉根を寄せ訝しむ。
それはつまり、あの魔女の名前だろうか。
だが、どんな風に名高いというのか。
『君の宿敵になる魔女の名前だよ。それくらい知っていても悪くはないだろ。ついでにこういったものもある』
ミリアの目の前に何枚かの紙片が落ちてきた。
それはここ最近の新聞記事を切り抜いたものだ。
どこからこんなものを? そう驚く彼女に、エルリオは黙秘を行使する。
「ティド伯爵家のリリス様。海外の留学から帰国……。優れた歌の才能を活かし夏祭りの舞台でオペラを披露することに? 魔女がオペラを歌うのですか? 聖なる楽曲も含まれるかもしれないのに?」
呆れた話だ。
神をも恐れぬ行為というのは、こういうことを言うのかもしれない。
いや、まさしくその通りだった。
『一般の読者が読む芸能欄に目を通していればそれは分かったはずだよ』
「貴族の記事ばかりを追いかけてました」
『君はそれほど世間知らずだということだね』
どこか勝ち誇ったように神様は言う。
ミリアはむっとしながら、「それでどうすれば」と問いかけた。
十六歳で嫁いできてから、五年。
実家と教会と、夜会とこの屋敷の往復程度しか、ミリアはしたことがないのだ。
それは仕方ないではないか。
改めて神を意地悪だと評価した。
「それを質問したら、何がどうなると?」
『怒ったかい? 済まないね、他意はないんだ。男爵は会おうとするだろう、魔女と連絡を取りたいはずだ。自分の不貞行為がバレたかと思うだろう』
「……そう上手く行くでしょうか」
自分の声が硬さを増したことに、ミリアは気づいていた。
唯一の味方だと思っていた神から理不尽ないじめを受けたのだから、当然のことだ。
エルリオは不自然にそっぽを向いた。
『男とは愚かなものなんだ』
「神の半身でもあらせられます」
嫌味が熱を帯びた。
エルリオはこんな雰囲気に慣れていないらしい。
慌てたようにして、フォローに回る。
『しかし、君のように、母性の塊のような勇気ある行動も、また僕の半身だ。それは誇らしいものだよ』
「……どうだか。このまま、頭を割ってやりたい」
その花瓶で、と夫の頭部を比べながら、物騒なことを口にする。
自分に向けられたものではないことを理解しつつ、エルリオは頬をひくつかせた。
『今は賢くない。男爵には何も非がない。少なくとも、君は明確な証拠を知らないだろう』
「男は思い込みで女を殴れるのに。理不尽だわ」
『とにかく、それを言うんだ。そして、時を待て。彼は必ず魔女に逢う。会いに行く。そこを撃退するんだ』
「これで打ち下ろせばすべて済む、と?」
『目の前に現れた魔物の残骸を知れば、国王だって文句は言わないだろうさ』
つまり、魔女の魔の手は伯爵家や男爵家を足掛かりに、国王にまで至る寸前。そういうことになる。
夜明けの太陽が夜の闇を吸い込み始めた頃、ミリアは夫に向かい、雑談交じりにリリスのことを口に上げた。
終わりはいつも明確だ。
まだまだ活発に動き続ける現在にそっと止めを刺す。
仕留めたらそのまま放置せず、どこか無明の果てに亡きがらを捨て去ってしまう。
そして、人には記憶だけが残るのだ。
「子供達を連れて夏祭りを観覧させたいのです」
「なんだと?」
前回も同じセリフを口にした気がする。
あの時は「リリス」なんて単語は知らなかった。
今は知っている。
遠慮することなくそれを告げた。彼女の評価とともに。
昨夜、神が置いていった新聞の切り抜き等とともに。
男爵の顔はみるみる間に青ざめていく。
「あなたどうかしましたか?」
「いや、なんでもない……。人混みが多い、子供には向いていないんじゃないのか」
「しかし経験にはなると思います。幼い頃に良い思い出をたくさん作ってやりたいのです」
妻にそう言われたら夫として肯くしかできない。
彼はなぜかがっくりと肩を落として、「貴族席を用意する」とだけ言い、足早に出かけて行った。
やはり神の言うとおり。
彼と彼女の不貞は、もう始まっているらしい。
その背中を馬車とともに見送りながら抑えようのない虚しさが、激しく吐き気を催させる。
ポケットの中の剣を握りしめて、それを我慢した。
あと少し。あと少しでこの嫌な夢も終わるのだ。
そうすれば子供達には神の祝福が与えられる。
自分はどうなっても――。
それだけが、その望みだけがミリアを突き動かしていた。
太陽が吐き出した真昼の熱気を吸い込みむようにして、今度は東の空から昇ってきた月が冷たい夜の始まりを告げる。
ブナの街路樹がひしめき合う人々の上に人工の明かりを受けて、様々な影を落としていた。
王都の中央に位置する広場に平民から貴族まで、夏の終わりを告げるこの時期を楽しもうと、押しかけていた。
宮廷魔導士達が打ち上げる、色とりどりの花火が、夏の思い出となり、夜の星空を切り取っていく。
やがて国王が祭りの始まりを告げ、盛大な管楽器の音色と共に、さまざまな店が街路を埋め尽くすようにして、客寄せの声を上げる。
その中を、河川沿いに設えられた貴族たちの特等席に向かい、ミリアは視線を向けていた。
レットーとディーリアは共に連れてきた執事や侍女たちに任せ、自分は夫を労ってくると告げて席を立つ。
後ろには侍女のベッキーが続く中、エルリオが指定したとおりの時間とその場所で、男爵が派手なドレスをその身にまとった化粧の濃い美女と、会話をしているのが目に入った。
「リリス……」
小さく呻くように魔女の名前を口にする。
やはり神の神託は間違っていなかった。
神々の王がどんな気まぐれで自分に情けをかけたのか知らないけれど、今この場においてそれ以上に頼れるものがない。
「あなた」
こちらに背を向けて話し込む男爵に向かい声をかけてみる。
その向こうで明らかに動揺した表情を浮かべる彼女は、記憶にある忌まわしいあの女に違いなかった。
近寄って挨拶をし、さも親しげに。
彼女の事もその才能も、これまでの経歴を高く評価するように、ミリアは偽りの微笑みを向けてやる。
相手からしてみれば裸足で氷の上に立たされた気分になるだろう。
それはこれまで散々にいたぶられた仕返しにもなっていて、どうにも心地が良い。
男爵がさっさと話を切り上げようとするのを邪魔してやる。
彼が、夏祭りの準備に奔走してきたこれまでのことを事細かに、詳細にリリスに説明し、その働きを褒め称えてやる。
あなたよりも私の方が彼にふさわしい。
嫉妬と嫌悪の感情をより強くさせるように、ミリアはそう述べて夫を褒めてやった。
目の前で二人の女の間に立ち、右往左往して、普段威張り散らす顔はどこにいったのか、哀れな男はその場所でただ嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
「奥様。そろそろ舞台がございますので……」
「あら、そう。では贈り物がございますの」
逃げるようにその場を立ち去ろうとする彼女に向かい、手元にそっとしまった剣を掲げるようにして持ち上げると、ミリアはそれをリリスの顔面に向かい、激しく打ち下ろした。
宮廷魔導師の打ち上げる巨大な花火が空を舞った。
大砲のように凄まじい破裂音が、夏の夜空を彩る。
黒い光の中に染み込むようにしてそれが消えた後。
ミリアの足元に転がるのは人間のそれではなく……。
美しく着飾ったドレスを所々焦がし、全身に火傷ではなく青黒い肌をあらわにして、剣に打たれた場所を押さえ苦痛にのたうち回る、一匹の魔獣がいた。
女の姿を模している物の、それはどう見ても人のそれではなく、蛙のように醜い、浅黒さをまとった魔物の顔だった。
「よくも……」と悲鳴のうちに憎しみと怒りを交差した声が上がる。
『もう一度、打ち叩け!』
エルリオの声が、指示となって脳裏に響いた。
ミリアは迷わず正確に額を狙い、それを振り下ろす。
カエルを締め上げたような断末魔を残して、魔女はその場に崩れ落ちた。
「リリス!」
「触らないで!」
男爵が悲鳴を上げる。
愛する女に駆け寄ろうとする彼を妻は非情な声でその場に押しとどめた。
「こんな女とよくも不貞を……っ、愚かしい男! ……かわいそうな人!」
「お前! どうしてこんなこと、お前こそ。一体何が起こったんだ。リリスはなぜ、こんな姿に変わり果てた! まさか……」
お前が魔女なのか。
その一言を言わせる気はなかった。
先にそれを言われてしまったら、すべては水泡に帰す。
ミリアはこちらに向かい何事が起こったのかと、興味の視線を彷徨わせる人々の中に、最も高貴な存在を見つけていた。
「陛下! この女は魔女です!」
「なんだと? お前は気でも狂ったのか」
男爵がそう叫んだとき、リリスが最後の呻き声を発した。
それと同時に雲間が急遽かげり、天空から数条の稲妻が地上へと迸る。
それはミリアを守るようにして、リリスを焼き、国王の周囲にあった何もない空間を絡め取る。
するとそこには数匹の、リリスを小さくしたような醜い魔物の焼け焦げた死体が遺された。
「陛下! 神が私を導かれました。これは伯爵家と夫による陰謀です。魔女にそそのかされた、愚かな者たちが企んだことにございます!」
「黙れ、この毒婦が!」
人生において二度目に夫から振るわれる暴力だった。
ミリアが過去を思い出して、思わず目を瞑り、あの痛みと衝撃に耐えようとする。
だがその拳が彼女に触れることはなかった。
恐る恐る目を開けると、男爵の腕を掴む人々がいる。
それは国王の命令にのみ従う、近衛騎士と宮廷魔導師たちだった。
「……そうではないかと疑いをかけて見ていたら、まさか」
「陛下……それでは」
「しばらく前に神からの神託が教会に下されていた。しかしそれが誰によって暴かれるのかまでは……」
と、呆然として己の身分すら忘れ、ミリアは国王に問いかける。
彼ではなく答えたのは近衛騎士の一人だった。
しかしそれでも疑問を解くには十分な回答に、ミリアは納得する。
みすぼらしく男爵が吠えた。
「お前は夫を裏切るのか! 子供たちの未来を考えたことはないのか――!」
そう言い募る男爵は情けなくもみすぼらしい。
どうしてこの男を愛したのかと、思わず自らを顧みるほどだ。
子供たちを口実に出され、無性に腹が立つ。
陛下の前だろうが関係ない。
毅然としてミリアは絶縁宣言をした。
「偽りの愛など必要ありません。あなたは自ら行った罪の償いをするべきなのです……さっさと消えてください」
「ミリア!」
男爵が縋りつくようにそう叫んだ。
ミリアの心の中に彼に対する愛情はひとかけらも残っていない。
さよならと一言、挨拶をしてくれてやる。
偽りの愛に負けた男はガクンと首を落すと、それ以上、何も発することなく、衛兵に連行された。
最後に大きく、魔法ではない雷光と灼熱の大火が猛然として吠え、夜空を彩る。
それを見て、ミリアは神が……エルリオが子供たちに祝福を与えてくれたのだと、理解した。
☆
国王から歓待を受けることはない。
使者がもたらされ、十分な感謝の言葉と共に、金貨と褒美の品が与えられる栄誉に預かれる。
ただ、それだけだ。
男爵という地位は、それほどに低い。
王族がわざわざ出向いて厚く遇するなど、夢のまた夢に近い。
「陛下から、希望があれば訊いてくるようにと、申しつけられております」
使者となって来たのは、内務大臣の妻でもある、侯爵夫人だ。
見るからに豪奢な装いで現れた彼女と、身に纏う質素なドレスを無意識のうちに比較している自分を、ミリアは恥じた。
自分は神から与えられた命令を全うしたのだ。
これはたまたまやってきた副産物。
贅沢を望んではいけない、と自戒する。
「――どんな希望でも宜しいのですか」
「ある程度なら、ですけれども。一応、伺いましてよ」
侯爵夫人は優雅に羽飾りのついた扇子で自ら扇ぎ、そう言った。
口元をそれで隠したのは、下級貴族がどんな望みをするのか、表情につい出てしまった嘲りを隠すためかもしれなかった。
ミリアはあらかじめ考えていたことを願いでる。
「……伯爵家との縁を切り、侯爵様の配下へと」
「それは現実的ね。陛下をお救いした神の使徒が手に入るなら、安いものだわ。もっとも、伯爵家は廃絶になるでしょう。あのような忌まわしい魔女をこの世に産みだしたことだけでも、罪に値する」
「他にも」
「いいですわよ。おっしゃってみなさいな」
「子供たちの学院への入学を、お願いしたいのです。後見人に侯爵様が立っていただければ、それだけで我が家の将来は安泰です」
「それは――後見人は、いずれ相応しい格式ある家柄の者を据えましょう」
「そう、ですか」
侯爵はこの国で王族以外でいえば、五指に入る実力者だ。
彼の後ろ盾があれば、子供たちの苦労も少ないと思われた。
それが難しいのは、やはり、下級貴族という身分のせいか。
自分のした行いに相応しい褒美とは何なのか。疑問に感じるミリアだった。
続く侯爵夫人の言葉に、心配は杞憂に終わる。
「教会が貴方を欲しています。そこには関わらないように」
「えっ……どういうことでしょうか」
「王よりも法王が強い政治など、陛下は望んでおられない。そういうことです、誓えますか? 誓えるならば、学院はおろか、その後も侯爵家が続く限り、支援は怠りません」
驚きだった。神は王を救おうとしたのに、法王と王が権勢を争っているなんて。
自分が政治のよい駒にされそうになっていることを、強く自覚する。
教会に向かって神と言葉を交わした、などと発言すれば、下手をしたら宗教裁判だ。
神託を受ける相手は法王。そう決まっているのだから。
「私は王国貴族ですから。陛下への忠誠を誓います」
「そう。それならば、安心ね。お子様たちの就学だけれども……」
と、侯爵夫人は言葉を切った。母親の顔つきになり、何かを思案する。
提案は同じ母親の目線からのものだった。
「国内にいては利用されやすい、とも思うわ。貴方がこれからどのような再婚相手を選ぶか、女男爵として生きるかは自由だけれど、国内で学院を運営するのは教会だし。帝国辺りに留学だって――ね」
「しかし、それでは離れてしまいます」
「あら。御自身も付いて行かれてもよいのでは? 国外で静かにその活躍を隠して生きるのも、一つの幸せかもしれない。侯爵閣下の配慮した土地、その支援を受けての留学となりますが」
政治からも宗教からも縁遠い土地で、再起しろ。
子供たちが成長したら、国内で活躍させてやる。
そう、言われていた。
受けていいものか、これは新たな闇への誘いなのか。逡巡し、相手の意図を計りかねる。
と、脳内で声がした。
エルリオのものだった。
『帝国はいい。魔法が強い。宗教よりも法律が成長した文明国だ。選ぶなら、悪くない選択だね』
(神よ――。こんな時にだけ神託ですか!)
あれからしばらく連絡がないと思っていたらこれだ。
人心を超越した存在の考えることは理解が及ばないものだった。
受ければいいと、エルリオは言う。
それが最善なのだろう。
「では――」
それから半年して、ミリアと家人、息子たちを含めた男爵一家が、帝国へと移住した。
そこには、人の姿を取ったエルリオもなぜか、同行していたという。
不遇だった男爵夫人は、こうして幸せを手にした。
++++++++++++++++++++++++++++
小話:エルリオ、帝国に行く
ミリアに帝国行きを薦めてからしばらくの間、神の空間でエルリオは物思いに耽っていた。
世界を作り上げてからさまざまな勇者や聖女などを見てきた。
しかし、ミリアのように人生のやり直しを成功させた例を他に知らなかった。
『母の愛情は強いというけれど。まさか本当に魔女を打ち滅ぼすなんて、ね……びっくりだ』
帝国に渡るための支度に忙しい男爵邸の中を覗き込む。
気丈な女男爵は、てきぱきと家人に差配を下していた。
「あれは要らないわ。それは無駄だから捨てて。そっちは持って行きます。早く梱包を!」
彼女の夫である男爵が国王の命令によって処刑されてから約二週間。
同じように罪に問われた伯爵家も同様に断罪された。
伯爵も男爵も、最後はみすぼらしく命乞いをして泣き喚いたと言う。
そんな事には興味がなかったから、エルリオはミリアが気を落とさないかと思い、彼女だけをずっと見守ってきた。
『君はすごいね。どうしたらそんなに強くなれるの?』
見ていたら退屈だったから、紛らせようとミリアに話しかける。
そうしたら、彼女にとって不意打ちも良い所だったらしい。
引っ越しの忙しさに心が躍るのだろう。
手間のかかる子供たちに何やら彼女は言い聞かせていた最中だったから、邪魔をしてしまった。
「主!」
『ひぇっ』
誰何の声とともに、天を睨むミリアがいた。
その視線に怒りが混じっているのを感じて、エルリオは母親に叱られた子供のように飛び上がる。
創造主なのに、母を知らない彼にとって、ミリアはどこか母性を感じる間柄だったからだ。
「この忙しいのにいきなり話しかけてこないでください!」
『いや……ほら、ね? 僕から神託を下すとか、とても名誉な――』
「神託ではなくて単なる暇つぶしでしょ……」
『いや、それは』
バレている。
神は背中に何か嫌な汗をかいた。
これも初めての経験だった。
「お願いです、エルリオ様。今とても忙しいの、子供達が言うこと聞いてくれないんです。でも、あなたに何かを望むわけではありません」
『つまり、僕は何をしていればいい?』
「邪魔をしないでください」
『……うん』
魔女を撃退した一件以来、ミリアは本当に強くなった。
神すらもにらんで怯ませる程度には。
こんなに強い女性がいるんだったら、もうこの世界は魔族をせん滅できるんじゃないかな?
思わず、エルリオはそう考えてしまう。
しかし、神に人間の忙しい、なんて感覚が通じるはずがない。
「神は神のなすべきことがあるのではないのですか? 教会に神託を下すとか、魔族の撃退の為に、勇者を選ぶとか。聖女となるべき女性を探すとか」
『いやー……。いまって、魔王もいないし。魔族もそうそう活発に活動していないしね』
「呆れた。でもあの魔女は海外からやってきたと聞き及んでおりますよ」
見えているのかいないのか。
それはどうでもいいが、やれやれ、とミリアは肩を竦める。
これから行く先も海外だ。
できるならば、あちらにいる魔族とかに目を付けられたくない。
その点は、大きな心配だった。
『あの女は珍しく魔法の悪い側面に囚われたから。でも、そうだな。それは面白そう』
「は? 何が面白いのですか」
問いかけても返事が返ってこない。
やはり神の気まぐれだったか。
ため息を一つ。
それから後ろに何かを感じ、まだ家人がいたのかとミリアは振りかえって、彼を見る。
現世に最も縁が薄い神がいた……ミリアは、あんぐりと口を開けた。
「いや、海外の魔族に狙われたら面白いかなって」
「……エルリオ、様!?」
「降りて来ちゃった。帝国行きに同行してもいいかな?」
「なっ、ななっ……!」
「僕がいれば、君の家族は永遠に安泰だね」
「ふっ、ふざけないで下さい!」
人間というものは動揺すると正確な判断ができなくなることが多い。
ミリアは思わず、手近にあった小ぶりな花瓶を手に取ると、その中身を神に向けてぶっかけていた……。
二万字近くの本文をお読み頂きまして、誠にありがとうございます。
これからも楽しめる婚約破棄ものを書いていければと思います。
いいね、評価などいただけましたら励みになります。
どうぞよろしくお願いいたします。