初恋にさようなら
貴族としての領地をもたない、一代限りのウォード男爵は、一年の大半を妻、つまりわたしの母と、王都で過ごしているらしい。
王都までは馬車で一週間ほどかかる道のり。
「向こうには何でもある」と言われたけれど、わたしは結局、ほとんど荷物を減らすことができなかった。
はち切れそうに膨らんだ、トランクケースは閉めるのも大変で。
旅の途中で蓋が開いてしまいませんようにと、祈りながら鍵をかけた。
立て付けの悪い扉と軋む廊下。
落書きと染みだらけの壁に、間延びしたわたしの黒い影。
足を止めて、窓の外に目をやれば、空はいつの間にか茜色に染まっていた。
(思ったより、支度に手間取ってしまったみたい)
情けないことにわたしは、この孤児院を離れる寂しさと、今必死になって戦っていた。
けれど、記憶にもない両親に会いたい気持ちもまた、嘘じゃなくて。
それにわたしは、ラウルさんが、身内が今までお世話になったお礼にと、孤児院のために多額の寄付金を用意したことも知ってしまった。
わたしが感じた寂しさは、誰のためにもならないもの……。
わたしは唇を引き結んで前を向いた。
「アリス!」
そのときだった。
聞き慣れた声が、わたしを呼んでくれたのは。
「本当に行くのか?」
「リゲル……」
少し先の廊下には、燃え盛る夕陽を背負って立つリゲルがいた。
逆光で、彼の表情はよく見えない。
わたしは――と言うと、この期に及んで期待する、諦めの悪い初恋があさましくて、きゅっと、トランクケースの持ち手を握りしめた。
同じときを過ごし、たまたま見つけた玩具で遊ぶような、とても親しい異性の友人。
わたしたちは、ただの、幼なじみ――。
「もしかして見送りにきてくれたの?」
わたしは努めて平静を装って尋ねてみた。
でも、リゲルの様子がなんだかおかしい。
「行くなよ……」
「え?」
「俺を、置いて行くなよ……」
(それって、どういう……?)
無難な言葉ばかりを、選んで生きてきたツケが回ってきたのかもしれないわね。
こんな大切なときでさえ、わたしは頭に浮かんだ問いを、素直に口にすることができなかった。
わたしにできた芸当は、泣きたい気持ちに蓋をして、精一杯明るくふるまうことだけ。
「わたしは行くわ! 王都で運命の恋を叶えるの!」
それでもわたしは、最後にせめて、リゲルと再会を誓いたかった。
立ち尽くしているようにも見えるリゲルと、一歩ずつ距離を詰めてゆく。
そして。
覗きこんだ幼なじみの顔は、今まで見たこともないくらい苦しそう……。
リゲルも、寂しいんだ。
「俺では、お前の……」
ところが――。
リゲルが何かを言いかけた、その刹那。
わたしの身体は後ろに強く引っ張られた。
気がつけば、ラウルさんの腕の中――。
「アリスは見た目に寄らず悪い子だ。急いで準備をするように言われただろう?」
ふんわりと包み込む熱と、優美な外見とは不釣り合いな逞しい腕。
ラウルさんの低音がひどく重たくて、わたしは肩を縮こまらせた。
「ご、ごめんなさい……」
「わかったならいいんだ。さぁ、行こうか」
わたしはラウルさんに肩を押されて、リゲルの横をラウルさん越しに通り過ぎる。
「アリス!」
リゲルがわたしの背中で叫んでいた。
「振り向かないで。ご両親が待っている」
ラウルさんは柔和な笑みを浮かべていた。
「必ず会いに行くからな! 待ってろよ、アリス!」
初恋の男の声が突き刺さる。
わたしは耐えきれず、振り返ろうとしたけれど。
「またいつでも戻ってこられるさ」
ラウルさんは振り向くことさえ許さずに、大きな身体で、リゲルからわたしを隠してしまった。