恐ろしい犬
吠えられていたのは、小型犬を抱いている若い女性。ふわふわな小型犬は、垂れた耳にかわいらしいピンクのリボンをつけている。
恋人らしい男性も近くにいて、勇敢な彼は怯むことなく、ふわふわな犬を腕に抱く女性を、その背中に庇っていた。
(大きな犬……。野良犬かしら……?)
マダムの話は続いている。
「若いお二人に野暮なことは申しません。――ですが、痕は残さないようにしてくださいよ。せっかくご用意した社交界デビューのドレスが、着られなくなってしまいます」
「まったく。マダムには敵わないな」
実際の距離よりずっと遠い意識の外で。
二人は会話を、終らせたのかもしれないわ。
(噛まれでもしたら……)
わたしは相変わらず、気が気じゃない時間を過ごしていた。
「待たせたね、アリス。出発するよ」
大きな手が肩に置かれてハッとする。
「あそこ、犬が……」
わたしは通りの向こうを指差した。
だけど、ラウルさんは動じない。
「首輪をしているだろう。あの犬はよく飼い主のもとから逃げ出して、女性や雌犬を見つけると、見境なしに吠えたてるんだ。そろそろ、飼い主のところの使用人が迎えに来るはずなんだが――」
「たしかに、青い首輪をしています」
ちょうどそのタイミングで、犬の名前を呼びながら、リードを持った男性が走って来る。
気弱そうなその彼は、前肢を浮かせ、まだ女性とふわふわな犬に向かって吠えかかろうとする犬を、綱引きのようにどこかへ引っ張って連れていった。
「良かった……」
(誰も怪我しなくて……。大きな犬が、誰も噛まずに済んで……)
「怖かったんだね」
ラウルさんは、わたしの頭を優しく撫でた。
* * *
そうしてわたしたちは、マダムに見送られて馬車に乗った。
並んで座る馬車の中で、口から零れ落ちたのは、考えなしの素朴な疑問。
「犬、あまりお好きではないですか?」
吠える犬にもふわふわな犬にも。ラウルさんはどちらにも、あまり興味がないように見えたから。
「さてね」
窓枠に片腕を置くラウルさんは、わたしと視線を合わせることなく、犬が消えた方向を見つめていた。
(犬に嫌な思い出があるのかも……)
もしかして、聞いてはいけないことだった?
窮屈そうに組まれた、ラウルさんの長い脚を見つめていたら、何とはなしに悲しくなって。
痛みを伴う沈黙の帳が、ひどく重たく、息苦しく感じられた。
「犬は好きだよ」
だからラウルさんに答えをもらえただけでホッとしたの。そのときは、続けられる言葉に胸がざわつくことになるなんて思わなくて。
「――だが。さっきの犬みたいに、行儀の悪い犬は嫌いだよ。アリスも私と同じだろう? 君にこそ、粗野な犬は似合わない」
わたしはラウルさんの定義を受け入れて頷いた。
彼の視線が、ほんの少しだけ下にずれる。
「万が一。噛まれて、痕でも残ったりしたら大変だ。未婚の貴族の娘なら尚更ね。人に見られでもしたら、もうどこにも嫁けやしない」
わたしは自身の首もとに手を添える。
出掛けに刻まれてしまった、血の――。
「ラウル、さん……?」
手で隠した部分が熱をもつ。
ラウルさんに、透かして見られているような、羞恥と錯覚を覚えてクラクラした。
(ラウルさんは、わたしなんかよりずっと大人で……)
「ラウルさんは――」
「粗野」とは対極に位置する男。
「俺が、何?」
「俺」と言ったラウルさんは、また視線の中心にわたしを戻す。
「あ、えっと……何でもない、です……」
わたしのウォード家での生活は、ラウルさんに支えられていたし、彼に頼っている部分も多くあった。
自意識過剰な娘だと、思われて失望されたくない。ようやく手に入れた幸せを、失ってしまうことが怖かった。
再会したときの、両親の顔がちらつく。
「アリスには、指一本触れさせない」
ラウルさんは、ここにはいない誰かに向かって、決意表明みたいに呟いた。
だってラウルさんは、また窓の外を見ていたから。
彼の言う、「行儀の悪い、粗野な」犬はもういないのに――。




