あなたの理想の妻を買いませんか?
昼休みのオフィスは、大きく二つに分けて『弁当組』と『外食組』に分かれている。
私は『弁当組』の中でも『愛妻弁当組』に属する訳だが、如何せん胸を張って自慢するには些か……いや、大分その味には問題があった。
(何故ブロッコリーから有機溶剤の臭いがする!?)
まるでシンナーで煮込んだかの如く、弁当からは強烈で特徴のある異臭が放たれていた。この臭いがオフィスに充満する前に食べきるのが、私の密かな仕事である。
妻は所謂『メシマズ組』だ。ある意味『飯テロ』と言っても過言では無いくらいに、食事と言う概念をぶち壊してくれるアーティストだ。今日も常軌を逸した手料理が家で待っている。だから私は残業もそこそこに、足早に自宅へと向かうのだ…………
「もしもし、そこのメシマズサラリーマンさん?」
自宅近くの公園の傍を歩いていると、公園のベンチに腰掛ける老婆に声を掛けられた。もしや妻のメシマズ振りが露見して、近所で噂になっているのでは!? と、思わず足を止めてしまった。
「…………?」
老婆は何も言わず、私の方を見つめている。私は気味が悪くなり、帰路の足を踏み出した。
「メシウマになりませんか?」
私の足が再び止まる。やはり妻の手料理が近所で評判になってしまったのだ。だからあれ程手作りのお菓子を近所に配るなと口を酸っぱくして注意したのに……!!
「妻の不手際?で気分を害したのなら、私が代わりに謝罪致します。しかし、私はそれを含めて妻を愛しておりますので……」
暗闇へと続く道路の先を見つめながら、私は老婆へ敵意を向けた。そこに何の意味があるのかは私にしか分からない。そこを崩してしまっては、あの時意を決してしたプロポーズに意味をなさなくなってしまう。あの時の自分を裏切るまねだけはしたくなかったのだ。
「いえいえ、私はただ、あなたのお嫁さんが料理上手になる為のお手伝いをさせて頂きたいのです」
「?」
私は思わず再び老婆の方を向いた。
「ヒヒヒ、私はね……理想の相手を探すお手伝い……いえ、お代は勿論頂きますが、貴方の理想の妻を与えることが出来ますのじゃ」
「結構です」
逃げるように歩き出してしまう。それは心のささくれを見られた事から来るものであろう事を否応なしに突きつける物であり、不気味な老婆はそれでも尚、私に向かって追い打ちを仕掛けてくるのであった。
「本当はメシウマが良いんじゃありませんかねぇ!?」
老婆の強い口調に私の足が止まった。それが肯定を示す事であることは、私自身が認めるしかない。あの時の自分にウソはつけないが、やはり妻の手料理は常軌を逸している…………。
松ヤニの塊のような野菜炒めと、苦汁を圧縮した謎の物体を泣きながら胃に押し込み、私は妻にこう言った。
「明日久々にはハンバーグが食べたいなぁ」
洗い物をしてくれている妻が「ハンバーグなら一昨日食べたじゃん?」と笑った。あの砂の塊がハンバーグだったとは……。
「ま、でも食べたいなら作るわ」
私は心底ホッとした。そしてベッドへと潜ると、老婆とのやり取りが思い出された。
「今日はサービス致します。信じて貰うためのお試しですのじゃ。明日、妻にハンバーグを頼みなされ。ハンバーグだけ、メシウマにしておきます故……ヒヒヒ」
にわかには信じ難い話ではあるが、私の深層心理が妻のメシウマを望んでしまった事を今更ながら認めるしかない。結局私は昔の自分を裏切り、今の自分を優先してしまったのだ。やはり人間は都合の良い方に動くように出来ているようだ。
「なんやコレ!?」
向こう三軒両隣に響き渡る程のアホボイスが私の口から出た事に、私自身が一番信じられなかった。何より、目の前にある紛れもないハンバーグとやらに、私自身夢か現か幻か、全くと言って良いほどに困惑していたのだ。
「こ、これ……作ったのか?」
「そうよ! どう? どや!? どやぁ!?」
ほれほれ、とエプロン姿の妻がハンバーグを一口大に切り、フォークに刺して私の方へと向けてきた。私は躊躇うこと無く、真のハンバーグを受け入れた。
「ハンバァァァァ……ッッッッグ!!!!」
私はその一口で堕ちた。ハンバーグがこんなに美味いなんて知らなかった。いや、知っては居たが忘れていた。そして目を背けていた。嗚呼……ビバ、ハンバーグ…………!!
「如何でしたかのぅ……ヒッヒッヒッ、いやいやその顔を見れば分かりますわいヒヒヒヒヒ!」
夜の公園に、老婆の声が響いた。私は顔が赤くなる思いだったが、もうウソをつくのは止めにしよう。ハンバーグの美味さは本物だ。それは紛れもなく真実だ。
「あんな美味いハンバーグは本当に久し振りだった……」
「では、他のメニューは如何ですかい?」
「…………幾らなんだ?」
率直で現実的な疑問がハンバーグの中から現れる。メシウマの為なら躊躇わず金を払ってしまうようになった私を、妻は許してくれるだろうか…………。
「メニューは一つ二万円……」
「高っ!!」
「でも美味かったのじゃろ?」
「…………」
その言葉にぐぅの根も出ない。
「ヒヒ、安心しなされ。『メシウマセット』なら三十万で全てのメニューがメシウマになりますぞい?」
「三十万!? 全部!?」
私は色んな意味で腰を抜かした。三十万という大金。そして全部という喜びだ。
「効果は一生保証致しますぞい」
妻の一生より遙か前にくたばりそうな老婆が、ベンチから立ち上がり公園の敷地を区切るフェンスに手を添えた。しわっしわのその手は実に恐ろしく、不気味な枝のようであった。
「……今、手持ちが無い」
三十万の現実から逃げるように、私は言葉を無理矢理捻りだした。
「PayPay使えるぞい?」
「買います買います!!」
しかしメシウマの理想にどっぷりと浸かってしまった私には、抗う余裕すら無かった。
それからというもの、妻の手料理は激変し、プロの料理を超えた理想の手料理へと変貌を遂げた。最悪から最高へ変化した事により、私は新婚時代よりも幸せの絶頂にいた。
「美味い! 美味いぞ!!」
ガツガツと荒々しくカツ丼と青椒肉絲を頬張り、至福の時を過ごす。食べ終わると、ソファに寝転がり余韻を楽しんだ。
「あー幸せ……」
しかし、そんな幸せは長く続かなかった。
ふと、目に付いた物干し竿にかかる洗濯物。妻が洗って干してくれたシャツは、僅かながらにシワを呈しており、今まで気が付かなかった(正確にはメシマズに隠れていた)が、部屋の隅に埃が溜まっていたり、食器の洗い残しだったりと、実は妻は家事が下手なのではないかという疑念が頭を過った。
(いやいや、メシウマになったんだ。これくらい俺がやれば良いじゃないか……)
エプロン姿の妻が食後のお茶を運んでくれた。
「ありがとう。青青絲絲、美味しかったよ」
「青椒肉絲よ、あなた」
二人で笑い、お茶をすする。キッチンに戻る妻を横目で観る。そして私は悪魔のような思考に至ってしまった。
(凹凸が少ないな……)
それは所謂欲張りであり、私は妻の優しい性格に惚れて結婚したのだ。だから、これ以上は高望みであり、ただの自己満足だ。それを深く自分に言い聞かせるように『いつからそんな小さい男になったんだ。しっかりしろ!』と、何度も何度も心の中で反復した。
「もしもし、そこのメシウマサラリーマンさん?」
いつもの帰り道、いつもの公園で老婆に声を掛けられた。相変わらずベンチで不気味に座っており、奇妙な笑い声を私に向けている。
「その節はどうも」
会釈して足早に通り過ぎようとする。それは罪悪感からくる焦燥感。そして、私が欲する最大の証であった。
「掃除洗濯ありますよ?」
「──!!」
「……乳もありますぞぃ?」
「…………」
頭の中で宮川〇輔があの踊りを始めた。しかし、これ以上はいけないと、泣きながら警鐘を鳴らす最後の良心を無視するわけにはいかない。
「またお試しするかのぅ?」
「──!?」
警鐘を鳴らす力が弱くなり、申し訳程度の音しか聞こえなくなる。
「お、お試しだけだぞ……?」
「ヒヒ、結構結構」
そして老婆から逃げるように、私は家へと走った。既に頭の中は妻の乳のことでいっぱいだった。
「ただいま」
極めて冷静を装う仕草で家へと入ると、ドタバタと騒がしい足音が鳴り、胸を押さえた妻が玄関まで飛び出てきた。
「あなた!! 大変なの!!」
やたら胸を押さえた妻。私の視線はもう胸に釘付けである。
「急にブラが弾けてね!!」
「お、おう……」
早くその腕を退けてくれ。はよう見たい、はよう見たい。
「片方だけGカップになっちゃった!!」
妻が腕をよけると、服の上からでも明らかな、実りに実った御Gカップ様が目の前に鎮座なされた!
「!?」
お試しだからだろうか、酷くアンバランスなその乳に、嬉しさと悲しさが同時に過る。残酷なビフォーアフターがチカチカと酷く私の冷静の情熱をハンドミキサーにかけてゆく。
「どうしましょうあなた!?」
困っているような嬉しいような、困惑と笑顔が入り交じる妻を見て、私は今閉じたばかりの玄関を開けた。
「どこ行くの?」
「ちょっとコンビニ」
「そう。早く帰ってきてね? ご飯冷めちゃうから」
私は返事もせずに、足早く、公園へ向かってしまった。
「PayPayかい?」
老婆がしたり顔で戻ってきた私を見た。
「幾らだ!?」
興奮冷めやらぬ私は、公園のフェンスから顔を突き出し、老婆の答えを窺った。
「Gで500万」
「ご、ごひゃ!?」
「本物なら、安いくらいじゃよ」
「お、おおおぅ!?」
警鐘を鳴らす役人が小さく鐘を二つ鳴らした。妥協せよとのお達しだ。なるほど、確かに御Gは望みすぎである。
「Dなら?」
「94万」
「……Eは?」
「120万じゃ」
「エッフ」
「300万」
「Eでお願いします!!」
夜にもかかわらずも大きな声を出してしまったことを軽く恥じ、私は老婆に別れを告げた。早く帰って妻を見たいのだ。
「オマケで尻も少し付けといたぞ。今夜は楽しめ」
「ありがとう!」
私は走って帰り、家の扉を開けた!
妻は!? 妻を見たい……!!
「あら、おかえり」
「お、おぉ……おぉ……!」
私は感動で言葉が上手く出なかった。そこには確かに豊かな果実が二つほど実っており、とてもじゃないが昨日までと同一人物とは思えないほどに見違えて見えたのだ!
「そ、その胸……」
「えっ? ああ。なんか片方だけ凄かったのが暫くしたらバランス良くなってね? 一体何だったんだろ……ま、大きくなったからいいか!」
突拍子もない奇々怪々にもケラケラと笑い飛ばす妻を、私は久しぶりに後ろから抱き締めた。
「こらこら」
「……ね?」
「……もぅ……」
それから、私は我武者羅に働いた。かなりの大金を妻につぎ込んでしまったので、その分を取り返すべく、ひたすらに仕事に打ち込んだのだ。おかげで係長に昇進し、給料も少し上がった。
「うむ! 仕事の後の飯が美味い!」
「そう? 良かった♪」
「あ、そうだ。会社の人からお菓子を貰ったからあげるよ。スーツのポケットに入ってるから」
「ありがとう」
「あ、明日は会議で少しだけ遅くなるから、先に休んでて」
「…………分かったわ。あ、ゴメンなさい。お醤油を切らしてしまったからコンビニに行ってくるね?」
「はいよ」
──お菓子にこっそり添えてあった可愛らしい手紙、そこには悪い虫の嫌らしい鳴き声が綴られていた。
「ヒヒ、そこのパーフェクト奥さん……」
「んーん、まだまだ完璧には、ほど遠いわ」
「今度は何をお買い上げで?」
「仕事熱心になったら、何処ぞの汚らしい女が寄り付くようになっちゃった……」
「貴女だけにお熱なら、200万じゃ」
「相変わらずの高値ね。でも、私はそこまでは望まないわ」
「……ほぅ」
「他の女と浮気しても良いわ。でもね、やっぱり何処か満足できないように出来るかしら? そして浮気の罪悪感で私を蔑ろに出来なくしてよ」
「ヒヒ、それなら15万もあれば……」
「明日、振り込んでおくわ」
薄気味悪い老婆から離れ、コンビニへと向かう。手紙を破り捨て、菓子ごとゴミ箱へ投げ捨てた。手頃な醤油を買い、足早に家へと戻る。
何でも買ってくれて、私だけに愛情を注いでくれる仕事熱心な夫。理想の夫まで、もう少し…………。