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記憶力の問題  作者: つっちーfrom千葉
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第一話

知性高い主役:コルガン青年


事件のあらましの聞き手:ロンド青年


盗みを働いたと思われる人物:エドガー氏


 知性高いコルガン青年は、幼少の頃から努力というものを嫌い、学業終了後はボヘミアン人生を望んでいた。大学の授業においても、出席すること自体をほとんどしない、という大変な暴挙に出ていた。当然のことながら、運命の夏季試験日には、次の学年への進級を賭けた一夜漬けを余儀なくされる。持ち前の機知により試験を乗り越えた彼であったが、自室に戻ってみると、ドアには厳重に鍵がかけられていたにも関わらず、封筒にしまわれていた、実家からの仕送り金の一部が盗まれていることに勘づいた。冷静沈着なコルガン青年は、わずか10分足らずの思考において、気立てのよい隣室の友人を容疑者として捕らえ、そのまま警察に引き渡す。犯人特定の決め手になったものは、いったい何だったのだろうか?


 記憶力をテーマにした簡単な推理小説です。サスペンスではなく、コメディ寄りにしてみました。道に横たわる、どんな試練においても、額に汗を流してこれに取り組む、努力というものを一度もしたことがなかった。


『困ったことは、それが起きてから動いても十分に間に合う。慌てている姿を他人に見せることはかえって損だ』


 人生の道の途上で出会うどんな人物に対しても、彼はそんなことを言ってやるつもりだった。コルガン青年の両親は才能のある息子への過大な期待から、この国でも上位の大学へと進んでくれることを期待をしていた。しかし、遊びたい盛りの彼には、そんな地道な努力や研究を積み重ねるつもりは露ほどもなかったのだ。現在ハマっているのは、数論や政治学概論ではなく、1960年代に出版された、アメリカンコミックの収集と、アコースティックギターの演奏であり、ハイスクール卒業後は田舎町の静かな湖畔に、お手ごろ価格の別荘でも購入して、うるさい両親や世間から隔絶された、ボヘミアン生活を送ることを強く望んでいた。


 しかしながら、学校の名聞に常にこだわる先生方は、そのような戯言を許すわけもなく、地元からの強力な推薦を得て、普通の学生なら、余程の努力を積み重ねなければ、到底その門をくぐることを許されない、名門ハバフォード大学の教養学部へと、本人は決して望まぬ進学をすることになった。まあ、世間にはよく転がっている、妬ましい人生の一つだと紹介してしまえば、それまでなのだが。


 その日、コルガン青年は近所に巣をもつ小鳥たちがさえずるよりも、ずっと早い時刻に目を覚ました。この快挙は約二ヶ月ぶりのことであった。たちの悪い夢に執拗にうなされ、寝つきが悪かったせいではない。今年、留年することになるのではと、疑っている両親による突然の自宅訪問を受けるわけでもない。端的にいえば、今日この日が夏期試験の当日であったためである。授業の八割以上を平気で欠席するような品行の悪い学生や、スラム街の路上や競馬場のロビーや売春街で寝泊りをするような不届き者であっても、この日だけは、なぜか、がん首を揃えて、試験会場にやってくるのだ。ほとんどの授業を日々真面目にこなしながら、健全な学生生活にまい進する一般の生徒が、見慣れない多くの悪ガキの顔に出くわすのも、この日だけである。己の数年後の生活のことや、この国の将来などを、一切顧みない不良どもが、久しぶりに出会う教授から、手酷い叱責を喰らわされるためだけに、わざわざ、この校舎までやってくるのである。それは、このイベントをすっぽかすことによって、後々もたらされるであろう、様々な致命的ともいえる不利益が己の身に迫ることを、恐れているからである。


 この有能なコルガン青年も、ご多分に漏れず、この日を特別な一日と位置づけ、試験の準備のために、いつにもなく確かな焦りをみせていた。今日の試験科目は確率論とロシア文学という、真っ当な学生たちが考えうる限りでは、およそ最悪の組み合わせといえた。一夜漬けの天才という、学生としては不名誉な通称で周囲から呼ばれている彼にしても、これらの教科に限っては、参考書や解説書を用いた長時間にわたる予習は欠かせないものであった。大学寮の狭い一室はすっかり荒れ果ててしまっていた。部屋の内部のあちこちに、うず高く積まれた雑誌や新聞紙の切り抜き、ロンドンの市街地の写真集、すでに表紙の色の褪せたアメコミなどの下から、名だたる文人の著した名著の数々がかろうじて顔をみせている始末だった。もうひとつ、彼が必要としたものは、学生たちの成長などよりもむしろ、金と名声の方を強く望んでいる、中途半端に名の知れた教授たちが、その生涯をかけて著した売れない参考書のたぐいである。彼はその内容をほとんど確かめることもなく、普段なら絶対に目を通すことのないそれらを、次々と引っ張り出して茶色革の鞄に詰めていった。


 この寮から大学の構内までは、学生の歩行速度でも十五分とはかからない。いや、朝食を抜いて、歯磨きもせずに、何の未練もなく、この部屋を飛び出して、どこに寄ることもなく裏道を最短で突っ走り、朝練に汗を流す、アメフト部の練習を鼻から無視する形で、運動場のど真ん中を強引に突っ切っていけば、およそ七分後には試験会場にたどり着くことも可能だろう。そうすれば、おおよそ二時間ほどは、二つの難関試験の予習にあてる猶予の時をもてるわけだ。もちろん、授業をほぼすべてボイコットしている身の上で、この短時間の補習において、学部の上位ランカーになりたいなどと願うことは無謀といえる。たとえ宗教学の生徒であっても、そのような無茶な願望は許されないだろう。しかし、それだけの時間的猶予があれば、参考書の主要部分に、二度ほどは目を通すことができる。落第を免れるだけの最低限の成績であれば、取りあえず収めることができるだろう。大学卒業後、風来坊になることを夢見る人間にとっては、長期間の絶え間ない努力を重ねて、学部でも上位の優秀な成績を収めて大企業から優待を受けるなどという、成功者特有のストーリーはまったく不要なのである。


 彼は自分の趣味に支障をきたさない程度の、必要最低限の努力をすることによって、かろうじて落第しないだけの点数を得ることだけを、心から希望しているのである。彼は部屋の隅々からかき集めてきた参考書のたぐいを、リュックの中に半ば強引に詰め込んでいくと、最後の段階として、数日前から買い置きしておいた、投げ売りのコッペパン三つと皮が変色したバナナを、その上から両手で押しこんだ。そのままの勢いでリュックを背負うと、いざ、部屋から飛び出して行こうかと身構えた。しかし、不意に何らかの霊感に打たれたような気持ちになり、立ち止まった。そして、自分の荒れた部屋を十分に見回すために、もう一度振り返って辺りを見回した。彼は五分ほどの間、そのままの姿勢で立ち尽くした。自分の未来に起こり得る、危機的な何かを想像したのである。それは、この雑多な部屋の内部に不自然に漂っている不穏な空気から感じられる、あらゆる可能性の問題であった。


 彼はゆっくりと動き出すと、窓のすぐ側にぞんざいに転がっていた、アメコミファン垂涎の一品である『Tales to Astonish』第27号を拾い上げると、そのまま、部屋の中央付近に転がっていた、真っ白な封筒の上に丁寧に重ねた。さして間を置かず、今度は部屋の左奥の隅にある、木製のテーブルの下にいつからか潜り込んでいた、マリリン・モンローの死に関する陰謀論を500頁以上に渡り延々と解説した迷著『謀殺された妖女』を拾い上げ、ペラペラと何ページかめくると、何度か意味ありげに頷き、彼女の最大の特徴でもある色っぽい唇にいくらか名残惜しそうな素振りを見せてから、その本を閉じて、その塔のさらに上に重ねた。そこまでしたところで、コルガン青年は一度動きを止めると、口元に手を当て、少しの間、方々に思いを巡らせた。彼は壁についている薄いシミを気にして、指先で何度かこすってみた。その薄い汚れは相当に古くからのもので、なかなか落ちなかった。自分には若干神経質なところがある、彼は常にそういう認識を得ていた。


 やがて、テーブルの上のノートパソコンにかぶせてあった、読みかけの名作、トマス・モアの『ユートピア』を拾い上げると、その表紙をじっと眺めた。元々は三年ほど前に「題名だけは聴いたことがある」という興味本位のみで、ハイスクールの図書館から借り出してきたものである。生来のめんどくさがりと厄介な性分が本領を発揮したため、学校を卒業までに返す機会を失ってしまい、まことに遺憾ながら、もはや、自分の所有物となっていた。表紙には若き自分が、授業中の退屈を紛らわすために書き記した、意味のない数々の落書きが残されていた。その中に、かなりの達筆で書かれてはいるが、これだけは何とか意味の読み取れる一文が存在していた。彼はその単純なる文章の意味するところが、今現在もまだ、教訓として生きていることを知っていて、この長い歴史を持った貴重なる本に目をつけたのである。先ほど、自ら作り上げた積み本の塔の、さらに上に、そのままの形で置こうとしたようだが、逡巡の末、わざわざ、それを裏返しにして、つまり、背表紙を上にして積み重ねた。


 彼の今日の日程スケジュールからすれば、大量の単行本を淡々と積み上げていく作業などに熱中している余裕はまったくないはずで、来年の春に他の学生同様にきちんと進級したいのなら、一刻も早く大学の講堂へと馳せ参じる必要があるはずだ。しかし、彼はなぜだか、その徒労とも思える作業をやめられなかった。部屋の内部に無数に転がっている、案内書、参考書、解説書、手引書のたぐいを、ほとんどランダムに拾い集めて、先ほどの積み本の上に、さらに乱雑に重ねていくのだった。こちらから、その奇妙な行為を見ている限りでは、その順番については、もはやどうでもいいようで、丁寧に寸分ズレずに置いたり、あるいは、部屋の隅から、山の頂上めがけて放り投げてみたり、気持ちの向くまま様々な方策で、その本の塔を積み上げていくのだ。それから、ものの15分も経たぬうちに、その立派な塔の高さは、彼の身長をも、ゆうに越えるほどになった。積み上げた書籍の総数は140冊以上にもなった。彼はその出版物の山を下から見上げると、満足そうに一度うなづき『まあ、これなら大丈夫だろう』と独りごちて、今期を賭ける試練へと向かう覚悟を今度こそ決めたようで、足早に玄関へと向かい、ドアを勢いよく押し開けて、試験会場へ向けて颯爽と走り去っていった。もちろん、このドアには、しっかりと鍵がかけられていることを、ここに追記しておいた方が良いだろう。


 

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