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馬車に乗って四半刻もしないうちに、速度がゆるゆると落ちてきて、アシュリーは小窓から外を覗いた。
灰色の壁しか見えなかったが、馬車が完全に停止すると、柵が見えてくる。その向こうにあるのは、アシュリーが生まれてこの方、目にしたことがないくらい、大きな屋敷だった。
馬車が止まったからには、ここが目的地のはずである。
「……ここに住むわけじゃないですよね」
ハルベルト候の屋敷がここだとしても、自分が住む場所は別だろうと思い、アシュリーはガードナーに確認した。
「なぜそんな面倒なことをするんだ。ここに住むに決まっているだろう。心配しなくとも、君の部屋は豪華な客室などではなくて、屋根裏部屋だ」
「屋根裏部屋なんですか!?」
アシュリーは歓声を上げた。まだまだ屋根裏という言葉にテンションが上がる年頃なのだ。こんな立派な屋敷の屋根裏部屋に住めるなんて、贅沢の極みだ。
柵の門扉が開いて馬車が再び動き出した。アシュリーは感動しながら屋敷を見上げる。ガードナーが渋い顔をしていることは、もちろん気づいていない。
馬車から降りた後も、アシュリーはせわしなく辺りを見渡した。前庭も広くて素晴らしい。植木で作られたオブジェや、小さな噴水まである。
「王都にはこんな立派なお屋敷がたくさんあるんですか?」
ガードナーは面倒になったのか、アシュリーの質問には答えずに、さっさと玄関に向かってしまう。アシュリーは慌てて後を追った。
少しはしゃぎすぎてしまったことを反省したアシュリーは、屋敷の中へ入ってからは、大人しく黙って歩いた。ガードナーに関しては諦めたが、やはり第一印象が肝心だからだ。
ガードナーは玄関ホールの大階段の横を通りすぎ、廊下を歩くと、やがて一つの扉の前で止まった。
深呼吸をした彼が扉をノックする。すると、中からくぐもった短い声が聞こえた。
「ガードナーです。新しく弟子入りするアシュリーを連れて来ました」
アシュリーは驚いて服の皺を整えた。
察するに、この部屋の中にいるのはハルベルト候だ。まさか着いた足でそのまま、旅行鞄も置かずに会うことになるのは思っていなかった。言っておいてくれればいいのにと、ガードナーを恨む。
入室許可が下りたのか、ガードナーはドアノブを押した。
豪華さは比べるべくもないが、そこは孤児院の院長室に似ていた。部屋の奥に大きな仕事机があり、数枚の紙が散らばっている。
その向こうに三十歳半ばくらいの男性が座ってこちらを見ていた。肩よりも長い金髪を緩く一つに括っている。全体的に痩せて骨ばっているが、不健康という印象はない。アシュリーは町医者のおじさんを思い出した。
「君がアシュリーか」
声は意外にも若かった。
「はい。アシュリー・ベルです。よろしくお願いします」
「私がハルベルトだ。それは何だ?」
彼は会話を短くする癖でもあるのか、挨拶もそこそこにルーヴィスに目をやる。
「ルーヴィスです。月の精霊です。わたしの魔力を気に入ってくれていて、側にいてくれます。ルーヴィスもここに置いてください」
断られたら出て行くつもりでいたアシュリーは、お願いというよりも強制に近い言い方をした。隣からものすごく睨まれているのを感じるが無視だ。
ハルベルトは立ち上がって、机を回り込んで来た。
「精霊くらい構わない。しかし、月の精霊か……」
観察するように、彼はルーヴィスの前に屈んで見る。
ルーヴィスは少し迷惑そうに顔を逸らした。
「……強い精霊だな。こんな精霊に気に入られるとは珍しい。しかし、月の精霊か……」
神獣だとバレるのではないかと、アシュリーはひやひやしながら見ていたが、ルーヴィスはただ鬱陶しかったのか、歩き出してハルベルトの仕事机の上に飛び乗ると、そこに寝そべってしまった。最近気づいたが、彼は大人には態度がそっけない。
「ふむ。やはり見た目らしい行動も取るのだな」
怒ることもなく、ハルベルトは納得したように頷いた。むしろ怒っているのはガードナーだ。アシュリーは視線が痛い。
「アシュリー、君のことはしばらくガードナーと世話役のジョブスに任せる。勉強と修行さえしっかりやっていれば、後のことはある程度は融通をきかせよう。では行きたまえ」
言いたいことを言ってしまうと、ハルベルトは椅子に戻って仕事を始めてしまった。ルーヴィスが机上にいることもお構いなしだ。
アシュリーはほっとしてお礼を言うと、ルーヴィスを呼んでにこやかに部屋を出た。
でこぼことした石畳をアシュリーは歩いていた。
道沿いには商店が並んでおり、買い物客が多くいた。
しかし見たことのない風景だ。町並は色調の変化が乏しく、時代がかった印象を受ける。
アシュリーは店先に商品を並べている青果店で足を止めた。
「すみません、これとこれを……」
「帰ってくれ。あんたに売るものなんかないよ」
買い物をしようとするアシュリーの声を、店の女将がぴしゃりと遮った。
「……お金はありますよ」
答える声はアシュリーのものではなくなっていた。夢の中でだけ、聞いたことのある声。
「いくらお金を積まれても、あんたに売るものなんかないんだよ。魔女に買い物なんかされちゃあ、うちの店が呪われちまう」
嫌悪を剥き出しにして吐き捨てられたサディは、怒ることなくにこりと笑った。
「わかりました」
それが気に触ったのか、女将は憎らしげに背後で呟いた。
「気持ち悪い……」
走り出したい、と思った。
それがアシュリーの感情なのか、サディの感情なのかはわからなかった。しかしサディは何かを我慢するように、拳を握っている。
少し歩くと呼び止められたような気がした。サディは立ち止まって路地の隙間に目を向ける。知り合いの中年女性がいた。
手招きされて近づいていく。彼女は手提げの中身をサディに見せた。じゃがいもがいくつかと葉野菜が一つ入っている。
「持っていってくれ。あんたには世話になってるから」
「いいんですか?」
「ああ、その変わり、今度もうちの店が隣町まで行く時には、護衛を頼むよ。最近は魔獣が多くなって、あんたじゃないと不安なんだ」
「それはもちろん構いません」
サディはありがたく、野菜を自分の手提げの中に移した。
「ねぇ、あんなやつらの言うことは気にしないでくれよ。あんたがいなくなったら困るってことを、あいつらは全然わかっちゃいないんだ。頼むからここから出ていこうだなんて、考えないでくれよ」
「そんなこと、考えていませんよ」
彼女はほっと息を吐いた。
「それなら、よかった」
しかしその直後、サディの背後を見てひどく慌て出す。
「誰か来る! じゃ、じゃあね!」
囁くように言って、彼女は路地の奥へ消えていった。
サディは苦笑していた。
どこにも行かないでくれ。あんたが必要なんだと言いながら、一緒にいるところを人に見られるのを、とても恐がる。
それも仕方がないとサディは笑うしかない。
薄暗い部屋で目覚めて、アシュリーはここがどこだかわからなかった。
横に目を向けると銀色の毛並みがあって安堵する。そこでようやくアシュリーは、ここがハルベルト候の屋敷の屋根裏部屋なのだと思い出した。
夢の余韻がまだある。
アシュリーはルーヴィスの体に抱きついた。
「……アシュリー? どうしたのですか?」
眠りの浅いルーヴィスはすぐに起きてしまった。
「ううん。屋根裏部屋って結構寒いんだね」
夢の内容をルーヴィスに話すのは憚られて、アシュリーは寒くて抱きついたことにした。ふわふわの毛並みに顔を埋める。
アシュリーは孤児であることから、他人に心ない言葉を投げつけられたことはある。
でもあの夢の中のように、嫌悪にまみれた言葉と視線は初めて体験した。夢の中でアシュリーはサディだった。
とても辛かった。